あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

スティーヴン・フリアーズ監督の「あなたを抱きしめて」をみて

2014-05-15 09:14:48 | Weblog


bowyow cine-archives vol.642


なんという安易な邦題だろう。原題は誘拐された息子を探す母親(ジュディ・デンチ)の名である「フィロミナ」で、どうしてこんな訳の分からぬタイトルがつけられているのかさっぱり分からない。そのままでいいじゃあないか。

10代の行きずりの恋で妊娠したアイルランド人のヒロインが修道院に入れられ、そこで生まれた男児を取り上げられてしまう。

この修道院がそういう子供たちを養子にしたい米国人に売り渡していたことを知った元官僚の不遇のジャーナリスト(スティーヴ・クーガン)がヒロインとともに男児の行方を捜すうちに50年前の真実が次第に明るみに出てくるというロードムービーでもある謎とき映画なのだが、その売却事件も登場人物もすべて最近の実話であるというから驚くほかはない。

いやしくもカトリックの修道院ともあろう神聖なる組織が、家なき子を強制労働に従事させたり、肉体女優のジェーン・ラッセルに養子として売却したり、そういう不正商行為の証拠を隠滅するために放火までしたりしているとは、じつにけしからん話である。

けれども怒りと正義感から行動するジャーナリストの荒ぶる魂が、老境に達して人世の辛酸をなめ尽くした母親の博愛と悟達の精神におもむろに感化されてゆく辺りが、見どころと言えば見どころだろうか。


なにゆえに三白眼と猫背になりしや長ずるに及んで自恃を無くした 蝶人


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新宿の文化学園服装博物館で「ヨーロピアン・モード展」「千のブラウス展」をみて

2014-05-14 05:03:16 | Weblog



ふぁっちょん幻論第87回& 茫洋物見遊山記第149回


来たる24日まで開催されている同展では1770年代から1990年代の欧州のレディスモードが時代別に陳列されていて勉強になる。

18世紀のモザールが生きていたロココ時代のドレスから、20世紀のワーキング・ウーマンたちの機能美のパンツスーツまで、およそ250年の間にふぁっちょんといふもの、トレンドといふものが、いかに時代と共に社会の変容と共に脱兎のごとく劇的に変化してきたのかが、これほど明瞭に一瞥できる機会はないだろう。

特に興味深いのは、あの短かったアールヌーボーの時代からアールデコの時代へと脱皮を遂げた時期の歴史的証拠品が並んでいることで、美術や工芸にエポックを刻んだ芸術様式の服飾における痕跡をつぶさに見届ける僥倖に、われらは浴するのである。

なおついでに、同学園の中のファッション・リソースセンターで開催されている過去数十年間のさまざまなデザイナーによる1000点の!素敵なブラウス展もお見逃しなきよう。


なにゆえに真昼間からタクシーは点灯してる勿体ないからライトを消すべし 蝶人
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「神奈川県立美術館鎌倉館」を美術館として保存しよう!

2014-05-13 09:51:30 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第316回& バガテル-そんな私のここだけの話op.178

風薫る皐月となったが、鎌倉の鶴岡八幡宮が所有する土地に立つ世界の名建築、神奈川県立美術館鎌倉館が危急存亡の淵にあることは、テレビ、新聞、ネットで報道されているとおりである。

八幡宮と県との借地契約が2年後に切れる同館を、財政難の神奈川県は閉館、解体し、地主に更地で返還しようとしているのだからこれに反対せずになんとしようぞ。

私はこの建物が、ル・コルビュジエに支持した坂倉準三が1951年に建てた「現代建築の源流」でなくとも、その後背地の平家池と見事に調和したこころなごむ静謐でかけがえのない空間であるという理由だけで、この場が地上から永久に失われることに反対しているのだが。

