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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

ジョーゼフ・L・マンキーウイッツ監督の「クレオパトラ」をみて

2013-05-16 08:27:37 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.451

1963年に20世紀フォックスが総力を挙げて映画化した通算4作目のクレオパトラである。

ローマの異人たちと浮き名を流したエジプトの女王クレオパトラ7世の生涯をエリザベス・テーラーが熱演している。彼女は歳を取ってからは肥って醜くなってしまったが、この映画での美しさは格別で、インテリアや衣装、メイクの巧みさとも絶妙にマッチしてこの世ならぬ美しさに光り輝いている。

これに対してレックス・ハリソンのカエサルは合格としても、アントニーのリチャード・バートン、オクタヴィアンのロディ・マクドールはどうみても役不足で、完全にテーラーの引き立て役に終始している。

ジョーゼフ・L・マンキーウイッツの演出はそつがなく、この恋多き偉大なエジプト女王の悲劇にぴたりと寄り添い、壮大なパースペクティブを背景にした陸戦やアクティウムの海戦の描写も見事である。

しかし映画はともかく、もしもクレオパトラがアントニーが海戦に敗れたと誤認し故国に逃走しなければ、恐らくアントニーは勝利を収めていたはずで、そうすれば歴史は書き替わっていたはずだから、彼女の早とちりはまさに一生の不覚だった。


ミニストップで1杯100円で売っているなんたらコーヒーの異常な不味さよ 蝶人
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バリー・レヴィンソン監督の「レインマン」を見て

2013-05-15 08:31:15 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.450



ダスティン・ホフマンが自閉症の長男、トム・クルーズが健常の次男役を主演する兄弟愛をテーマにした障碍物の映画であるが、その功罪は相半ばする。

「功」としては21世紀に入っても聖ルカ病院の老理事長のように自閉症をみずからを閉ざす病気であるとか、両親の子育て法が原因であるとの謬説を盲進する馬鹿が跡を絶たない体たらくであるにもかかわらず、すでに1988年の時点で原因は「脳の先天的な器質障碍」でありと断言している点。

「罪」としては、大半の自閉症児者が健常者にくらべて知能がいちじるしく遅れているにもかかわらず、この映画は計算や記憶についての部分的だが特別な知的能力(サヴァン症候群という)を持つ「映画的な」人物を主人公にしたために、観客たちは「すべての自閉症児者が特殊能力を保有する」と信じ込んでしまったこと。こんなのはほんの少数の例外でしかないのに。

私の息子もこの映画の主人公と同様の自閉症者だが、絶対音感を持ち、記憶力に優れてはいるものの、だからどうっていうことは全然ないはんぱないはみ出し者。かえってなまじ「記憶力がいい」ものだから、私から何十年も昔に怒鳴られた記憶が脳裏によみがえり、突然暴れ出したり、自分の頭を西瓜のようにポカポカ叩きだすのだからむしろ人生の悲劇の種なのである。

この世の埒外に生きる孤絶者で、対人関係や対社会関係において適切な対応がとれず日夜苦悩している人たちを目の前にすると、私のような能天気な健常者はそれだけで無上のさいわいを頂戴しているのだなと痛感するのである。


    「おばあちゃん、僕お仕事がんばってます」と遺影の前で叫ぶよ耕君 蝶人
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ベス・ヘンリー作芦沢みどり訳「クライムス・オブ・ザ・ハート」公演を観て

2013-05-14 11:08:47 | Weblog


茫洋物見遊山記第122回

友人の翻訳家、芦沢みどりさんの案内で久しぶりに演劇の「ナマ」を体験しました。演劇集団「円」の若手俳優、演出家たちによる自主公演「クライムス・オブ・ザ・ハート」です。

これは女性演劇作家ベス・ヘンリーの出世作で、1974年10月のアメリカ南部ミシシッピーを舞台にちょうど30歳の誕生日を迎えた長女レニー、27歳の次女メグ、24歳の三女ベイブのマグラス三姉妹が二日間にわたって繰り広げる疾風怒涛、波瀾万丈のしちゃかめっちゃか物語です。

「三人寄れば文殊の知恵」とか申しますが、とんでもない。チエーホフでも「かしまし娘」でも、姉妹が三人いるだけで悲劇と喜劇がないまぜになった人世ドラマが粛々と幕を開けることは、三人姉妹の一人と一緒になったわたくしには非常によく分かります。

