こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

男女の愛情はどこまで深くあるべきか

2022年07月15日 | 愛と女性とジェンダーと
ここ最近の朝食はオートミールに牛乳をかけ、バナナとヨーグルトをトッピングし、最後に蜂蜜をかけたものと牛乳入りのコーヒー。
コーンフレーク、グラノーラなどよりカロリーが低いからと、イギリス帰りの娘にすすめられ、それまであまり食べたことのなかったオートミールに変えた。
まずオートミールに牛乳をかけ、そのあとコーヒーを豆から淹れ、燃やせるものとかプラスチックなどの収集日は家中のものを集めてキッチンに戻り、ふやけて食べやすくなったオートミールにバナナなどをトッピングする。
毎朝、弁当を作ってくれる妻には牛乳と蜂蜜抜きのセットを作ってラップしておいたものを私のものを作るついでに用意している。
もちろん、時間に余裕があれば一緒に食べる。
朝食を食べる前に、ダイエットアプリにアップするための写真を新聞の一面とともに撮る。
今日の朝日のトップは安倍元首相の国葬のことだった。
安倍元首相の政治家としての評価は賛否両論百人百様で、政治の素人の私がここでどうこういうつもりはないし、仮に歴史に名を残すことになろうとも、そういったものは時の体制によっていくらでも書き換えられてしまう。

昨晩、日本維新の会の松井代表が、安倍元首相の国葬の件について、

ご遺族がこのことをどう考えていらっしゃるかが大切だから、その点に配慮が必要だ

というようなことを述べていたが、たしかにそうで、昭恵夫人は家族葬を望んでいたとようだったが、増上寺での葬儀はずいぶん大きいものだった。
お別れの会が国葬に変わるのかもしれないが、夫人はそういった形を望んでいるのだろうか。

安倍元首相と夫人は夫婦仲が良かったということで、亡骸を乗せた車の窓越しに見えた寂しそうな顔が忘れらない。
多くの人が目にしたのは、いくら深い愛情によって結ばれた男女でも、それは突然失われることがあるということではないか。

別れが突然でなく、徐々にであってもそれはずいぶん悲しいことであるに違いない。
愛情が深ければ深いほど別れが悲しく辛いものになるのは明らかで、死別の辛さを思うとそれは永遠に来ないでほしいと思うが、人間は必ず死ぬので、別れは絶対にやってくる。

男女の愛情はどこまで深くあるべきか

愛情は堅牢にみえてもガラスのように繊細であったり、何も見えなくても深いものであったりする。
せめて、自分が死ぬ時に後悔することのないように愛を育み、維持することができて良かったと思えたら、人生はそれだけでよかったと思えるものかもしれないが、それは自分一人では達成できない。
いつ斃れても

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ジェンダーギャップを考えさせられた

2022年07月14日 | 愛と女性とジェンダーと
昨日の帰り、ちょっと興奮して病理診断科の仕事の中で最も意義があると考えているCPC(Clinico-pathological conference;臨床病理検討会)のことを延々と書いてしまった、最後までお付き合いいただいた方には感謝します。
CPCを終えホッとして、備忘録的にそのことをブログに書き留めておこうと書き始めたら、ひと月ほど前にコメディカル部門から時間変更を申し入れられた時、怒りに任せて書いたエントリーがあったのを思い出し、昨日の感想にそれをくっつけたらあんなに長くなってしまった。
あの記事がボツにならずによかったし、CPCを無事終えられたので、まあ、どうということもなかった。

ブログのテーマ、私の場合、8割方が社会情勢から拾っていて、仕事のこと、家族のこと、庭のことなのどのいわゆる身辺雑記は2割ぐらいあるものの、それも結局は社会情勢に左右されての結果としてのものだ。
その社会情勢の情報というのをどこから拾ってくるかというと残念ながらマスコミしかない。
私の場合は、NHK、朝日の朝夕刊、日経電子版が主たるもので、あとはネットニュース。
海外のニュースアプリも入れているが、読むのが面倒なのでBBC以外はやめた。
情報の取捨選択というのは難しい。
事実に基づいたことなので、ほとんどのニュースは同じ内容となるが、重要度はそれぞれの編集方針によって異なる。
昨晩帰ったら、朝日の夕刊トップの、世界経済フォーラムが発表した[ジェンダーギャップ報告書2022]に関することが目に入った。
朝日がこのことを世に問うべきと考えてのことだろうが、CPCを終えた私の疲れた頭にも、146カ国中日本は116位というのはショックで、私なりに考え込んだ。
ジェンダーギャップは欧米諸国が小さく、アジア、アフリカでは大きいと、いつも通りのこと書かれていたが、そもそも世界全体の達成率は68%で、驚くべきことに男女格差がもっとも小さいというアイスランドですら達成率は90.8%だということだった。