鎌倉市はユネスコの世界遺産登録をめざして狂奔しているが、そんな愚にもつかない運動よりも、とんでもないあほばか方針を打ち出している県当局を説得して、半世紀以上も市民のみならず観光客に大いなる感動を与え続けてきた、この貴重な歴史的、文化的、精神的遺産を解体させないために、体を張って?抵抗してもらいたいものだねえ。

さいわいにも本年2月、内外の有識者からの抗議の声に押されて、神奈川県と鶴岡八幡宮は、その保存に向けた調査を(費用を折半しながら)4月から開始しているが、なんとか同館の地下に眠る中世鎌倉の遺構を破壊せずに、耐震工事が可能な道を見いだして、この名建築の生き残りを図ってもらいたいものである。


なにゆえに本邦屈指の美術館を取り壊す八幡宮に祟りがあるぞよ 蝶人



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武内英樹監督の「テルマエ・ロマエ」をみて

2014-05-12 07:58:53 | Weblog


bowyow cine-archives vol.641

元は漫画が原作だったらしい。昔からタイムトラベル物は数多いが、ローマ帝国のハドリアヌス帝時代と現代の平成ニッポンを結びつけた着想の妙に驚く。

しかも主人公ルシウスがローマの大浴場の設計技師で、これがタイムトラベルしてわが国の風呂やトイレ回りと結び付くたびに、笑いの渦が巻き起こるという仕掛けは心憎い。

今を去る何十年前にメンズノンノの専属モデルとして登場した主役の阿部寛が、こんな映画の主人公を立派に演じている姿には感慨を覚える。ハドリアヌス帝の市村正親、敵役の北村一輝、恋人役の上戸彩も敵役で笑いながら愉しく見物できる。

まだ見ていないが、タイムトラベルのきかっけがだんだんマンネリ化してきているので、続編はつらいのではないだろうか。


なにゆえに1晩に2度も3度もトイレに行くのか夜食のお茶を飲み過ぎたから 蝶人
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家が沈む~「これでも詩かよ」第80番

2014-05-11 09:49:06 | Weblog


ある晴れた日に第220回


リビングを歩くたんびに
あっちもペコペコ こっちもペコペコ

ああ 家が沈む 家が沈む 
築三十五年のわが家が 毎日毎晩どんどん沈む

いったいどうしてこんなことになったのか
おそらくはミサワホームの広告のせいだ

「天井の高い家だと子供はのびのび育つ」というので、
「天井を高くしてくれえ」と頼んだ私が莫迦だった

確かに業者は天井を高くしてくれたのだが、
そのぶん床を低くしていたのであった

ああ しらなんだ しらなんだ
ついさきごろまでは しらなんだ

ここ鎌倉は東京より空気が冷たい
海と山に囲まれて春夏秋冬湿気がひどい

そいつが我が家の低い床に忍び込み
朝昼晩と材木を侵した

床の上に張りめぐらしたフローリングの薄板を
朝な夕なにシュウシュウシュウと吹きつけた

ああ しらなんだ しらなんだ
ついさきごろまではしらなんだ

フローリングの上にあるのは何百何千の本とかCD
DⅤDやビデオに加えてレコード、カセット、レーザーディスク

全部で何トンあるかしらないが、物凄い重量に懸命に耐える薄板の上を
ときおり耕君の巨体がフロア狭しと駆け回る

リビングを歩くたんびに
あっちもペコペコ こっちもペコペコ

ああ 家が沈む 家が沈む 
築三十五年のわが家が 毎日毎晩どんどん沈む



なにゆえに本体価格で表示する消費税など無きがごとくに 蝶人
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村上春樹の「女のいない男」を読んで

2014-05-10 09:19:39 | Weblog


照る日曇る日第707回

どうもこの人の小説が出るとほおっておけなくて困ってしまいます。他の仕事が手につかないので仕方なく読みはじめたら、これが想定内だか想定外だか知らないが非常に面白いので、竹の子ご飯を食べるようにお代わりしながらずんずん読んでしまいました。

