照る日曇る日 第1891回
げんざい朝ドラで放送中の牧野選手の本が図書館に並んでいたので借りてきたら、これが昭和31年、富太郎が翌年94歳9か月の長い生涯を閉じる前年、東京神田の宝文館から出た本で、なんと反権力派の正木ひろし弁護士の寄贈本であった。
まあそんなこたあどうでもよろしいが、文字通り生涯「在野」の牧野選手の天衣無縫の「草木愛」と、そんな桁外れの学者を、襤褸布を纏いながら、死ぬ迄面倒を見た愛妻寿衛子の無償の献身には驚くほかはない。
機会があれば「家守り妻の恵みやわが学び」「世の中のあらんかぎりやスエコ笹」の句碑の傍らに植えられたスエコ笹を拝見がてら、谷中掃苔と洒落込みたいものである。
明治29年、寿衛子の励ましで1カ月の台湾植物採集旅行に出発し、火の車に追いまくられながら富太郎が土産に買って帰った美しい花かんざしに、寿衛子はそっとくちづけをしてから、鏡台の引き出しに仕舞い込んだくだりは、涙なしには読めなかった。
しかし、あれほど邪気のない植物命の項人物が、何度も名指しで非難している2人の東大教授の学問的圧迫と非人情には、別の2人の東大教授に怨みがある小生も、深甚なる怒りを覚えると同時に、一抹の同情を禁じえなかった。
最初は田舎出の植物少年と思って可愛がっていた小僧が、みるみる頭角を現し、自分の縄張りを遠慮会釈もなく荒し回るに到って思いがけない嫉妬が芽生え、人間らしい優しさと同情が、いつしかもっと人間らしい敵意と反発に変わったのだろう。
明治26年、富太郎が土佐の実家の酒屋を整理して東大総長のお声がかりで講師に任命されたときの月給は15円。ちょうどその頃、陸羯南の「日本」で働き始めた正岡子規の月給は30円。2人ながらに生活は苦しかったが、世界に冠たる不朽の業績を残して死んだ。
あちらでは激しく戦争してるのにこちらは呑気に花見などして 蝶人