男女格差というものが現代社会にとってあって当たり前となっているということだ。
男性の役割、女性の役割という分担が存在しているが、これは男性が女性を利用することを前提とした社会構造なのだろうか。
今のままでどうしたらいいかではなく社会を変えるにはどうしたらいいかを考えていかなくてはならない。
私の次は女性を探す

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女の人の言うことはね、ちゃんと聞いた方がいいですよ

2022年06月17日 | 愛と女性とジェンダーと
 今日のタイトルは私が思いついたものではなく、行きつけの床屋さん(男)の言葉。髪型について妻や娘がああだこうだ言ってくるので面倒だと愚痴ったらこう”しみじみ”と諭されたのだった。

 これには続きがあり、

世の中ね、なんだかんだ言って女の人が回しているんですよ

とも。たしかに男がいくら虚勢を張って威張ったところで、世の中半分は女なんだから当然といえば当然の話だ。
 今年の芥川賞・直木賞のノミネート作品が発表され、芥川賞の5人全てが女性、直木賞も5人中4人が女性だそうだ。私が女性の芥川賞受賞を意識し始めたのは、綿矢りさ、金原ひとみが揃って受賞した時で、かれこれ18年前になるそうだ。それまで芥川賞といえば太陽の季節の男根崇拝一辺倒のような気がしていたが、女の子がオタクの背中を蹴るという新たな情景を読み、男性と女性の立場の変化を感じたが、未だにそれが完全に受け入れられていないのは残念だ。
 表現型としての男女の区別より、性自認の視点から男と女をどこで分けるかは難しい。圧倒的に女性的な男がいる一方で、男性的な女もいる。女装家とかオカマのような男性がトレンドになって久しいが、そういった人たちがなぜ“受けるのか”を考えた時、これはやはり女性的な視点にたった思考が多くの人に受け入れられるのだろう。ただ、こういった人たちが十分に活躍できているかというと、まだまだだ。埋没しつつある日本が今の困難な局面を打開するには、女性の登用のみならず、こういった女性的な視点をもつ男性を活用していくのも有用なことなのではないだろうか。

 床屋さんによると、女性の言う通りに行動すれば間違いないということだ。そうしたらモテるし、何かを買うにしてもその通りにしておけば大体は役立つらしい。モテるとか、役立つとかいうのに永続性のないことが若干不安になるが、飽きっぽく、移り気だというのも女性の特性なのだからそれは仕方ない。それに、そのおかげで経済はますます回っていく。私も妻の言う通りにしていたらいいのだろうが、なかなかそうしないものだからしょっちゅう失敗して、結局あとから謝ったり、助けてもらったりすることになっている。

言わんこっちゃない

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女はなぜよく泣くか

2022年05月29日 | 愛と女性とジェンダーと
 梅雨入り前の青空。
 同じ地球の上で人が人を理不尽に殺している。幸い、ここ日本ではそんなことは起こっていない。申し訳ないと思う必要はないのだろうが、事実を謙虚に受け止めておかなくてはならない。今日のエントリーは前から書いておおうと思っていたこと。週末は読む人が少ないので、今日のうちにアップしておこう。
 男でも泣き虫はいる。女だからといってみんながみんなしょっちゅう泣いているわけではない。男が女であっても女が男であってもどうでもいい時代ではあるが、表現型が女の方が泣く人は多い。
 テレビの中で泣いているのはほとんどが女だ。スポーツでも勝っては泣き、負けては泣く。卒業式では男でも泣く奴は少しいるが、女はほとんど泣く。それほどの意地悪をしたつもりはなくても妻は泣いてしまうし、母が泣くところを見たことはあったが、父が泣いたところを見たことはなかった。今、読んでいる小説の中ではグレーゴル・ザムザの妹がちょうど泣き出したところだ。

 どうしてだ? どうして女はよく泣くのか?

 短気な男が怒り出すのと同じぐらいの速さで泣き出す女もいる。いつでも泣けるように準備をしているんじゃないだろうか。

 世の中わからないことだらけだが、女がよく泣くのは最もわからないことの一つで、ほとんど不可解だ。なぜ泣いているのかを聞いても、泣いている当人ですらどうして涙が出てしまうのかがわからないというのだからこっちがわかるわけがない。女の子だもん、といわれても途方に暮れてしまう。ザムザも妹のすすり泣きの理由が分からず、自らの体の変容についてよりもよほど悩んでいる。

 このことに関して最近少しだけわかってきたことがある。それは、女が泣くことを否定してはいけないということ。いくら泣くなと懇願したところでそうそう涙は止まらないのだからその状態を受け入れ、そのままにしておくしかない。泣かないでなんて歌があったが、何の参考にもならなかった。

 さらに不思議なのは泣き止むと案外ケロリとして次の行動に移ることができるということだ。別れ話で大泣きしたのに女はいつの間にか次の恋が始まるのに、男の方はいつまでも引きずってしまうなんてことはよく聞く。