今回は「女のいない男」というヘミングウエイ譲りのコンセプトでゆるーくまとめた連作短編集が6つも並んでいて、徹頭徹尾読書の楽しみを味あわせてくれます。

内容はともかく(といっても内容もしっかりとあるのですが)、冒頭の1行からクイクイと読ませてしまう技術において、この作家はポール・オースター、アリス・マンローとならんで世界的な水準に達していると思います。

例えば「シェラザード」のはじまりは「羽原と一度性交するたびに、彼女はひとつ興味深い、不思議な話を聞かせてくれた。「千夜一夜物語」の王妃シェラザードと同じように」というものですが、これを読んで次を読みたくない人がいるでしょうか?

しかも羽原君が住んでいるアパートにやってくるこのシェラザードは、実際は普通の主婦で「ハウス」キーパーだという。もしかすると羽原君は、平成の「党生活者」なのかもしれません。

このようにどんな作品においてもプロットとストーリーテリング、ことに人物の造型が巧みで、お話、すなわち説話や綺譚や現代的な神話の立ち上げと序破急の展開が鮮やかである。

どんなぼんやりした読者の興味と関心をも終始ひきつけて放さないのが「平成最大の寓話作家」たる著者の、得意中の得意なのであります。

短編の最後に置かれた「女のいない男」は、即興で書かれたそうですが、出来栄えは今いちでした。しかし太宰治晩年の「フォスフォレッセンス」には及ばないとしても、彼の寓話創作の才能の素晴らしさには、ますます磨きがかかっているようです。

またこの作家の文体はまことに口当たりがよく、ポップでカジュアルで軽佻浮薄な現代の空気と平仄がぴたりと合っている。どこを開いても軽快で読みやすく、しかも意をじゅうぶん尽くしたその音楽的な文体を、著者はアメリカ小説の翻訳をとうして学んだのでしょう。

文章の生命は細部にあるそうですが、著者の人物や事物や風景のディテールの描写は、斎藤茂吉の短歌のように具体的であり、とりわけ直喩の適切さには舌を巻かざるを得ません。「いろんな出来事が順番通りに思い出せない。ばらばらになってしまった索引カードのように」のように。

私は、彼の小説は言葉の最上の意味における高級大衆風俗小説だと思うのですが、だからこそおおかたの登場人物が生き生きしており、彼らが喜怒哀楽を共にしながら生きているこの世の中の佇まいが、切々と地方的に、かつまた世界中で通用するように普遍的に描かれている。

それから忘れてはいけないのは、わが国の高級純文学小説には必ずといっていいほど欠落しているユウモアとウイットに満ちあふれていることで、
前世がやつめうなぎだったと告白したシェラザードに、さきほどの羽原君が
「やつめうなぎはどんなことを考えるんだろう?」と尋ねると、シェラザードが、「やつめうなぎは、とてもやつめうなぎ的なことを考えるのよ。やつめうなぎ的な主題を、やつめうなぎ的な文脈で」
と答える辺りでは、思わず微苦笑してしまいました。

「イエスタディ」という短編では、完璧な大阪弁を喋る東京の田園調布に生まれ育った男が大活躍するのも楽しいのですが、著者がせっかく苦心してポール・マッカートニーの「イエスタディ」につけた大阪弁の創作歌詞に、いちゃもんをつけた著作権代理人の顔が見たいものであります。



なにゆえに40Wの電球を枕元に置くの夜中に目覚めても退屈しないから 蝶人


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丸谷才一著「丸谷才一全集第十巻」を読んで

2014-05-09 10:08:36 | Weblog


照る日曇る日第706回


この巻では、林達夫、井伏鱒二、横光利一、舟橋聖一、伊藤整、高見順、大岡昇平、松本清張、武田泰淳、吉田健一、吉田秀和、福永武彦、中村真一郎、司馬遼太郎、吉行淳之介、辻邦夫、色川武大、開高健、井上ひさし、大江健三郎、村上春樹、野上弥生子、宇野千代、佐田稲子、河野多恵子、飯田龍太、岡野弘彦、多田智満子、谷川俊太郎、俵万智など数多くの作家や詩人、歌人、批評家の人と作品についてのエッセイが並べられていて、勉強になると同時に、自分がいかに不勉強であり、読んだこともない人々の作品の数が多いことに対して前途茫洋の想いにとらわれてしまう。

