「詩と思想9月号」を読んで
照る日曇る日 第2148回
昔々私がうんと若かった頃、お隣の火星社書店に行くと丹波の田舎の本屋さんであるにもかかわらず、詩の雑誌が色々並んでいたような気がする。だからといって自分がそれらの読者であったり、ましてや詩を書こうという気持ちを持っていたわけではさらさらなかったが。
それから1世紀近くが経って、自分が時々詩を書いたりするようになったにはなったが、本屋さんの雑誌コーナーにいっても、詩の雑誌などにお目にかかることなど殆ど無い。
ところが地元の図書館を覗くとたまたま「現代詩手帖」というのがあったので、借りてきてパラパラ読んでみると、いつも巻頭を飾っている谷川俊太郎選手などを除いて、いったい何が言いたいのかも分からない言葉の羅列ばかりなので、『こんなん「現代詩」なのかもしれンが、「詩」ではないなあ。殆ど「死」だなあ」』と直観し、「パレスチナ詩特集」以来真面目に読んだことはない。
ところが今回、たまたま「現代詩手帖」以外に「詩と思想」という詩の雑誌があることを知って、神奈川県立図書館から9月号を取り寄せて読んでみたら、掲載されている作品はやはりあまり面白くなかったが、巻頭座談会と論文で「現代詩手帖」を徹底的に論難しているので面白かった。
彼ら曰く、「現代詩手帖」は「空疎な言葉をもてあそぶコトバ派」で、地方詩人を蔑ろにしながら1本釣りをして、「我こそは代表的詩人を選りすぐったセンターなりい!」と威張っている、こけおどしの雑誌らしいのである。
嘘かほんとかは知らないが、なんでも最近亡くなった小田という編集長が功罪相半ばする偉大なやり手で、もともとは軽薄ないち雑誌であった「現代詩手帖」を、こんにちのように押しも押されぬ一流紙!?に仕立て上げたそうである。
それで「詩と思想」は、詩と詩壇は「現代詩手帖」だけではない。世界は3つの視座から観察せよと主張した、こないだ亡くなった川田順造選手のように、詩世界も「現代詩手帖」と「詩と思想」と、あとなんとかいう雑誌の3つを基盤にして動かさねばならん!と言いつのっているようだ。
それは正論かも知れないが、では具体的にどうしようというのかがよく分からないので、論者じたいも困っているように思えたが、ともかく今回、遅まきながらこの雑誌を読んで、文壇ならぬ詩壇についての認識を新たに出来たことは、老い先短い著者にとって2024年度のささやかな収穫でござった。
恐らくは爬虫類の脳が殆どだろう次期大統領の脳味噌の中 蝶人