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男が女であっても女が男であってもどうでもいい

2022年05月26日 | 愛と女性とジェンダーと
 オリーブの花が咲いた。昨年までと異なり、多くの花がついて喜んでいる。オリーブは自家不結実性なので、実を生らせるには別品種の花粉が必要であり、我が家にも大小で4、5本うわっているのに、なかなか多くの実がつかないでいるのだが、さて、今年は楽しみにしていいだろうか。
 先週、通勤の電車の中、若い女性二人が私の隣に座った。一人は少し甘えたような声でよく喋っていたが、私の隣に座った人はそこそこガッチリしていて、そのよく喋る人の話を胸を張って黙って聞いていた。マスクをしていたのでよくわからなかったが目の綺麗な女性だった。チラッと横を見たら向こう側の女性としっかりと手を握り合っていた。なるほど女性同士のカップルであったかと合点がいった。その時に、いわゆる男女の性的役割が必ずしも表現型の違いによって担われているものではないということがわかった。

 2丁目が今ほど観光化されていなかった30年以上前、ただのバカ学生だった私には馴染みのオカマバーがいくつかあってよく飲みに行って遊んだ。そんな時、そこで働いていた人たちに対して特別な感情を持つことはなかったし、いわゆる女性的であった友人がそこでバイトをするようになったからといって別に何とも思わなかった。

 私にとっては、男が女であっても女が男であっても、そんなこと関係なく、楽しく飲んで歌って騒いでいたら、それだけでよかった。
 
女ー1ー2ー3ー4ー5ー4ー3ー2ー1ー男

 男と女の間に1本の線をひいて結んだ場合、こんなふうにならないか。やることなすこと考えることが男という人はいるし、逆にそれらが女以外の何ものでもないという人もいる。そして私はこの線上の少なくとも両端にはいないと思うし、ちゅうぐらいのところでうろうろしながら生きている人というのは多いのではないだろうか。どの辺りの人が生物学的に優れているのかそうでないのかはわからないが、誰が誰よりも優れているということは絶対にない。

 男らしさ、女らしさという定義自体が間違っているのではないか。生物は遺伝子を残すために性的に異なった役割を有しているが、それは恋するためではない。もちろん、人間にとっても恋は恋で、そもそもの目的は自らの遺伝子保存、生命の維持が変形発展してきたものである。人間はもともと弱い生物であって、猛獣から見たら男も女も大して変わらない。それでも、人間社会という安全に囲われた世界の中では、男性の方が筋力がやや強いせいで女性に対して優位性を保っている。逆に女性は平和主義的だというが男性によって力を持たせてもらえないできたからこそのことかもしれない。
 
 女性に対する優位性をもって、男らしさというものを定義してきたのだとしたらそれは誤りだ。目先の問題で男性の既得権益を守ろうとするのは人類そのものの発展にとってマイナスであったという考えが必要だ。先進国と言われる国における少子化問題は男性至上主義の行き詰まりであり、女性の社会的地位向上が招いた問題ではない。男が女であろうと女が男であろうとそんなことはどうでもいい。

 日本男児、という言葉があったが、それは一体何を意味したのだろうか、そしてそれが軍部によっていいように使われて多くの日本人男性が無駄死にしたということに思いを馳せなくてはいけない。男性中心的な思考というのは必ずしも男性に恵みをもたらせてくれるものではない。
見直すことが常に大事

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遊べちゃう既婚者ってすごいけど、どこか哀しくカッコ悪い

2022年05月14日 | 愛と女性とジェンダーと
 私と同い年の大手タイヤ会社社長(59)がパパ活していたという話が、文春砲にあげられていた。こういうところまで網を張っている週刊誌というのもすごいが、なんといってもこんなに忙しそうで地位の高い(さらに既婚者である)人がこういう時間をひねり出すことはもっとすごい。考えてみたら、こんなの別に珍しくもなく、同じようなのを京都は円山公園で見たばかり(年の離れたカップルが寂しい時間に公園散歩)だし、知り合いの弁護士が大病院の院長の愛人問題を解決したなんてことを話していたのを聞いたこともある。

 ”お盛んな人”とでもいうのだろうか、こういう人に額面通りの倫理観など求めてはいけない。そもそもこの倫理観っていったいなんなのだろう。互いに”まとも”な考えがあれば、軽いアバンチュールで済むのに、入れ上げてしまうと人の知るところとなる。地位が高ければ週刊誌の格好のネタになってしまうのは想像に難くない。こういうゴシップが芸能人だけのものだったのは遠い昔のこと。このタイヤ会社の社長のような、一流企業のトップ、政治家、大学教授なんて社会的地位の高い人たちは虎視眈々と狙われているのだろう。こういう人たちはある意味職場では権謀術数の限りを尽くしてその地位まで辿り着いたのだろうに、いざ異性のこととなると脇が甘く、あまりカッコの良いものではない。