前途茫洋といえば確かに茫洋だが、少なくともその名前だけは知っているのだから、せめてここで取り上げられている作品くらいはぜんぶ目を通してから死にたいと思ったりするのだが、たぶんその計画と夢は叶えられずに泉下に没するのであろう。

泉下といえば、大岡昇平の箇所で彼の代表作を往時大流行していたバシュラールの「水と夢」などを振りかざして「水のある風景」として切ってみせたりしているが、これはちと強引すぎる手法で、そういう観念的な操作よりも永井荷風の「四畳半襖の下張」の裁判所における機知とユウモアみなぎる弁論趣旨書のほうがさらに面白かった。

面白かったといえば、松本清張の情熱的な顕彰で、これは私小説を唾棄し、壮大な社会小説を好む著者の面目が躍如していたし、小林秀雄の情緒的で腸ねん転的な酔眼講談批評よりも情理兼ね備えた吉田秀和の名批評を高く評価したり、幼少期の昭和天皇にまともな日本語を教えなかったことが、戦中戦後の重大な局面でいかに国運をあやまらせたかと説く「ゴシップ的日本語論」の方が、圧倒的に刺激的だ。

刺激的といえば、わが敬愛する「言葉は浅く、意は深く」とうたった詩人、堀口大學が歌会始の召人になったとき、「深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失うふとあり」と詠んだところ、当今は「よい歌をありがたう」と挨拶されたという逸話が紹介されていた。

逸話といえば、そのてのあれやこれやには事かかないわが私淑する宮廷の大歌人も、気骨稜々たる在りし日の大學に倣って、せめて生涯にただ一度なりとも、こういう天下を震撼させる一首を詠んでもらいたいものである。



       なにゆえに冥土に向けて旅立たぬ天下を揺るがす歌詠めぬゆえ 蝶人


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ローレンス・カスダン監督の「白いドレスの女」をみて

2014-05-08 08:25:30 | Weblog


bowyow cine-archives vol.640

そりゃあ1981年当時のキャスリーン・ターナーが超絶色っぽいスエクスイー美女には違いないが、どうしてあんな賢いプレイボーイ、ウィリアム・ハートが一途にのめり込んで殺人まで犯してしまったのかきちんと描かれていないのは、ハートがまだ名優になる前の時代であったことにもよろうが、彼女が美貌のみならず性的で器質的な武器を持っていたからだろう。

こういう悪女につかまったら男はひとたまりもないだろうなと思いつつ、終始嘘っつぽい絵空事の動画を眺めていたが、その最低のリアリテイを裏付けているのは他ならぬジョン・バリーの渋い劇伴でした。

ちなみにこの007などの映画音楽で知られる英国の名作曲家は、女優ジェーン・バーキンの最初の夫でしたが、2人の間に生まれたフォトグラファーのケイト・バリーが昨年12月に謎の死を遂げたことをはしなくも思い出しました。


なにゆえにいともたやすく人は死ぬたやすくは死なぬと思いこみしに 蝶人
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ギッチョンチョン~「これでも詩かよ」第79番