しかし『魂の罪』と題されたこの作品で露呈されるのは、煉瓦工場で働きながら祖父の介護に滅私奉公せざるを得ない長女の鬱屈や、プロの歌手を目指してカルフォルニアで孤立無援の戦いを続ける超お節介屋の饒舌と強がりと孤独、町内の大物弁護士に嫁ぎながら十五歳の黒人の少年と情を通じ、夫のDⅤに耐えられずに発砲してしまい、愛猫と一緒に首吊り自殺した母親のあとを追ってガスレンジに首を突っ込む末女の絶望などなどです。

私たちは劇が進むにつれて、(狂乱の七〇年代という舞台とは無関係に)おのれの生をおのれらしく生きようとするときに私たちが発散する独善的なエゴイズムとそれと同じ数の有形無形の心身の傷跡について思いを致さないわけにはいかないのです。

やれやれ、近しき人間はそれゆえにお互いを傷つけずには生きていけないのか、と村上春樹選手にならってため息のひとつふたつも出そうになったところで、一時は悪罵炸裂修復不能近親憎悪精神異常悪魔女集団とも思われたこのマグラス三姉妹の上に、苦あれば楽ありとでもいうように、神様は優しい癒しの御手をそっと差し伸べられるのですが、それは見てのお楽しみ。

よく練られた脚本と最も適切な日本語への繊細な置き換えが新人熱演の舞台の転回を見事に支え、これは近来出色のバフォーマンスと申せましょう。


◎本公演は本14日と明15日(いずれも午後2時開演)の2回のみ。
5月24日から29日までニール・サイモン作「ビロクシー・ブルース」も始まりますよ!
http://enchante2013.web.fc2.com/

全国の学友諸君お元気ですかこの国は右翼だらけになりました 蝶人

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IL PRETE ROSSO「ヴィヴァルディ10枚組セット」を聴いて

2013-05-13 07:45:28 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第307回

これは独メンブランによる超廉価盤のヴィヴァルディ名曲集だ。

まず冒頭の「四季」を聴いてそのフレッシュな音色とノリの良さに驚く。

2枚目はリナルド・アレッサンドリーニ指揮のコンチェルト・イタリアーノによる古楽器演奏でビオンディがヴァイオリンを弾いているが、これぞヴィヴァルディという極めつけの協奏曲集。

これで1132円の元はとれるが、さらにイ・フィラルモニチなど有名無名のオーケストラによるコンチエルトやカンタータ、宗教曲、オペラの抜粋までこれでもかこれでもかとうれぴいおマケがついてきて二驚三嘆させてくれます。


じぇじぇじぇお前みてえなアホは目え噛んで死んじまえ 蝶人

人はみな自分の話が一番面白いと思ってる ところがところがギッチョンチョン 蝶人

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梅原猛他著「世阿弥 神と修羅と恋」を読んで

2013-05-12 09:42:01 | Weblog


照る日曇る日第593回&遥かな昔、遠い所で第89回


前巻の「観阿弥」に続く「能を読む」シリーズは子の世阿弥の作品の解釈・解題と興味深い論考、対談がぎっしり詰まった660頁です。

 ここに収められた「敦盛」「井筒」「浮舟」「姥捨」「砧」「恋重荷」「西行櫻」「実盛」「関寺小町」「当麻」「高砂」「忠度」「野森」「斑女」「放生用」「屋島」「山姥」「養老」「頼政」など世阿弥の代表作を目にするだけで、私の脳裏には彼の作と伝えられる「羽衣」の有名なくだり「東遊の数々に。東遊乃数々に。その名も月乃。色人ハ。三五夜中の。空に又。満願真如乃影となり。云々」を朗々と吟じる亡き祖父小太郎の声音と舞が浮かんでまいります。

 祖父が漱石と同じ宝生流の初心者なら、お向かいの芦田布団屋の得意は義太夫で、でっぷり肥った狸おやじが三味線ではなくなぜか琵琶を激しくかきならしながらシングアーソングする「妹背山婦女庭訓」と下駄屋の祖父が総桐造りの二階狭しと鼓を乱打しながら仕舞う「羽衣」は霧深き丹波の山奥で激烈なジャムセッションを繰り広げたものでした。