 それが既婚者で、不倫だとしたら悲しんでいる人もいるわけで、それはそれで余計に始末が悪い。件の社長は関係は精算する、と言っているそうで、ならば始めからそんなことしなければいいのに。

 などと、いくら書き連ねたところで、所詮はモテない男の遠吠えになってしまうので、この辺で切り上げよう。
聖人君子などいるわけないが

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愛は深ければそれでいいというわけでもなく

2022年03月30日 | 愛と女性とジェンダーと
 冬の寒さから解き放たれ、多くの花が元気よく咲いてくれて嬉しい。昨晩もそこそこの量の雨が降り、花壇の花はみんな元気だ。
 小学校高学年の姪が春休みということで我が家に数泊した、妻と娘と三人で、鎌倉観光を楽しんだり、家ではよもぎで団子を作ったりしながらあれこれ女同士の話もしたようだ。姪は親戚の家に一人で泊まりに行くのは初めてで、それなりに”異文化”を見せてあげることができてよかったと思っている。

 このぐらいのとしの女の子らしく、おしゃまなところもあり、私たち夫婦をみて、

 おじさんとおばさんは愛が深いのね

 などと妻にいったそうだ。私と妻これまでの結婚生活でなにもなかったといったらそれは嘘になるが、30年過ぎても続いているということは、これまで大きな失敗はなかったといえるだろう。もちろん、続いてきたのは妻の努力に負うところが大きいとは強く自覚している。

 そのことはさておき、この歳になると少しずつ筋力が落ちて重いものが持てなくなり、たまには大きな病気にも罹る。記憶力も覚束なくなり、認知症の影が遠くに見えはじめる。そんなことを他覚的、自覚的に感じるようになると互いの別離も考えてしまう。ふと、そういう思いで妻のことを見ると言いようのない寂しさと悲しさを感じてしまうのは姪のいう”愛が深い”せいだろうか。

 愛情というものがどれほど深いか、浅いかなどということは個人個人の問題で、さらには当事者同士であっても、妻から夫への、また夫から妻への愛情だって多寡があり、真の愛情あるべき愛情というのは決めようがない。それ以前に、議論の対象は夫婦という形態の有無も関係ない。
 親子の愛、人類愛、といったものはまた別の機会に考えるとして、夫婦(とかそれに類する形態)の愛情というもの、それが固く深いことはいいことかもしれない。かといってそれを失う時がいつかくることを考えると必ずしもいいことばかりではないような気がする。互いに精神的に深く依存することは、喪失することを思うとリスクが高い。ずいぶん贅沢であるようでいて、矛盾したことでもある。なにをどうしたところで、人生とはうまくは回ってくれないものだ。
死がふたりを分かつまで

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前髪がそんなに大切だったとは

2022年02月21日 | 愛と女性とジェンダーと
 日暮れの時間が遅くなり、日が延びてきたと感じる。今週は水曜日が天皇誕生日でまた休める。ただでさえ短い2月に2日も休みがあり困る人も多いだろうが、寒いこの時期に休むことができるのは中年オヤジには助かる。定年までこのままの暦が続くというのはありがたいことだ。

 先日、イギリス留学から帰ってきた娘の機嫌が(少しだけ)悪かった。妻が言うには、美容院に行って、髪型が変わったことに私が気が付かなかったからだという。

 そこで、その翌日、駅まで車で迎えに来てくれた娘に、家に着いて降りたところで、後ろから

 あれ?髪の毛切った?

 と、声を掛けたら、

 何言ってるの?切ったのは前髪よ、後ろからじゃわからないでしょ?

 と冷たく言い放たれてしまった。後ろ髪には手をつけていなかったらしく、私が妻から言われたままに、娘の顔をろくに見ることなく髪型のことを話していたことが露呈した。この様なことはこれまでにもたびたびあり、結局、火に油をそそぐこととなった。
 そういわれつつも夕食の時に娘の顔をみたら、おでこが前髪で隠してあって、かわいらしくなっていた。

 前髪というのは、簡単に言ったら額に垂れ下がる髪(広辞苑)であり、私にしてみたらそれほど気になるものではない。だが、女性にとっては前髪はずいぶん重要なものであるということが、娘の一件以来の、職場の女性、テレビのアナウンサーさらにはチラチラとだが電車に乗り合わせた女性らを観察することによって私なりにわかってきた。

 近年、SNSの発達とともに前髪の存在が重要になってきているらしい。インスタで自撮りする機会が多くなり、いかに可愛らしくするかということに特に若い女性は腐心している様だ。その萌芽はプリクラの隆盛から始まってい流に違いない。そしていまやマスク着用がスタンダードとなって、目、まつげ、眉毛そして前髪のセットで整えることになったのだろう。

