まーもはやどうでも良くなってきている感覚が強いのですが。
指導をすることに関して。私自身思うことはあります。様々なことに我慢して指導することは意味があるのかどうか。結果的に県で勝ったらインターハイに行く事ができればそれは「意味がある」こととして評価されるのかもしれません。が、どこかに「押し殺されている感情」が存在します。私が「本当にやりたいこと」を我慢して周囲に合わせてやっていく事で物事が上手く回る部分もあると思います。それにより「自分自身」が存在しなくなったとしても。
私自身は「少しのことにこだわりたい」と思ってやっています。もう時代に合わないのかもしれないなと思っています。もっと気楽に適当にやっていく方が多くの人がストレスを感じずにやっていけるのだと思います。しかし、それでは「最大限の力を引き出す」ことはできないのではないか。それさえも求められていないのかもしれません。
数センチに対しての拘りがあります。そこは多くの人にとって「別にどうでも良い」と思われる内容かもしれません。しかし、本当にやりたいこととしては「距離設定」や「バトンが渡る位置」などがズレるのは許容できません。それで失敗して負けたらどうするのか。勝つためにやるというのはシビアな部分だと思っています。そこに対してどれだけの人が「許せない」と思うのか。思わない人の方が大半だと思います。
「勝つこと」「結果を出すこと」を求めないならそれはそれで「あり」だと思っています。自分の理想の指導論を突き詰めていけば良いだけだから。「この練習が良い」と思っていたらそれだけをずっとやる。何年かに一度そのスタイルにハマる選手も出てくるでしょう。そこに対して評価を受けるかもしれません。が、それは決して万人には当てはまらない。目の前の選手にとって何がプラスなのかを考えて判断する事が重要なのだと思っています。
だからこそ「マーク走」をやるならその「距離」に拘る。チューブ5歩をやるなら「チューブを引っ張る角度」と「強度」に拘る。それが「適当」であることは「速くなる」ことに対してプラスなのかマイナスなのか。他の人にとっては「どうでも良い」ことかもしれません。別にインターハイに行けばそれで良いじゃないか。インターハイで予選落ちしたとしても「全国大会」に出場したのであればそれで価値はある。そういう考え方もあると思います。
もう、自分に与えられた時間は限られています。理論的な話をするつもりはありません。目の前で見てきたことの中で何が必要か、何をするべきかというのが重要だと思っています。無駄な一本をやる時間が勿体無い。与えられた時間は限定的です。もっと伸びるのに「ある程度伸びた」ことで評価を受けるのであればそれはそういう評価を受けたい人がやれば良いと思います。
私の考え方は時代に即さないのだろうなと強く思っています。伸びる可能性があったとしても「自分たちが納得する」ことの方が大きい。厳しく指摘されるよりは「自分達は頑張っている」という「青春物語」の方が大切だと。このことはもう20年くらい前からざっと言っています。「自分達は頑張った。でも負けてしまった」と涙を流すことの方が「青春」なので思い出に残るのでしょう。
私はそういうことはしたくないなと。学校教育とは違う部分になっているのかなと強く思っています。もったいない。そう思うことさえ今の時代には合わないのかなと。
考えていけたら良いなと思います。価値観は多種多様。どの考え方が正しいというのは分かりません。私の考え方は時代錯誤であり、「楽しくやろう」という今の時代には適合しないのだと思います。分かっています。