照る日曇る日第804回
編者の青木生子氏によれば万葉前期(白鳳萬葉)は1)舒明・天智の柿本人麻呂以前と2)天武・元明の人麻呂の時代の二期に分かたれ、天平の万葉後期は1)山部赤人、山上憶良・大伴旅人の時代(元明初期から聖武中期)、そして2)淳仁初期までの大伴家持の時代の二期に分かたれるそうです。
この見取り図でいくと、本巻は主として万葉後期の赤人、憶良・大旅人の時代を扱うことになるが、それ以外の時代のそれ以外の詠み手の作品も数多く登場するので、なかなか一筋縄でいかないのがこの詩華集のなかみでありまする。
しかし本巻の柱となっているのが山上憶良であることは間違いないようで、私は久しぶりに彼の妻子への愛情の謳った歌や、哀切極まる「沈痾自哀文」などを読んでにんげんの一生ということを思ってうたた感慨に耽りました。
校注にもあるように、山上憶良は大宝元年(701年)遣唐使として唐に渡ったこともある当時のインテリゲンちゃんで、帰朝後は東宮時代の聖武天皇に学問を講じ、筑前守になっているから、庶民の悲惨な暮しを嘆く「貧窮(びんぐう)問答歌」などを詠んではいるものの、かなり豊かな生活を送ったのではないでしょうか。
しかし伊藤博氏の解説によれば、天平五年(733年)6月、74歳の老齢にあった憶良は悪性のリウマチにあえぎながら下のような未練たっぷりの悲歌を遺して身罷っております。
士(をのこ)やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして
「男子たるもの身を立て名声を後世に残さねば生まれた甲斐がない」と嘆きながら亡くなったのでしょうが、そういうますらおぶりの対極にあるたおやめぶりの嘆きの歌が、彼の名を万代に輝かせることになったのは、まことに皮肉なことでした。
げに武名よりも貴きものは、やはり文名ではないでせうか。
ゆくゆくは天皇になるてふ八歳の少年が観たとふ昆虫映画 蝶人