 昨日終わった北京オリンピックでは、外国人選手をみていると前髪を作っている人は、日本人に比して格段に少なかった。娘もイギリスにいる間はあちらの女性の様だった。そうすると、前髪作りは”小柄で可愛らしい”日本人女性がとくに意識して行なっていることの一つなのかもしれない。

 私にしてみれば、女性の前髪の有無などさして気にしていない、というか髪型すなわちヘアスタイル自体、実は気にしていないのだが、どうもそれではいけないようだ。私が考えているよりもよほど多くの女性が前髪を含めた髪型、ヘアスタイルに気を使っている。したがって私にしても、前髪なんてどうでもいいじゃないなどといっているようではただの気の利かない男になってしまいかねないので、少なくとも女性の髪型を見るときは、その長さだけではなくて、前髪の有無も”さりげなく”気にしておく必要がありそうだ。だからといって、話題を作ろうと

 髪型変えましたか?
 
 なんてことを軽く、さらには頻繁に言って、本人があまり気に入っていなかったり(「えー、そんなことないですよ!」)、まじまじと相手の顔を見ることで不愉快にさせてしまったり(「なにか顔についてます?」)、そもそも実際には変えてなかったりといったことにならない様、十分気を付けながら接することが必要だ。ただ、髪型を変えていなかった場合でもそう声をかけると、「え、切ってないですよ、でも(朝出かけてくるときにしっかりドライヤーかけてきましたから)」というような返事が返ってくるので、常に関心を持っておくことは大事な様な気がする。

 難しいものだ。
前髪に凝る男性も増えた

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女性にとってそれはいつも真実

2021年03月16日 | 愛と女性とジェンダーと
男と女、体の構造が違うのだから考え方が違うのは当然だ。男性性、女性性の割合は人それぞれなので、体が男でも心が女性という人もいればその逆もある。私の場合、男性8割、女性2割ぐらいだと思っている。

そんな私が女性の扱いが苦手なのは男子校出身で女性との付き合いが少ないからだと思い込んでいたが、振り返れば小学校の頃から他の多くの男子小学生同様女子の扱いはあまり上手ではなかった。すごくモテるイケメングループの次ぐらいのところに位置していたと自負していたが、その辺というのは勝手に女性が持ち上げてくれるわけでもなく自助努力が必要で、その努力の仕方がわからなかった。男から見てモテそうもないと思われるようなやつでも女性との付き合いが上手なのがいて、羨ましかった。そして、女子との付き合い方がわからないまま男子校に進み、男同士の気楽な人間関係にどっぷり浸かり、”女性との付き合いのほとんどない空白”の6年間を過ごした。

そんな私が女性を理解することに一歩近づいた気づきがある。

それは、男性にとって事実と異なることは嘘だけど、女性にとってそれは嘘ではない、女性にとってそれは真実なのだということ。

仮に事実と違う誤った事項があったとする。
男性の場合、それは事実と異なっていたら、それを正しいものとすることはできない。でも、女性にとってそれは”捉え方の問題”に過ぎず、真実は一つであり、その真実はそれが良いとか悪いとかではなく、そういうものなのだ。正しいとかそうでないとかは問題ではない。

男性は事実を突きつけられたら、それを事実として認める。別に真実があったとしてもそのことに考えは及ばない。すなわち思考の幅が狭いのだ。これに対して女性にとって事実と真実は異なる。一つの方向からの見方ではそうかもしれないが、逆もまたある。

他人(それが女性同士であったとしても)から見たら、”あーいえばこういう”ように聞こえるが、女性はそのように色々な解釈ができて色々に対応することができるのだ。

リンゴが空から落ちてきたという事実があり、導き出される数式は同じであっても、男性は引力を質量の大きさによってそれを説明するが、女性であったら別の説明ができるかもしれない。

男性の狭量さに比べ、女性は視野が広く懐が深いのだ。女性の方が共感力が豊かだというのもこういうところを指していうのだろう。

今や、女性の社会進出に脅威を感じる男性は少なくないが、そういう男性達はそんなことに気がついている人たちなのかもしれない。女性はいろんなことを考えることができるから、集まったら話は確かに長くなる。とはいえ、私としては、女性を腕力で搾取してきた男社会が限界に達している今、女性のそんな能力をもっと生かしてもらわなくてはいけないところにあると考えている。
女性を理解するのは難しい

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男社会の崩壊のはじまり

2021年02月20日 | 愛と女性とジェンダーと
ポカポカ陽気で、ご近所の桃の花が一気に咲き出した。今日は風が強かったが明日は収まるらしいのでいまから楽しみ。

東京オリンピック組織委員会会長に橋本聖子さんが就任した。オリンピック担当大臣を辞し、自民党を(渋々ながら)離党してのことだ。参議院議員はそのまま続けるそうなので、2足のわらじとなるが、生活のこともあるし、議員をやりながらアトランタオリンピックに出たこともあったので、ある意味すごい。そしてオリンピック担当大臣の後釜には丸川珠代さんが就いた。さすがは元アナウンサーだけのことはあり、滑舌はもちろんテレビ映りもいい。コロナ対策で大活躍中の小池百合子東京都知事との関係は良好のようで、女性トロイカ体制で中央突破(開催)しようというところだ。

