私はアイヌ② 自由な生活 次第に奪われ
江戸幕府・明治政府から現在へ
日本の先住民族「アイヌ」は北海道の自然と共生し、その一部を使って豊かな生活を営んでいました。固有の生業(なりわい)も生活様式も失うに至るまで、何があったのか。その歴史をたどるためウポポイの国立アイヌ民族博物館を訪ねました。
自然から得て
アイヌは衣食住を北海道の豊かな自然から得ていました。春は海岸線でニシン、夏はマス、秋は遡上(そじょう)したサケを川から取り、冬は山に入ってクマやシカの猟をしました。オオウバユリのゆり根など、野山の山菜や木の実を調理しました。
野山の草木とともに、取った魚や獣は食べるだけでなく衣服の材料にもなりました。オヒョウなどの樹皮繊維で編んだアットゥシはアイヌの伝統的な上衣。日本との交易で入手した綿や絹と組み合わせたものもあります。防水性と通気性に富むサケの皮は上衣や履物に加工しました。
狩ったシカは余すところなく利用しました。肉を食べるだけでなく、皮は保温性の高い履物に。角は土を掘る道具、ひづめは赤ちゃんのがらがら、足の腱(けん)は縫い糸、ぼうこうは水や油の入れ物にしました。
アイヌは漆器や綿、絹、ガラスの首飾りなどの品を和人(日本民族)や中国大陸の民族、ロシアの先住民族らとの交易で手に入れていました。
ウポポイ=民族共生象徴空間:先住民族の尊厳を尊重し、文化復興の拠点とする目的で2020年、北海道白老(しらおい)町に開業した国立施設。アイヌの歴史や文化を展示する国立アイヌ民族博物館のほか、体験学習館、再現したコタン(集落)などを擁する
サケの皮で作られた履物と衣服のミニチュア=国立アイヌ民族博物館
毒矢猟禁止の取り消しを求める嘆願書=国立アイヌ民族博物館
同化政策から
ところが17世紀、徳川幕府がアイヌの住む蝦夷(えぞ)地の領地権、懲役権、交易の独占権を松前氏に与え、北海道南端、現在の松前町に松前藩を置いて交易を独占しました。和人の商人が進出し、アイヌは和人が経営する漁場で労働させられました。
明治期になると政府がアイヌ固有の生活文化や習慣を制限しました。資源保護のため川でサケやマスを取ることを禁止。危険だとしてシカ猟に毒矢を使うことも禁止。それまでまきや樹皮を取りに入っていた山や野を「国有化」し、アイヌは自由に入れなくなりました。
「サケ、マスをたくさん取っていたのは和人。山に入れず、アイヌはアツトゥㇱをあまり織れなくなった」。研究学芸部資料情報室長の田村将人さんはそう指摘します。
日本語の使用が奨励され、アイヌ語は衰退。女性が口の周りに施す入れ墨や男性のピアスも禁止されました。
このような同化政策でアイヌは困窮し、狩猟禁止を解くよう嘆願する人も出ました。このため、明治政府は「北海道旧土人保護法」を制定。アイヌを和人に同化させようと営農希望者に土地を付与しました。しかし、良い農地は和人に配分済み。耕作に向かない土地を付与され、農業に失敗したアイヌの土地は没収されました。政府により設置されたアイヌ学校は和人の学校より教育内容が低く、学校統合後の差別の原因となりました。
田村さんは「これが今につながっている」と話しています。
同法は1997年に廃止され、アイヌ文化振興法が施行されました。
(おわり)(小梶花恵)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2024年3月1日付掲載
アイヌは衣食住を北海道の豊かな自然から得ていました。春は海岸線でニシン、夏はマス、秋は遡上(そじょう)したサケを川から取り、冬は山に入ってクマやシカの猟をしました。オオウバユリのゆり根など、野山の山菜や木の実を調理。
野山の草木とともに、取った魚や獣は食べるだけでなく衣服の材料にも。
17世紀、徳川幕府。和人の商人が進出し、アイヌは和人が経営する漁場で労働。
明治期になると政府がアイヌ固有の生活文化や習慣を制限。資源保護のため川でサケやマスを取ることを禁止。危険だとしてシカ猟に毒矢を使うことも禁止。それまでまきや樹皮を取りに入っていた山や野を「国有化」し、アイヌは自由に入れなく。
江戸幕府・明治政府から現在へ
