谷崎潤一郎著「疎開日記」を読んで
照る日曇る日 第2109回
中公の全集は昔読んだのだが、大方は忘れているので、時々こうした文庫本を手に取ってみると、やはり大谷崎こそ荷風と並んで、(川端や三島なんかより)正統的な日本文学の巨匠だったことが如実に分かる。
時を同じゅうして岩波文庫から荷風の「断腸亭日乗」が全集から分売され始めたが、本書も谷崎の終戦日記と荷風や吉井勇との往復書簡がメインで、それにやはり全集から選ばれた短い随筆、小説、短歌抄をおまけにつけたもので、なかなか楽しいコンピレーションではある。
唯一の短編小説は谷崎の戦後の第1作「A夫人の手紙」である。
作家によって僅かばかりの潤色を施されたこの谷崎夫人に宛てられ、その反軍思想によって数年間発表を差し止められた有閑マダム森村春子の手紙は、あえていうならば「細雪」と並ぶ谷崎&森村文学の最高峰で、とりわけ第3信のスケッチ付の航空機飛行訓練の詳細を綴った文章は実に実に見事で9.11NYでワールドトレードセンターに突入した航空機をみて「美しい」というてのけた人物を思い出さずにはいられない。
ちなみに両御所の「日記」を比較すると非常に対照的で、荷風の文体が鴎外の歴史小説の典雅を目指した彫心鏤骨の擬古文であるのに対して、潤一郎の筆致は率直で悠揚迫らぬ平叙文であり、まるでゴッホとルノワールのようにはしなくも御両人の文学の違いが出ている。
谷崎のルノワール的豊潤と執拗さは、漱石の最後の恋人であったともいわれる京の佳人、磯田多佳女を巡るかなり長いエッセイを読めば分かるだろう。
裏銀のシジミが親指にとまりたり葉月に逝きし画家の霊なり 蝶人