実際、女性の突破力というのはすごいものがあっるから今夏のオリンピック開催が現実味を帯びてきたような気がする。コロナはコロナ、五輪は五輪とかいう論理でも展開されそうだ。もっと他の理由づけがされるかもしれないが、女性ならでは論理展開を期待したい。男性目線でいたら、オリンピックは難しそうだ、なんてことになるかもしれないが、もっと別の視点を持ってもいいのではないかということを、このトロイカ体制は具現化するのではないか。

退場させられた男性陣の中には”お手並み拝見”などと考えている人もいるだろうが、それでは女性のしたたかさを甘く見ているのではないかと思う。一昔前であったらありえなかったことが今起きている。

女性陣が颯爽と表舞台に立っているのに、国会では”記憶力が乏しく、歩幅の狭い職員”だったが総務省の局長にまでなった人物が首相の息子に接待されていたということでもめている。未だに前時代的な言い訳をして逃げ回ろうなどということをしているなど、全くみっともない。

コロナ禍で暇なものだから、こういう茶番をいつまでも見続けされているうちに政治に対する国民の目が厳しくなってきている。そして、私達有権者も考え方を変えなくてはいけないところにきているように思う。

私は立憲民主党の蓮舫さんの発言というのがどうも気になっていた。どれぐらい勉強しての発言かわからないし、そもそも何が言いたいのかわからない時すらある。でも、彼女は3度も当選している。美人だからというわけではなく、彼女を応援する女性がいるからだということを最近感じるようになっている。

”あれぐらい言ってくれなくちゃ、男にはわかないのよ”

そう考える女性が多いのではないか。女性には女性の論理展開があり、それは男性にはわかりにくい。でも、それが人口の半分を占める人間の考え方なのだ。今度の五輪騒動でそのことを急に強く思うようになった。そして、この勢いはもう止まらない。

テレビ画面で結果を出せないでいる男性政治家、官僚(これは男しかいない)の顔を見続けていて、この国に未来がないということに気が付いた。

もう、女性に助けてもらうしかない、男社会が限界にきている日本にはそれぐらいの発想の転換が求められているのではないか。今年の総選挙後に女性総理誕生とでもなったら世界にもアピールできる。
時代の転換点

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今日は雨になったけれども明日は晴れ

2020年10月19日 | 愛と女性とジェンダーと
おととい昨日と、浮気だ不倫だなどと考えいたせいか、自分が不倫の当事者になりあたふたしている夢を見た。相手の女性が誰だったかなんて、野暮なことは聞いてほしくないが、もうすっかり忘れてしまった。夢なんてそんなものだ。夢の中で私はどこかの誰かに目撃されて、そのことをばらすとか脅されていたようなことだったはず。とにかく覚えていることがひとつある。それは、私はわけもわからず必死だったということ。それがなんのために必死だったのかはわからない、妻に知られないためだったのか、交際相手を傷つけないためなのか、それとも世間体のためか。その必死だった自分自身の姿はとても滑稽だった。

しょせん夢の中のできごと、記憶の再整理のための作業と考えているので深い意味はない。昨晩の夢にしても、ブログに書いたこと、テレビでみたドラマの登場人物、以前に読んだブログのエントリー、そんなのがごっちゃになっていたのだろう。断片的ではあるけれど、それぞれの内容を思い出せばそんな事柄と紐づけることができただろう。ただ、一度目が覚め、もう一度寝たら夢の続き(らしきもの)を見たのにはちょっと驚いた。

ブログのエントリーにも、不倫の話がたくさんある・・・わたしのフォロワーの方、というわけではなく。わざわざ探すようなことはしないが、偶に目にした時はそれぞれ興味深く読ませていただいている。そこに出てくる人たちの多くはみなさん一生懸命に、そしてどうしようもないとわかっていながら相手の人も連れ合いも愛している。それぞれの愛に模範解答はあっても、真の答えはない。せいぜい答えの一つといえそうなのは、それでも生きる、ということだろうか。
そもそも、世の中半分は異性。同性なら好意をもってよくても、異性だったらダメということはあり得ない。好意の範囲も人それぞれだ。
2年以上前だが、浮気と不倫について妻と話したことがある(浮気はいいけど、不倫はダメ。やっぱりどっちもダメ! 2018年2月14日)。みんながハッピーエンドというのが難しいのであれば、自重するのが一番だろうと、私は思う。

人間誰しも答えなど出ない毎日を送っている。答えが見つかったと思っても、その次の瞬間に次の問題が降りかかってくる。ただ、人生に正解はないかもしれないが、不正解もないことを覚えておきたい。だから、一つ一つの設問を先延ばしせず、真摯に答えを出し続けていけば、案外人生は楽しく前に回っていくような気がする。今日は雨になるそうだけど、明日は秋晴れだそうだ。止まない雨はないわけで、そのことをいつも覚えていることが生きていく上で大切なことだ。
期せずして三部作

