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日本共産党兵庫県委員会で働いています。

日韓の歴史をたどる⑩ 義兵戦争 全土蜂起を虐殺・焼き払う

2019-10-03 20:48:41 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をたどる⑩ 義兵戦争 全土蜂起を虐殺・焼き払う
愼 蒼宇
しん・ちゃんう 1970年生まれ。法政大学准教授。『植民地朝鮮の警察と民衆世界』、『岩波講座東アジア近現代通史第2巻 日露戦争と韓国併合』所収「植民地戦争としての義兵戦争」ほか

日本の侵略に直面するなかで、朝鮮各地で義兵と呼ばれる在野の武装蜂起が相次ぐようになった。保護国化(1905年)、ハーグ密使事件と高宗の強制退位(07年7月)といった朝鮮「亡国」を具現化させる出来事が続くと、蜂起は全土に拡大し、07年末には「十三道倡義(しょうぎ)大陣所」という全国義兵連合軍が結成された。
10年の「韓国併合」を前に勢いは衰えるが、15年に至るまで抗日武装蜂起は続いた。これは「義兵闘争」ではなく「義兵戦争」と呼ぶべきである。

日本の罪を告発 独立主権を要求
義兵将の代表的存在であった崔益鉉(さいえきげん)(チェ・イクヒョン)は、1876年の日朝修好条規締結時から抗日蜂起までの30年間、一貫して日本の対朝鮮政策を批判し、日清戦争時の内政干渉と閔妃(みんび)殺害事件以降は、国際法を援用しながら日本の公法違反と不法行為を告発し続けた。
崔益鉉は、韓国の外交権を奪った1905年の第2次日韓協約締結後に「日本政府に寄せる書」を記し、日本には信義に背く16の罪があると批判した。日本が日朝修好条規締結以降、常に「朝鮮国の独立を保全する」と言いながら朝鮮国の独立・主権・土地を奪い、国際社会を欺いていることを告発し、朝鮮国の財政の支配と借款(長期融資)の強制、鉱山・漁業権など各種利権の奪取、郵便、各港市場、貨幣などの支配、閔妃虐殺、日露戦争時の人民使役、顧問政治など具体的な侵害行為を批判。そのうえで、崔は日本に罪を悔い改めて統監府・顧問・軍隊を撤収し、欺いた各国に謝罪して、朝鮮の独立自主の権利を侵害しないように要求した。
義兵たちの身分・職業は農業7割を筆頭に、商業、無職、工業、軍人、儒者・両班(やんばん)(特権的な官僚階級)、鉱山労働者など多岐にわたった。義兵戦争は(日露戦争と統監府の植民地化政策で土地を奪われ、経済生活を破壊され、日本軍・憲兵・警察によって家族を殺された者たちの、命をかけた壮絶な戦いだったのである。



反日義兵部隊の兵士(『独立記念館』から)

「膺懲的討伐」 即決で捕虜銃殺
07年8月に韓国軍が解散させられると、ソウルと地方双方で日本軍に対する蜂起が起こった。長谷川好道・韓国駐箚(ちゅうさつ)軍司令官は、「猛烈二膺懲(ようちょう)的討伐ヲ施スヘキ」との「殲滅(せんめつ)」方針に立って、義兵をかくまう者は容赦なく厳罰にするだけではなく、その責任を村落に負わせ厳重に処置する「村落連座」の方針を一般民衆に告示した(07年9月)。
長谷川軍司令官は「成るべく捕虜とする以前に於いて適宜処分すべし」との令達を各部隊に発しており(歩兵第14連隊『陣中日誌』)、これによって捕虜銃殺が恒常化した可能性が高い。実際、同『陣中日誌』を見ると、これらの告示と令達以降、無差別殺数、即決による捕虜銃殺、村落焼き払いが頻発している。
長谷川軍司令官は「対韓政策上二及ホス不利」を恐れ、告示の1カ月後に、こうした蛮行を禁止する訓示を発したが、日本軍の蛮行はその後も繰り返され、処罰もされなかった。これは韓国法と国際法のみならず日本軍の軍法上も許されることではない。
「膺懲的討伐」は当然、朝鮮社会の反発を招き、武装蜂起に参加する者は一層増えた。統監府と日本軍・憲兵・警察はその後も苛烈に弾圧し続け、朝鮮人の憲兵補助員も投入した。

「兎狩り同様」と煽った新聞記事
その結果、08年末には蜂起は徐々に鎮圧されていったが、全羅道だけは農民を中心に義兵の勢いは衰えなかった。日本軍は「帝国の威信」をかけて「南韓大討伐」(08年末~09年10月)を敢行した。義兵の討伐だけでなく、圧倒的な軍事力・警察力で「一般人民ノ精神上」に「帝国ノ威武」を刻印し、民衆を心底から震え上がらせることが目的であった。(臨時韓国派遣隊司令部「南韓大討伐概況」)
日本各地の郷土新聞も例えば、第6師団歩兵第23連隊派遣時の九州日日新聞は「片っ端より村落を包囲し、不良不埒(ふらち)の者と認めたる者は容赦なく処断せらるる由なれば、定めて痛快のことならん」(「暴徒討伐は兎狩り同様」08年5月10日付)といった、「暴徒大掃蕩(そうとう)」に快哉(かいさい)を叫ぶ扇動的な報道を繰り広げ、日本社会の朝鮮人=「暴徒」観に大きく影響した。
朝鮮駐箚軍司令部編『朝鮮暴徒討伐誌』によると、07年~11年の義兵側の死傷者数は1万7779名だが、民間人の死傷者はさらに多いとも記録している。義兵がほぼ鎮圧された後も、日本は蜂起を恐れて弾圧時と同様の1師団半クラスの兵力を朝鮮に維持し、三・一運動時においても苛烈な軍暴力を繰り返していったのである。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年10月2日付掲載


内政も外交も、政治権力が日本政府に奪われていく中、朝鮮(韓国)の民衆は武装蜂起に頼らざるをえなくなる。
それを鎮圧する日本政府の行為をマスコミは「兎狩り」と煽る。

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