 去年亡くなった義母の父親は神奈川県庁に勤務しながら観世流の極意を体得した謡と仕舞いの名人で、その影響を受けた義母は観世流の原理主義者として生涯をまっとうしたことでした。

 能ではおおかたワキの「諸国一見の僧」が日本全国の名所旧跡を訪れ、故地ゆかりの伝承に接するところからそのドラマが始まり、やがてシテとの問答を経て二度目のシテの登場となり、その多くが「喜春楽」「春鶯囀」「傾盃楽」「秋風楽」「北庭楽」「万歳楽」「青海波」などのうるわしい四季の舞を舞って大団円を迎える演目が多いのですが、私たちの文化や教養の基底にはこうした南北朝以来の歌舞音曲の伝統が先祖代々骨肉のものと化していることを忘れてはならないと思うのです。



値が安く丈夫で長持ち履きやすい買うならことと下駄は「てらこ」で 蝶人

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東京新宿の東郷青児美術館で「ルドン展」を観て

2013-05-11 10:48:20 | Weblog


茫洋物見遊山記第121回

私は東郷青児が好きではないし、損保ビジネスにもてんで興味がないし、ここに麗々しく飾られているゴッホの「ひまわり」は何回見ても真っ赤な偽物としか思えないので殆んど来ることもないのだが、オディロン・ルドンは嫌いではないので、五月のある晴れた日に足を運んでみた。

誰でも毎晩夢を見ているはずだが、朝になるとその大半が忘れ去られてしまう。
しかし「起きて半生、寝て半生」。フランスの詩人ジェラール・ド・ネルヴァルが「夢は第二の人生である」と喝破したように、我々の人生の半分は夜と共にあるのだから、夢の世界で妖しく蠢いているこの茫洋としたおのれを追跡し、追体験し分析しない限り、自分という存在の全貌はついに明らかにならないだろう。

そこで夢の方法的制覇を志したフロイトやヴァレリーやネルヴァルとともにルドンは、この広大で未開の夜と夢の謎の世界の探求に乗り出したという訳だ。

ルドンは黒の詩人であり、黒に無限の夢と幻影を見た人である。会場狭しと並べられたリトグラフの黒は、単なる黒い色ではなく、その黒の奥底に万物の始原である「玄」の世界の彩りを湛えた無限の色彩を内包した黒なのだ。

だからこそ彼がいったん黒の画筆を投げ捨てて色彩に向かう時、その青や緑や赤や紫は事物の本性に裏打ちされた輝きを放つ。しかし眼を閉じたオフィーリアの瞼の裏に浮かび上がった万華鏡のような華麗な夢幻の世界は、ポーの「大鴉」やボードレールの「悪の華」の漆黒の世界の対極にあるかに見えて、じつはまったくの同次元にある等価物なのである。会場の最後から二つ目の「読書する女」の姿が、最後に展示された「聖母」へとなんの違和感もなくなめらかに転位されているように。

ルドンが生涯に亘って描いたのは、朝と夜、生と死、人間と宇宙、万物をひとつに貫く「玄と混沌の世界」の不可思議であった。

◎なお本展は6月23日まで同館にておどろおどろと開催中。


         あの人は黒い花びらひとたびは散れどまた巡り来る夢とルドン歌いき 蝶人
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東京竹橋の国立近代美術館で「フランシス・ベーコン展」を観て

2013-05-10 08:58:19 | Weblog

茫洋物見遊山記第120回

サザエ
観る前の印象としてはまんずこの人の名前が超カッコイイわね。でも現代絵画だそうだけど、訳がわからない絵だと困るなあ。

マスオ
まあなんと奇麗な色使いなんだろう。特にあのピンクとグリーン。ブライトカラーとパステルカラー、補色と黒との対比が異常なまでに劇的な効果をあげているから、顔と体がぐにゃぐにゃな異様な人物らしきものが描かれていてもどうでもいいような気になってくるんだね。

サザエ
ローマ法王とか死んだ同性の愛人とかモデルが特定できている絵もあるようだけど、そんなことは全然関係ない。あのぐにゃぐにゃのデクノボウになった怪物こそが私たちなんだわ。カツオもワカメもよーく見ておくのよ。