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不倫する人、バレる人

2020年10月18日 | 愛と女性とジェンダーと
日差しがあると暖かく、マルチーズのコロを連れて近所の学校まで歩いた。ソーシャルディスタンスを守っていたら、マスクをする必要はないと思っていて、誰もいない道をマスクをした人が向こうからやってくるとなんだかなと思う。NHKがソーシャルディスタンスをしっかり守っていたら大丈夫だとアピールしているのだから、それに準じてもいいだろうに。

有名人の浮気報道というのが、一定期間ごとに明らかになっている。政治家、芸能人、スポーツ選手。文春とか、週刊新潮に狙われ、写真を撮られて世間にばれる。連れ合いの知るところになるのが一番困るが、世間からも冷ややかな目で見られることになる。お気の毒としかいいようがない。

いまから20年ぐらい前の話だが、通勤電車でよく隣り合わせに座る女性がいた。始発電車に乗っていたので、座る席が大体決まっていて、隣になることが多かったのだと思う。浅野温子風の髪の毛の長い、痩せ気味の美しい女性だった。でもちょっと寂しげな女性だった。その人は毎朝、携帯メールを熱心に打っていた。今のように、セキュリティーがどうのと気にするような時代ではなかったのか、何度かその文面が目に入ることがあった。メールの相手は男性で、その女性とは職場が一緒なのだが、一緒の家に住むことは出来ない関係のようだった。不倫というものを生々しく感じた。その車両には、別の不倫のカップルーーー男のほうが先に乗っていて、あとから同じドアに女が乗ってくるというパターン。これも職場が同じなのだったのだろうかーーーもいて、不倫している人って案外多いのかと考えたことがあった。

どういう人が不倫するのかといっても、年齢も何も千差万別、組み合わせは無限大だから、一概には言えない。
でも、その中に”自己肯定感の低い人”というのが居るとはよく言われること。そして、そんな人は不倫がバレやすいのではないかと思う。自己肯定感が低いから、自分のことなど誰も見ていない、誰も気にしちゃいないからバレやしない、なんてことを考えているから、わきが甘くなって不倫現場を押さえられてしまう。もっと、自分は注目されていると自覚しておくことが必要なのではないか。
なくなりはしないだろうが

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付き合う相手の呼び名も年により

2020年10月17日 | 愛と女性とジェンダーと
既婚男性がその妻以外の人と関係を持つ場合、その人の年齢によって相手の呼び方は変わる、と思う。

20代後半から30代、結婚後の年数が比較的浅い場合、相手は浮気相手。ところが、これが何年も続いたりとか、40過ぎぐらいで家庭も落ち着いているような人同士で関係を持ったりするようになると不倫になる。ドロドロの不倫も家族に知られなければその限り続くが、浮気にしても、不倫にしても終わらせるのは大変そうだ。
そして、50歳過ぎにつきあい始めるとなると、相手は愛人。この場合、男性は50すぎの小金持ち、女性は同世代かやや下で独身。なんて世代によって適当な表現があると考えているが、映画の見過ぎみたいで恥ずかしくなってきた。

逆はどうだろう。若い女性からみた不倫相手の呼び方というのは、やっぱり彼氏だろうか。パパ活なんていうこともあるからパパというのもありか。あとは、旦那、そんなところだろうか。女性にしてみたら、既婚男性と付き合うことは後ろめたいので、その罪悪感を少しでも薄めようとしてそんな表現になるだろう。
既婚男性と付き合ってしまう女性がいるのは、そういう女性を誘惑する既婚男性がいるからで、誰が悪いかといえば今の価値観からいうとやっぱり男が悪いということになる。

と、ここまできて、なんだか続かなくなった。またもや尻切れトンボになりそう。
やっぱり、男女の関係というのは千差万別、組み合わせからいったらキリがない。浮気だ不倫だなどといったところで、それにモデルケースなどない。
援交なんて言い方もあったな

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ブログを読んで感じるジェンダーの違い

2020年10月02日 | 愛と女性とジェンダーと
春はあけぼのというが、今日の夜明けは春のそれにも劣らず美しかった。外に出しておいたウンベラータの葉の上には夜露がたっぷり降りていた。

