照る日曇る日第707回
どうもこの人の小説が出るとほおっておけなくて困ってしまいます。他の仕事が手につかないので仕方なく読みはじめたら、これが想定内だか想定外だか知らないが非常に面白いので、竹の子ご飯を食べるようにお代わりしながらずんずん読んでしまいました。
今回は「女のいない男」というヘミングウエイ譲りのコンセプトでゆるーくまとめた連作短編集が6つも並んでいて、徹頭徹尾読書の楽しみを味あわせてくれます。
内容はともかく(といっても内容もしっかりとあるのですが)、冒頭の1行からクイクイと読ませてしまう技術において、この作家はポール・オースター、アリス・マンローとならんで世界的な水準に達していると思います。
例えば「シェラザード」のはじまりは「羽原と一度性交するたびに、彼女はひとつ興味深い、不思議な話を聞かせてくれた。「千夜一夜物語」の王妃シェラザードと同じように」というものですが、これを読んで次を読みたくない人がいるでしょうか?
しかも羽原君が住んでいるアパートにやってくるこのシェラザードは、実際は普通の主婦で「ハウス」キーパーだという。もしかすると羽原君は、平成の「党生活者」なのかもしれません。
このようにどんな作品においてもプロットとストーリーテリング、ことに人物の造型が巧みで、お話、すなわち説話や綺譚や現代的な神話の立ち上げと序破急の展開が鮮やかである。
どんなぼんやりした読者の興味と関心をも終始ひきつけて放さないのが「平成最大の寓話作家」たる著者の、得意中の得意なのであります。
短編の最後に置かれた「女のいない男」は、即興で書かれたそうですが、出来栄えは今いちでした。しかし太宰治晩年の「フォスフォレッセンス」には及ばないとしても、彼の寓話創作の才能の素晴らしさには、ますます磨きがかかっているようです。
またこの作家の文体はまことに口当たりがよく、ポップでカジュアルで軽佻浮薄な現代の空気と平仄がぴたりと合っている。どこを開いても軽快で読みやすく、しかも意をじゅうぶん尽くしたその音楽的な文体を、著者はアメリカ小説の翻訳をとうして学んだのでしょう。
文章の生命は細部にあるそうですが、著者の人物や事物や風景のディテールの描写は、斎藤茂吉の短歌のように具体的であり、とりわけ直喩の適切さには舌を巻かざるを得ません。「いろんな出来事が順番通りに思い出せない。ばらばらになってしまった索引カードのように」のように。
私は、彼の小説は言葉の最上の意味における高級大衆風俗小説だと思うのですが、だからこそおおかたの登場人物が生き生きしており、彼らが喜怒哀楽を共にしながら生きているこの世の中の佇まいが、切々と地方的に、かつまた世界中で通用するように普遍的に描かれている。
それから忘れてはいけないのは、わが国の高級純文学小説には必ずといっていいほど欠落しているユウモアとウイットに満ちあふれていることで、
前世がやつめうなぎだったと告白したシェラザードに、さきほどの羽原君が
「やつめうなぎはどんなことを考えるんだろう?」と尋ねると、シェラザードが、「やつめうなぎは、とてもやつめうなぎ的なことを考えるのよ。やつめうなぎ的な主題を、やつめうなぎ的な文脈で」
と答える辺りでは、思わず微苦笑してしまいました。
「イエスタディ」という短編では、完璧な大阪弁を喋る東京の田園調布に生まれ育った男が大活躍するのも楽しいのですが、著者がせっかく苦心してポール・マッカートニーの「イエスタディ」につけた大阪弁の創作歌詞に、いちゃもんをつけた著作権代理人の顔が見たいものであります。
なにゆえに40Wの電球を枕元に置くの夜中に目覚めても退屈しないから 蝶人