カツオ
はーい。ベーコンは私たちの内臓をベーコンにして描いたんだね。

ワカメ
ベーコンは、ムンクの絵をもっときれいに丁寧に描いたようなもんだね。

波平
ロンドンの彼のアトリエの写真が飾ってあったけど、その汚かったこと。あのゴミ箱の中からあんなに奇麗な画が誕生したなんて信じられない。あの地上の墓場的な醜悪さとあの抽象的で天国的な美しさと清潔さはワンセットになって画家の魂の中でぐちゃぐちゃになって共存していたに違いないね。

サザエ
それにしてあの蛸の八ちゃんを左右と正面から捉えた「三幅対」を自宅に飾っていたら、きっと一週間で全員発狂してしまうでしょうね。

マスオ
大丈夫さ、うちでは絶対に飾れないから。


◎なお本展は、来る5月26日まで東京国立近代美術館にてじぇいじぇいと開催中。


       おのが内臓をさながらベーコンのように描きたりフランシス・ベーコン 蝶人
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リュック・ジャケ監督の「きつねと私の12か月」を観て

2013-05-09 09:51:50 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.448


最近の動物ドキュメンタリーを見ると、いったいどうやってこんな珍しい光景を撮影できたのかと驚くことが多いが、本作でもきつねの塒や生態がさながら「映画のように」捉えられていることに感嘆する。

最近製造中止を言明したフジフィルムが感光したこの映像は、コダックと違って微妙なうるおいを含んでおり、映し出される朝な夕なの森の様相が驚異的なまでに美しい。

しかし夢見る幼い少女と1匹のきつねを巡って繰り広げられるこの友愛の物語は、はたしてどこまでが本当のことで、どこからが虚構なのだろう。いくら狐と仲良しになったとはいえその狐があそこまで少女の心を許して秘密の場所に案内したり、一緒に寝たりするものだろうか。

少女の家を訪ねてきた!仲良しの狐を部屋に招き入れ、パニックに陥った彼女がガラス窓から飛び降りて落下するシーンは身の毛がよだつ光景だが、これが本当だとしたら余りにも残酷すぎる過失だ。血まみれになって横たわる狐の「死骸」を見ながら、「この映画自体の信憑性」を疑い始めている自分に驚いた。



ビヨンセの口パクなんて渡辺直美と同じじゃないか 蝶人
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「フライブルグ・バロックオーケストラ選集」10枚組を聴いて

2013-05-08 07:40:44 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第306回


独フライブルグの古楽団体がソニーの超廉価盤に入れたロカテルリ、バイバー、パーセル、ゼレンカ、テレマン、バッハ、ヴィヴァルディなどのCD選集であるが、私の苦手な古楽器の演奏であることを忘れさせてくれる快演ぞろいでお薦めできます。

 手あかにまみれた赤毛の司祭のコンチエルトがまるで彼が生きて死んだヴェネツイアの街を想起させるような悦びに満ちた演奏で繰り広げられるのを聴いていると、もう楽器が古かろうが新しかろうがどっちでもいいやとさえ思ってしまうのであります。

 こんな優れたCDがこんな廉価で買えた今は亡きアホ馬鹿民主党政権時代を懐かしみながら、生涯のベストアルバムとして愛聴することにしませう。


緑青の新芽萌えたる馬鈴薯を一袋五〇円で叩き売りたり 蝶人

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木下恵介監督の「二十四の瞳」を観て

2013-05-07 11:30:38 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.448


最近内外の映画はデジタル・リマスターを施されることによって格段に見やすく聴きとりやすくなったが、本作もその恩恵に浴している。

この映画は壷井栄原作の歴史的悲戦厭戦映画などとレッテルを張るよりも全篇文部省唱歌オンパレードという珍しい音楽映画なので、子供たちによる「七つの子」とか「仰げば尊し」などの合唱がよく聴こえるようになったのがよろこばしい。全体をつうじてすこし歌い過ぎという嫌いもあるが。

蛇足ながら「二十四の瞳」とはいうが、教え子一二名のうち戦死したのが五名、のこり七名のうち男子ひとりは失明したために残ったのはわずか「十二の瞳」になってしまった。

若き日にとった杵柄を齢老いてまたつかみとり、教え子たちから贈られた自転車にまたがって降りしきる雨をものともせずいっさんに分教場にむかう女教師。ラストの右から左への移動撮影が美しい。 