2014-05-07 09:37:53 | Weblog


ある晴れた日に第219回


あ、ギッチョンチョン
や、ギッチョンチョン

ママがレモンなら
パパはザボン
2人一緒でレモン・で・ザボン

ママレモンとパパザボンは
いつもなかよし
2人一緒でレモン・で・ザボン

ところがところがギッチョンチョン
2人はわけのわからない理由で喧嘩する

いったん喧嘩すれば仲良くなるのに2、3日
ひどいときには1週間
もっとひどけりゃ1ヶ月

ママがレモンなら
パパはザボン
2人一緒でレモン・で・ザボン

あ、ギッチョンチョン
や、ギッチョンチョン


なにゆえにいともたやすく卒業するのか宝塚AKBわが卒業は私が死ぬ時  蝶人

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丸谷才一著「丸谷才一全集第九巻」を読んで

2014-05-06 08:49:01 | Weblog


照る日曇る日第705回

漱石、漱石と関連した英米文学、鷗外、紅葉、荷風、白鳥、潤一郎、菊池寛、里見、かの子、春夫、寒村、基次郎を縦横無尽に論じ来たり、論じ去った著者会心の文学評論集で、どこを開いても著者の博覧強記と才気渙発に驚かされ、啓発されないページが皆無という素晴らしい書物ですが、やはり冒頭におかれた夏目漱石論がいちばん面白いでしょう。


私はご多分にもれずこの国民的作家が大好きですが、それは「夢十夜」「吾輩は猫である」「坊つちゃん」「三四郎」「彼岸過迄」が大好きだからで、そのほかにも有名な作品があるようですが、別に面白くもなんともない。

なくっても一向に構わないと思っているので、著者が「猫」と「坊つちゃん」と「三四郎」を漱石が英国留学当時に際会したヴィクトリア朝写実主義からモダニズム文学への大転回から学んだ高級な喜劇小説、社会風俗小説と位置付けて高く評価しているのには瞠目させられました。

プルーストより4歳上、ジョイスより15歳上の男は、東京に帰って数年後、プルーストやジョイスに先んじてモダニズム小説を書いたとわたしには見えます。(「忘れられない小説のために」より引用)、

というのが丸谷才一選手の基本的な漱石観ざんす。

まあ別に博識無双の英文学者から当時の世界モダニズム文学の最先端などとレッテルを貼って貰わなくとも、あれくらい読んで痛快無比、胸がワクワクさせられる小説は今に至ってもざらにないのですけれど、著者がわが偏愛の「彼岸過迄」のモーツアルト的な軽やかさと悲しみと無常感を無視して通り過ぎているのはまことに残念でした。

ところで最近朝日新聞は、現代作家の連載小説のあまりの不毛に嫌気がさしたのか(宮部みゆきの「荒神」の下らなさを見よ!)突如漱石の「こゝろ」の原作通りのリピートを始めたのには驚きました。(どうせやるなら「彼岸過迄」にして欲しかった。)

この「こゝろ」では乃木将軍が明治天皇に殉死したことを知った「先生」が「明治の精神」に殉死するわけですが、この不自然で唐突な結末に違和感を覚えた著者は、「徴兵忌避者としての漱石」に新しい光を当てる。

学生時代に北海道に「送籍」して日清・日露戦争の徴兵を逃れた漱石は、その後もつねに良心の呵責を覚え、それが松山落ちや熊本やロンドン時代の神経衰弱に繋がり、やがて漱石は、徴兵忌避という国民的裏切りを告白する代わりに、親友の妻と過ちを犯すという別の種類の裏切りを犯した男が、それを告白するという虚構のカタルシスを求めるようになり、その世間の目からは隠された舞台が「こゝろ」であったというのです。

漱石にとって、乃木将軍の自刃は明治天皇への殉死ではなく、二〇三高地に斃れた若き兵士たちへの殉死そのものであった。

「Kのような」同世代の若者への裏切りと、馴染みの友である明治国家への裏切りを自己処罰するために書かれたかもしれない漱石の痛苦と不気味な緊迫感に満ちた「こゝろ」を、著者の創見を鏡としながら改めて通読してみるのも一興ではないでしょうか。



なにゆえにbababadalgharaghtakamminarronnkonnbronntonnerronntuonntuonntyunntrovawnskawntoohoohoordenthurnuk!が雷の音なの19字目に「雷ゴロゴロ」と書いてあるでしょ 蝶人
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岡井隆著「木下杢太郎を読む日」を読んで