日本の先住民族「アイヌ」は北海道の自然と共生し、その一部を使って豊かな生活を営んでいました。固有の生業(なりわい)も生活様式も失うに至るまで、何があったのか。その歴史をたどるためウポポイの国立アイヌ民族博物館を訪ねました。
自然から得て
アイヌは衣食住を北海道の豊かな自然から得ていました。春は海岸線でニシン、夏はマス、秋は遡上(そじょう)したサケを川から取り、冬は山に入ってクマやシカの猟をしました。オオウバユリのゆり根など、野山の山菜や木の実を調理しました。
野山の草木とともに、取った魚や獣は食べるだけでなく衣服の材料にもなりました。オヒョウなどの樹皮繊維で編んだアットゥシはアイヌの伝統的な上衣。日本との交易で入手した綿や絹と組み合わせたものもあります。防水性と通気性に富むサケの皮は上衣や履物に加工しました。
狩ったシカは余すところなく利用しました。肉を食べるだけでなく、皮は保温性の高い履物に。角は土を掘る道具、ひづめは赤ちゃんのがらがら、足の腱(けん)は縫い糸、ぼうこうは水や油の入れ物にしました。
アイヌは漆器や綿、絹、ガラスの首飾りなどの品を和人(日本民族)や中国大陸の民族、ロシアの先住民族らとの交易で手に入れていました。
ウポポイ=民族共生象徴空間:先住民族の尊厳を尊重し、文化復興の拠点とする目的で2020年、北海道白老(しらおい)町に開業した国立施設。アイヌの歴史や文化を展示する国立アイヌ民族博物館のほか、体験学習館、再現したコタン(集落)などを擁する
サケの皮で作られた履物と衣服のミニチュア=国立アイヌ民族博物館
毒矢猟禁止の取り消しを求める嘆願書=国立アイヌ民族博物館
同化政策から
ところが17世紀、徳川幕府がアイヌの住む蝦夷(えぞ)地の領地権、懲役権、交易の独占権を松前氏に与え、北海道南端、現在の松前町に松前藩を置いて交易を独占しました。和人の商人が進出し、アイヌは和人が経営する漁場で労働させられました。
明治期になると政府がアイヌ固有の生活文化や習慣を制限しました。資源保護のため川でサケやマスを取ることを禁止。危険だとしてシカ猟に毒矢を使うことも禁止。それまでまきや樹皮を取りに入っていた山や野を「国有化」し、アイヌは自由に入れなくなりました。
「サケ、マスをたくさん取っていたのは和人。山に入れず、アイヌはアツトゥㇱをあまり織れなくなった」。研究学芸部資料情報室長の田村将人さんはそう指摘します。
日本語の使用が奨励され、アイヌ語は衰退。女性が口の周りに施す入れ墨や男性のピアスも禁止されました。
このような同化政策でアイヌは困窮し、狩猟禁止を解くよう嘆願する人も出ました。このため、明治政府は「北海道旧土人保護法」を制定。アイヌを和人に同化させようと営農希望者に土地を付与しました。しかし、良い農地は和人に配分済み。耕作に向かない土地を付与され、農業に失敗したアイヌの土地は没収されました。政府により設置されたアイヌ学校は和人の学校より教育内容が低く、学校統合後の差別の原因となりました。
田村さんは「これが今につながっている」と話しています。
同法は1997年に廃止され、アイヌ文化振興法が施行されました。
(おわり)(小梶花恵)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2024年3月1日付掲載
アイヌは衣食住を北海道の豊かな自然から得ていました。春は海岸線でニシン、夏はマス、秋は遡上(そじょう)したサケを川から取り、冬は山に入ってクマやシカの猟をしました。オオウバユリのゆり根など、野山の山菜や木の実を調理。
野山の草木とともに、取った魚や獣は食べるだけでなく衣服の材料にも。
17世紀、徳川幕府。和人の商人が進出し、アイヌは和人が経営する漁場で労働。
明治期になると政府がアイヌ固有の生活文化や習慣を制限。資源保護のため川でサケやマスを取ることを禁止。危険だとしてシカ猟に毒矢を使うことも禁止。それまでまきや樹皮を取りに入っていた山や野を「国有化」し、アイヌは自由に入れなく。
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