蛇蛇足ながら、この度の自民党政権がめざす改憲安直参戦のモードが高まれば、またぞろ多くの若者、のみならず成人男女が戦場に送り込まれるのだろう。戦争とは人殺しである。私は(その時がきてみないと分からないがいまのところ)人を殺すよりはそれこそかの山背大兄王のように自虐的にむざむざと殺されるほうを選びたい。

それは少なくともおのれは死地に飛び込む気もない人たちが、人殺しをしたくない若者たちをもっともらしいウオーゲーム的発想で左団扇で死線に送り込もうとする愚だけは犯したくないからである。 


国益国益と騒いでいるがいったいどういう国のどいつのための利益なんだ 蝶人


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梅原猛他著「翁と観阿弥」を読んで

2013-05-06 09:23:23 | Weblog

照る日曇る日第592回

全4巻からなる能にかんする最大最高の入門書の第1巻は、「能の誕生」という副題で観阿弥の全作品の解釈と現代語訳を主軸に、梅原猛、松岡心平、天野文雄、中沢新一などの論考や名人ゲストを迎えての対談を添え物にしているがじつに素晴らしい価値を持つ書物だ。

「翁」をはじめ「葵上」、「通小町」「自然居士」「卒塔婆小町」「百万」「松風」などの観阿弥作品の梗概と注釈を読んでいるだけで時の経つのを忘れてしまうが、後半の梅原・中沢・松岡3氏による「「翁とは何か」と題する鼎談は必読の対談記録である。

「頼朝の巻狩り」「後醍醐天皇の密教」「足利義満の能」がひとつながりの世界にあるという中沢の指摘から始まって、室町時代というのは人々が幻想の中で生きていた時代であったが(古今集の仮名序は草木国土悉皆成仏の思想を述べており宇宙=歌=夢の世界観)、観阿弥・世阿弥が生きたそんな夢幻の時代は、儒学を国学にした江戸時代で終わった、という梅原の発言、そのようなアナロジー思考ですべてを注釈していくような夢の時代をいち早く切断したのは一条兼良である、という松原の指摘、さらには元雅はノヴァリーズのような詩人で禅竹の能は植物が性的な欲望を持っているような世界観がある、と喝破するに至る梅原……。

三者が丁々発止と切り結ぶ対論の血沸き肉肉躍る痛快さをなにに喩えたらいいのだろう。ともかくこれくらい知的興奮を呼び覚ます対論は滅多にないだろう。歌舞伎の専門家と思っていた渡辺保による「能=2つの視点」という論文の鮮やかな切れ味にも深く魅せられる。


    俳優が開演時間を忘れて休演すこれぞアホ馬鹿日本の象徴なるか 蝶人
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岸田秀著「唯幻論大全」を読んで

2013-05-05 08:41:37 | Weblog


照る日曇る日第591回


むかし昔の「ものぐさ精神分析」を読んで以来の再会だったが、このひとの論法はまったく変わっていなかったので、そこがかえって新鮮であった。

フロイトの理論を踏まえて、「人間は性本能をはじめすべての本能が壊れているために現実を失い、茫漠とした幻想の世界に迷い込んだ哀れな動物である」という前提を是認すると、そこから著者が大展開する血わき肉おどるかの性的唯幻論、史的唯幻論世界に飛び込んで行くわけであるが、臆病かつ不敏な私はなかなかそこまでは明快に割り切れないので、いつまで経ってもこうやって現実界(外的自己)と幻想界(内的自己)のはざまをうろちょろしている仕儀となる。

しかし今回本書を読んで胸に響いたのは、母親が息子の心的自由を結果的に長く拘束抑圧してしまったという彼の幼時体験の悲惨さにあり、彼固有の強迫神経症がなければもうすぐ八〇歳になるというこの心理学者のある意味ではドンキホーテ的大哲学の誕生は絶対にありえなかっただろうという一事で、しかしその特殊性ゆえに多くの人々が彼の唯幻論ならぬ詩的&私的唯幻論に容易に心服出来ないのではないだろうか。

けれども私(たち)の本能が壊れていなくとも著者が説くように私(たち雄)は正常な性交をするためにはじつに複雑な幻想の手続きを踏まないとその実行に立ち入れないし、わが国が必ずしも米国の植民地ではなくても、私(たち)は過ぐる大戦の歴史と真実(どうしてあの強敵に無謀な戦いを挑んだのか)に正面から向き合わない限り、ほんとうの私(たち)を取り戻せないことだけは確かだろう。