2014-05-05 10:34:41 | Weblog


照る日曇る日第704回


著者とおなじく医師であり詩歌の人であった杢太郎の足跡を、あるときは鷗外、龍之介、あるときはホフマンスタール、またあるときは宮廷のご進講なぞに寄り道しながらとぼとぼと辿ってゆく。

のではあるけれど、そのおぼつかなげにみえて、率直で、真摯で、言葉の最良の意味においてアマチュア的な歩みっぷりに、限りなく魅了されるという不可思議な味わいを持つ独特の書物である。

鷗外によって本邦に紹介され、シュトラウスのオペラ「薔薇の騎士」「影のない女」の台本も書いたこの早熟の詩人兼脚本家を、なぜだか若き日の杢太郎は愛していたらしい。

しかし彼は、みずからの詩集「食後の唄」を発表することによって、おもむろにその影響を脱し、別乾坤を立ち上げてゆくのであるが、その長い長い迂路を、(おそらくホフマンスタールなぞ好きでもないにもかかわらず)、なぜだか杢太郎の虜になってしまっている老詩人は、執拗に、しかし時折舌舐めずりしながら、つまりはこのうえない老後の愉しみとして、杢太郎その人にひしと寄り添うのである。

本書の表題を「評伝」とせず「を読む日」としたのは、おのれを励ますためであり、命の続く限り続編を書き続けたい、と後記する86歳の著者の健康と健筆を、こころから願ってやまない。


なにゆえに桜が散っても春が来ぬ STAP細胞はあるのだろうか? 蝶人

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高橋源一郎・辻信一著「弱さの思想」を読んで

2014-05-04 09:52:44 | Weblog


照る日曇る日第703回

世に所謂グローバリゼーションと新自由主義の進行によって、貧富の差はますます拡大し、持てる者と持たざる者との階級的軋轢は、日本の社会の安定的基盤をゆるやかに崩壊させようとしている。

寄る辺のない老人たち、幼くして死ぬゆく者、疾病や器質など生まれながらに心身に障がいを蒙った者たちに加えて、労働、教育の現場における激烈なさまざまな生存競争の敗者たちや落後者たちの大群が、自分を能天気にも社会的な勝ち組だと思っている「普通の人々による普通の社会」の安寧を脅かそうとしているのである。

むかしむかし、私は社会の最下層に沈む弱者たちが大連合して、権力の最上部に君臨する富裕階級の者どもと角逐する話を小説にしようと踏ん張っていたのだが、前者が戦いに勝利し、にっくき後者を血祭りに上げようとしたところで、強烈な吐き気に襲われて擱筆し、それきりになってしまったことがあるが、弱者がその特性を生かしながら強者に勝利するのは至難の技であると思った。

弱者は、強者が持たない孤立無援性、他者の痛みを感じ取ることができる想像力や優しさを持っているのだが、彼らがその孤立無援性を捨てて団結し、例えば武装蜂起の挙に出て強者の1人を殺戮した瞬間に、彼らは他者への優しさも想像力も幣履の如く投げ捨てて、殺意と憎悪が渦巻く「ただの強者」の位置に転落してしまうのである。

しかしよく考えてみれば政治的経済的社会的な強者もひとたび大病などを患って生物的動物的な事あればたちまち不幸のどん底に突き落とされて弱者中の弱者となり、その弱者が事あって一気に成りあがって最強の者となることすらあるのだから、ここでいう強弱の違いは相対的な次元の話かもしれぬ。

最終的には精神の王国でつねに魂の平穏を愉しむことが出来る人間を、絶対的な強者と称するのかも知れない。

いずれにせよこの2人の長い対談は、そういう地点で大停滞し、洞ヶ峠で昼寝を決め込んでいた私を叩き起こし、もういちど社会の多数派となりつつある弱者たちの、弱者たち自身による、「弱くて、脆くて、けれども楽しくて、けっして勝たない社会づくり」へのほの明るいヴィジョンを投げかけてくれたのであった。


