照る日曇る日 第2135回
中巻は寛弘6(1009)年から長和2(1013)年、道長44歳から48歳までの5年間の自筆の日録である。
寛弘8年の6月に甥の一条天皇が32歳の若さで逝去するが、その辞世の「露の身の草の宿りに君を置きて塵を出でぬる事をこそ思えへ」の悲痛さに、46歳の道長は「啼泣すること雨の如し」と記しているが、「置かれた君」の彰子の芳紀24歳の若さを思えば無理からぬところだろう。
その後継には血縁から遠い三条天皇が即位するのだが、前任者よりも年長でことあるごとに権勢者風を吹かせる三条には、さしもの道長もてこずったようで、長和2年6月23日条に記された藤原懐平の権中納言昇任の際、道長が仕方なくそれを認める代わりに我が子の頼通を大納言に、教通を権中納言にしてしまうくだりは、スリリングな臨場感に溢れている。
道長を筆頭とする殿上人の関心はもっぱら立身出世と宮廷行事の有職故実、漢詩を読む「作文」など歌舞音曲の風雅の楽しみ、賀茂祭や祇園祭、相撲の見物、極楽往生を願っての寺社仏閣の建立や参詣、寄進にしかなかった。
荘園で働く百姓などの悲惨な境遇や愁訴などには全く無関心で、地方政治の運営は宮廷にすり寄ってくる富裕な受領に丸投げして、涼しい顔をしていた。
道長は政権初期の頃には百姓のための慈雨を願って祈祷させたりしていたが、権勢の頂上に立つと、雷雨や豪雨を疎ましく思い、代わって頻繁に漢詩の出来を競う優雅な「作文」の宴の回数が増えてくる。
それが「この世をばわが世とぞおもふ」という破廉恥な歌を詠んだ道長の全盛時代だけの特権であることを、道長自身も知らなかったのである。
鎌倉やこの家もまた死人あり 蝶人