ほんたうの自分なんかどこにもありゃせんありのままの今の自分がここにあるだけ 蝶人
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鏑木清方記念美術館で「清方、美人画の巨匠へ」展を見て

2013-05-04 10:02:03 | Weblog


茫洋物見遊山記第119回&鎌倉ちょっと不思議な物語第282回

今年開館15周年を迎えるというこの美術館だが、ろくろく訪れる客もいないというのによくも続いたものだ。かのアホ馬鹿大阪市長ならすぐにも閉館を命じていただろうに。そういう点ではまだ文化芸術や美術に対するそれなりの価値観を保有しているこの地方都市にいささかの愛着を覚える。

さて今回の出し物は初期の秀作から中後期の充実した力作までヴァラエティを揃えた美人画が飾られているので、前回よりは多少とも見ごたえがある。

この人の色彩の卓抜さはすでに定評があるが、とりわけ「鏡獅子」や「花いばら」「朝涼」におけるあおやみどりやむらさきのパステルカラーのおなじ明度、彩度での組み合わせがことのほか見事で、いったいこの微妙で精妙な感覚を彼がどこで獲得したのかと驚かされるのである。

*なお本展は来る5月22日まで鎌倉小町でひそと開催中。





     なんで固くて強くなきゃあかんのか安倍川餅細く長く伸びたらいいじゃんか 蝶人
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鎌倉国宝館で「鎌倉の至宝」展を観て

2013-05-03 11:11:00 | Weblog


茫洋物見遊山記第118回&鎌倉ちょっと不思議な物語第281回


青蓮寺の十一面観音菩薩像など新たに鎌倉市の指定文化財となった仏像などを公開しているが、私のぼんくらな目にはどれも似たようなほとけ様に映るので不信心者はどうにも仕方のないことだ。

それよりも興味深かったのは中世の紙本墨書で、円覚寺蔵の平安時代の鳥羽法皇、鎌倉時代の伏見上皇の院宣や南北朝時代の足利尊氏による御教書の実物で、これら実印が押された所領安堵のほんまもんを見ていると在りし日の梟雄たちの面影がありありと偲ばれるような気持ちになるから不思議なもんである。

余談ながら先般の鎌倉ユネスコ遺産事件で、市や県の当局者たちの中にまたぞろ捲土重来をめざして仕切り直しをしようとする馬鹿者がいるようだが、まっとうな鎌倉市民はもうこれ以上の観光客誘致なぞ(東京資本の金儲け業者以外)誰も望んではいない。

市はそんな虚妄で愚かな悪あがきより、もっと地道な行政サービスに邁進せよ。例えば鎌倉市の障碍者支援の内容は同じ神奈川県の他市のそれに比べてかなり遜色がある。安倍蚤糞のおこぼれにすらありつけないで地べたを蠢いている不可触たちの恨みは深いぞよ。

*本展は来る12日(日)まで同館にてしめやかに開催中。



翠は「悲しきダダ」なおは「怒れるダダ」襤褸を背負いて峠をくだる 蝶人

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ダグラス・ボストック指揮デンマーク響「カール・ニールセン」10枚組を聴いて

2013-05-02 08:18:36 | Weblog



♪音楽千夜一夜 第305回

1856年に生まれ1931年に亡くなったこのデンマークの作曲家はだいたいフィンランドのシベリウスとほぼ同じ時期に活躍したらしい。

これは彼の6つの交響曲、フルートやヴァイオリン、クラリネットなどの協奏曲を集めた10枚組のCDです。

私は交響曲2番の「4つの気質」、4番の「不滅」などのタイトル名だけは覚えがありましたたが実際に耳にしたのは初めて。シベリウスと同様先行する他の音楽家とはあまり似ていない、つまりきわめて独自の音楽をやっていて、すこぶる聴きごたえがありました。

そのような聴きごたえかと問われても、下手な比喩でしか返せないのが無念でありまするが、ちょうどデンマーク生まれの哲学者、キェルケゴールの「あれかこれか」や「反復」、「不安の概念」そして「死に至る病」を読んでいるような、ちょいと不可思議な気分が脳裏によみがえってきたのでした。



五月雨やニッポン全国楽しいウヨク 蝶人
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