なにゆえに人はそこまで強くなれるのかおのが弱さを抱きしめるから 蝶人
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朝夷奈峠の春~「これでも詩かよ」第82番

2014-05-03 08:57:39 | Weblog


ある晴れた日に第233回&鎌倉ちょっと不思議な物語第315回


まいとし春が近づくと心配になるのが、カエルどもの産卵である。

1月の終わりから2月の頭にかけて、朝夷奈峠の3か所の産卵スポットにスコップ持参で駆けつけて、小枝や枯れ葉などで埋まったり、乾ききったりしている水たまりを深く掘り下げ、すぐ傍を流れている太刀洗川の源流から水を補給したりして、アカガエルやイボガエルの交尾と産卵の準備をしているのであるんであるんであるん。

あるんであるんであるん
らりらりらんらりらりらん

ことしは早春になっても雪が降ったりしてかなりの異常気象だったので、せっかく大量の植物群を引き揚げてあつらえた横長の小運河型の第3現場の産卵は、結果的には失敗に終わった。

いや、2月の下旬に他の現場にさきがけてアカガエルが小さな卵を産んだのだが、あまりの寒さのために孵化しなかったのである。

しかし湧水のある第1現場とかなり大きな水たまりの第2現場では、イボガエルの透明で大きな卵が多数産みつけられ、日に日に元気なオタマジャクシになりつつある。

オタマジャクシはカエルの子
お前の孫ではないわいな

私の人世における大切な日課は、この2つの現場に顔を出し、心なきハイカーたちの悪戯から彼らの身を守ってやることだが、5月の連休に入ってもさしたる異常がないのは喜ばしい。

ひとつだけ気になるのは、緑の野草につつまれた第1現場(その世にも美しい光景は、わたくしのfacebookの扉をご覧いただきたい)に2匹のヤマカガシが棲息していて、いかにも楽しげにランランランと泳ぎ回りながら、おいらのいとしいオタマちゃんの捕食を、ほしいままにしていることだ。

むしゃむしゃむしゃ、落武者めちゃめちゃ。
ひとつ池で育ちゆくなり蝌蚪子蛇 

じつは3年前にも第3現場で同様の事件が発生し、そのおり一気に逆上した私は、ハローウッズの崎野隆一郎さんがマムシを見つけた時のように、そのにっくきヤマカガシの子蛇をたちまち血祭りにあげたのだった。

ワーイ、ワーイ、血祭りだあ。
ワーイ、ワーイ、お祭りだあ。

が、ことしの私はあれから2つも歳をとって、やはり殺生は良くないなあと思うようになり、「人間辛抱だ、喰うも喰われるも天命だ」と、諦めと悟りの境地にようよう到達できたので、そのまま放置しているのであるんであるんであるん。

またしてもあるんであるんであるん。
お前は大隈重信か。

ところがさらに驚くべきことは、これまでまったくノーマークであった第4地点に数匹の大きなオタマがひなたぼっこをしていたことである。
ゆるやかな渓流の小さな水たまりに、いつどうしてイボガエルが産卵していたのだろうか?

私の次男は、親の私が人為的にいきものの環境整備を行うことにかねてから批判的で、「人工の手を加えなくても生物の生命力は偉大であるから、外野から妙なグラブを出さずにボールは放置しておけばいい」

打ちました! 打ちました!
ホームランか? ファールか?

