あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西川裕子著「古都の占領」を読んで

2024-11-23 13:07:12 | Weblog

照る日曇る日 第2131回

 

京都にはケネデイ大統領が暗殺された年に1年間、御所の傍にある予備校に籍をおいて、無為に過ごしたことがあるが、私の郷里が山陰線の綾部だったので、幼い時から何度か訪れていた。

 

亡くなった祖父に連れられて、この千年の古都を初めて見聞したのは確か小学3年生の時で、木造で横長の京都駅前にあった法華倶楽部というビジネスホテルの草分けの超低廉の全く窓がないホテルの小部屋に泊まったが、祖父がいつまで経っても財布の中の金勘定をしているのを、私も弟妹も不安そうに見つめていたことしか覚えていない。

 

駅前の法華倶楽部を出発して反対方向の鴨川を渡り、三十三間堂、国立博物館に通じる七条通りを進んでいくと、左側の小さな建物の前に、銃剣を携えた進駐軍の兵士が直立不動の姿勢で佇立し、この都市の真の主人公は誰なのかを誇示していた。

 

さてこの本は、10年を超えるフイールドワークとインタビューを行い、「虫の目」と「鳥の目」の双眼をもって、その当時(1945-1952)、米軍の支配下にあった京都の生活史を、じつに様々な角度から立体的に浮き彫りにした労作である。

 

まず驚くのは、戦後は1945年の「敗戦」で始まったのではなく、1952年の片面講和条約発効までは「休戦」期であり、1956年の共同宣言や国交回復後も、講和が果たされない唯一の国であるロシアとは現在もなお戦争状態が続いていると言えることである。

 

また戦争中、京都にはその計画はあっても実際には原爆が落とされなかったので、空襲もなかったと考える人が多いが、京都府の北部、わが郷里の綾部に近い舞鶴港周辺と京都市の西陣や東山の馬町、南部の大久保国際飛行場や奈良電鉄の沿線では何度か米軍機の空襲を受け、大きな被害も出ている。

 

当時の私の下宿は、左京区にあって市電の6番の百万遍からちょっと上がった田中西大久保町にあった。

 

2階の隣の部屋には映画好きの京大生が住んでいて、夕方になるとよく一緒に銭湯に行ったり、近所の食堂で定食を食べたりしたが、しがない予備校生である私も、彼と一緒の時に限っては、どこへ行っても「学生さん」とさん付けで呼ばれ、なぜかある種の畏敬の念をもって遇されたことを、後年になっても夢のような気持で覚えていた。

 

その「京都ではなぜ学生が尊敬されるのか?」という長年の謎を解いてくれたのが本書だった。著者は1951年に朝鮮戦争反対のビラを撒いてポツダム勅令・政令違反で逮捕され、山科の京都刑務所に収容され、軍事法廷で重労働3年、罰金千ドルの刑に処せられた京大生、小野信爾について彼が書き残した「小野日記」を軸に詳説している。

 

そして著者は、この小野事件を、1949年から50年代における京都の一連の学生運動(1949年5月の京大看護学校事件、50年10月のレッドパージ反対運動、51年5月の丸物百貨店原爆資料展、同11月の京大天皇事件、52年4月の破壊活動防止法案反対ストライキ決議)の輝かしい流れの中に位置づけているようだが、余所者の私も、知らずその余慶に与ったことになる。

 

姉上よりABに分けて賜りし段ボールの柿をAから食べる 蝶人


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