昨晩は晴天で、明るく輝く月があたりの家々の屋根を照らしていた。全国的に天気はよく、私を含め多くのブロガーさんがこぞって満月の写真を載せていた。昨日は新型コロナウイルス感染症による閉塞感について考えたことを書くつもりだったのだが、そういえば十五夜、なによりそれを書かなくちゃと押し込んだら、なんだかごちゃごちゃした記事に。挙げ句の果てに、単なるスマホで撮った中秋の名月。そんななか、時々コメントをいただくこともあるブロガーさんが記事の中で”今夜は満月の写真がたくさんアップされそう”と書いていた。
それを読み、なるほど、こういう見方があるのだなと感心した。事象ーーーこの場合、よく見えた今年の名月ーーーそのものを楽しみつつ、それとは別に皆が楽しんでいる事も楽しみ、そのことの盛り上がり、素晴らしさを表現している。私には到底真似でない芸当、というか多分こういうことができるのはその人の才能なのだろう。こういう才能、私には無い。
昨晩のこの記事に限らず、私がよく読ませていただいているブログのうち、こういう感じの書き方ができるのは女性のブロガーさんに多いように感じる。

私を含め、男性(もしくは私が男性だと思っている方)の書くブログというのは直截的なものが多く、論理的に持論を展開していく。したがって、あるテーマについての持論の展開が終わったところで、ひとまずパッタリと収束する。もちろん、それが長くなることはまれならずあるが、長短にかかわらず、一つのことを突き詰めたところで終わるのだ。何かにつけて男とはそういうものなのかもしれない。
これに対して女性(もしくは私が女性だと思っている方)は持論の展開は控えめでそれよりも、周囲の人の動きへの配慮が感じられる。これが女性の方が共感力が高いとかそういうことなのかもしれない。
こういう見方というのが、全ての人に当てはまるわけではないが思考パターンを男性的割合と女性的割合に分けることができるとしたら、その比率によって記事の傾向は少なからず変わってくるだろうと思う。
もちろん、私が好んで読ませていただいているブログがたまたま男性(もしくは私が男性だと思っている方)が私が男性的だと思う書き方をしているだけで、また、女性(もしくは私が女性だと思っている方)がたまたま私が女性的だと思う書き方をしているだけなのかもしれないわけで、単に私の直観というか、バイアスのかかりまくった意見かもしれない。ただ、天声人語の記事は男性的だと思うがいかがだろう。あと、テーマに男女差は無い。それは、ただ単に置かれた立場によるものに過ぎないのだろう。政治のこと、天気のこと、グルメ、旅行といったことなどに男女差は特に感じない。
株のことを全く知らない私が昨日の東京証券取引所で起こった取引停止がどれほど深刻であったかについて論じることができないからといって、そのことは性差には繋がらないだろう。

都会の十六夜

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LGBTQと男女比

2020年03月28日 | 愛と女性とジェンダーと
男って強い。

本当は強くなくても強がって、強そうにみせるので、女性からみたら、男は強いと見える。実際、ちょっとぐらい弱くても、大抵の女性よりは強い。
生物として生き残るために他者に対して強くなくてはいけなかったから、そうなったのだろう。
結果として人間には男の強さが大切だと思われるようになったし、そのような役割を担ってきた。
でも、文明化が進み、男が男である必要がなくなり、性別による肉体的な優位性というものがそれほど必要ではないうことがわかってきた。男の存在意義については、これまでなんども考えてきた(男は要るか、要らないか?(上)男は何のためにいる  (中)男女公平な社会を目指す (下)男女は何を成してきたか )。
まだ、しばらくの間は男は必要かもしれないが、男が強い存在である必要はなくなるに違いない。
ここのところ、男性性と女性性についてあまり考えていなかったが、先日ムロツヨシ主演の 「三浦部長、本日付けで女性になります。」というトランスジェンダーをテーマにしたドラマを観て久しぶりに考えてみた。
LGBTQはレスビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クエスチョニングのことだそうだが、私が若かったころはLGだけだった。
Bは遊び人のような存在だった。
Tは、自殺した友人がそうだったのかと思うことがある。
Qはわからなかった。

LGBTQと男女比の男女比というのは男と女の人数比ではない、それぞれの人の中での男性の割合と女性の割合だ。
この人、男らしいと私が思う、男100%の人はこれまで何人か出会ったことがある。
それに比べて、男比率が低くて女性比率が高い人というのもある。
政治家なんかは男比率が高い人が多いように思うが、女性が混じっているように思える人というのもいる。
人間見た目で判断することはできないので、難しいが、誰しも男性的な部分と女性的な部分というのが混在しているに違いない。
基本的にはX染色体が優位で、男が必要だったからY染色体をもった個体が生まれて、男となった。
でも、無理やり男になったものだから、女性性というのは男の誰もが多少なりとも内包しているのではないだろうか。

そんなことをいくら考えても意味はないのかもしれないし、今や、LGBTQという考え方、すなわち、Qという、自分の性別がわからない・意図的に決めていない・決まっていない人という存在の出現そのものが答えなのかもしれない。
トランスジェンダーについては、さらに細分化されているらしいが、多分、すべての人の分だけ性自認があるに違いないだろう。
そういう意味では私自身Qなのかもしれないと思ってしまう。
嘘はいかんよ

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