といつも忠告するのであるが、そういう説も一理はあるなあ、と思えた金曜日の昼下がりでした。


  なにゆえにヤマカガシはおたまをむしゃむしゃ食べるそれが自然界の掟だから 蝶人
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四月の歌~「これでも詩かよ」第76番

2014-05-02 09:45:53 | Weblog


ある晴れた日に第232回


四月は お花見の季節
ニッポン、ラリラン
ニッポン、ラララン

ニッポン、チャチャチャ
ニッポン、チャチャチャ

四月は 感傷的な季節
ニッポン、ウルウル 
ニッポン、ジュルジュル

ニッポン、チャチャチャ
ニッポン、チャチャチャ

四月は ライオンの季節
ニッポン、グワアグワア
ニッポン、グラアグラア

ニッポン、チャチャチャ
ニッポン、チャチャチャ

四月は 憂鬱な季節
ニッポン、ドクソン
ニッポン、ドクゼン

ニッポン、チャチャチャ
ニッポン、チャチャチャ

四月は 変態の季節
ニッポン、ワオワオ
ニッポン、ワイワイ

ニッポン、チャチャチャ
ニッポン、チャチャチャ

四月は 鳥滸なる季節
ニッポン、ラリラン
ニッポン、ラララン

ニッポン、チャチャチャ
ニッポン、チャチャチャ

四月は残酷な季節
ニッポン、ゼッタイ
ニッポン、ゼツボウ

ニッポン、チャチャチャ
ニッポン、チャチャチャ


なにゆえにおかしくもないのにゲラゲラ笑うそれも処世の知恵かも知れぬ 蝶人
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美神たちの黄昏 最終夜~西暦2014年卯月蝶人花鳥風月狂歌三昧

2014-05-01 07:42:40 | Weblog


ある晴れた日に第231回



おそらくは誰にも知られず身籠らむかのガラパゴスの大亀のごと
 
ウォーホル描きし<サンフランシスコ・シルバースポット>なる絶滅危惧蝶サンフランシスコのいずこに舞うならむか 

いにしえの鎌倉人は現在の水道局あたりでイルカを食うたと

「津波」てふバー&レストラン横須賀のどぶ板通りにありました

税金を払わなくならばたちどころに国家など潰れてしまうと考えている

山一つ潰して全部墓地にするその企てをひそかに憎む

一本の電信柱の陰にして母永遠に待つ西本町二十五番地

カエルたちを無事に産卵させるためスコップ振るいて水たまり広げる

裏庭に今朝もコジュケイが現れてモチョット平和モチョット平和と鳴くのです

スマホの後はウエアラブルらしいがガラケーの孤塁を守りわれは死にゆく

まだなのかもう咲いたかなと尋ねゆく亀田家のソメイヨシノが春の始まり

鎌倉の小町通りの発掘現場身の丈掘ればもののふの屋形

目の塵を舌でぞろりと舐め取りしわが祖父の名は佐々木小太郎

初蝶と呼ばれし蝶は大雪の厳しさに寒さに耐えて生き延びし蝶

ほんとうは祈っても仕方ないと知りつつ祈るしかなくて沖つ白波

「昔のわたしってこんなに美人だったんだ」と驚いてるが今の君だって相当奇麗だ

短歌が芸術? ばかな。あれはサプリ。毎朝飲んでいるビタミン剤のようなもの。

宇宙には暗黒物質があると聞きわが魂の暗闇をおもう

三月や生きてしあればそれでよし

春雨や歌壇の雄との別れかな

「桃げん郷」の真ん中の字が出でこない

小綬鶏に一寸来いと呼び出されて春の朝

発条を出し終えて死ぬ蟷螂

桜咲く安西水丸逝きし日に

亀田家の桜一輪に浮かれだす

鶯の初音の上手訝しや

ウォホールとは俺のことかとウォーホル言い
 
テレビよりタモリに投げし我のくす玉
 
春風やSTAP細胞あらまほし

ジャンヌ・ダルクの手柄を盗むお茶ノ水博士

生者より死者懐かしき梨の花

春風や「スタップ細胞はあります」と言ってみる

丹波弁も東京弁もちゃんと喋れなくなってしまった

だんだんと死者懐かしき春の夜

てのひらに小石を乗せれば人の命かなしも

百年の孤独が去りてボルヘス逝く

オフェーリアのように花盛りの椿の木が流れてゆく


これからなにかいいことありそうかね、中村うさぎチャン。蝶人


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