マルチーズのコロが死んでからもう1ヶ月経った。
あっという間に時は経つ。
3年前にフラットコーテッドレトリバーのナイトが死んだ後もコロはすこぶる元気に見えて、このままずっと一緒に暮らすのかと思っていた。
姿形は可愛らしいままでも、体は少しずつ年老いていて、最後のひと月ほどはずいぶん辛そうだった。
それでも、懸命に生きる姿は私たちとずっと一緒にいたいと訴えてくれているようで、私たちもできる限りのことはしてやった。
そんなコロの姿が、家のそこここに感じられ、ふと思い出して胸が締め付けられることがこのところ増えてきた。
ナイトが死んだあと、また可愛いフラットがいないか探してみようかと思ったこともあったが、コロを失ってからはそのような気が全く起こらないのは、生き物を預かり育てる責任の大きさがわかったからかもしれない。
私も妻もそれぞれ犬を飼ったことがあったものの、マンション住まいでは飼うことはままならず、残念に思っていた。
ところが、そのマンションで内緒で犬を飼う人がいて、その人のことをいわば”問題視”することで、管理規約を変えることにした。
それまでにも小鳥を飼っている人はいて、”動物”を飼うこと自体は許容されていて、”何はよくて、何はダメ”という議論となり、最終的にはサイズで決めることになり、(正確なサイズは忘れたが)小型犬はOKということにした。
今では、ペット可のマンションはいくらでもあるが、15、6年前はこんなだった。
そんなことのあと、近くのペットショップでコロと出会い、わが家に連れてきた。
動物を飼うことは情操教育に良いと言われるが、コロを飼い出したのは、すでに子供たちが小学生になってからのことだったので、二人揃って心根が優しい人間に育ったのにどれほど影響したのかはわからない。
だが、私と妻に対しては少なからず良い影響をもたらしてくれたのは間違いないとコロを失ってから初めて実感している。
犬一匹飼うのにも、お金がかかるし、時間もかかる。
ナイトはよく食べたし、コロなど、私の散髪代よりよほど高いトリミング代が必要だった。
家族の一員として当たり前のように共に暮らしていたが、無意識のうちにあの子たちの気持ちを思いやっていたように思う。
犬と共に暮らしたことが私の実生活、とくに仕事上の対人関係とかそういったものにどれほど役立ったかはわからないが、コロやナイトを撫でてやった時の感触は一生忘れるものではなく、それはあの子たちが飼い主である私と妻に命とともに差し出してくれていたものだと、今は思う。
故安倍元首相がコロナ禍で星野源の歌をBGMにして、犬と共に家で過ごす姿を流したら、ものすごいバッシングに遭ったということがあった。
おうち時間をどう過ごそうがその人の自由だし、その時に犬がいたっていいのにと思った。
もちろん犬を飼うのが大変な人がいるのはよくわかるが、あれは気の毒だった。
あの犬は飼い主を喪ってどうしているだろう、未亡人とともに故人のことを偲んでいるのだろうか。
そういえば、エリザベス女王のコーギーたちはご子息のアンドリュー王子が引き取ったとか。
命あるものを一旦預かったからには、犬に限らず、最後まで面倒を見る(困難な場合はそれを担保する)ことだけは必ずしなくてはならない。
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思わずコメントしてしまいました。
人間の言葉が通じない(犬は言葉が分かるほど賢いですけど)
相手との同居、というのは寛容さや譲歩を学ぶのではないかと思います。
それに、やはり同じ犬好きという目で世界を優しく見ることができるように思えます。
私は動物を飼う環境に、一度も居たことがないので、そういう人たちが心に育てる寛容さが素晴らしいなと思いました。
なんの分野でも、好き、という気持ちは優しいものを生むように思います。
まだご愛犬を失った痛みは深いでしょうが、ご家族皆さま健やかな週末をお過ごしになるよう、願います。
楽しく過ごした日々の思い出を大切にして過ごすようにしています。