私はアイヌ① 隠した「自分」取り戻し
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札幌市アイヌ教育相談員 光野智子さん
北海道を中心に1万人以上いる(道調査)アイヌは日本の先住民族です。和人(日本民族)から差別を受け、多くの人が出自を隠してきました。光野智子(みつの・ともこ)さん(63)もそのひとり。現在は札幌市アイヌ教育相談員として市内の小中高校200校を対象にアイヌ文化と歴史を教えています。
自らアイヌ紋様の刺しゅうを施したマタンプㇱ(はちまき)や半年かけて制作したチヂリ(木綿衣)を身に着けて教室に入ると、子どもたちは目を見張り、「日本語話せるの」と尋ねます。
授業の前半はアイヌ語のあいさつや地名のアイヌ語の意味を教えます。「札幌はアイヌ語の『サッポロペツ』からきています。『サッ』は『乾いた』、『ポロ』は『大きい』、『ペツ』は『川』。ポロやペツの付いた地名がたくさんあるでしょう。北海道はアイヌ語が元になっている地名がほとんどです」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/a8/68fc736e4529ea188d9f4bebd68eb712.jpg)
「刺しゅうのとげは魔よけの意味」と説明する光野智子さん。着用するマタンプㇱ、チジリも自作
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/6c/94623a09d7dfc5ff14f7fdc7b903f241.jpg)
僕が、40年近く前、北海道を旅行した時に買ったアイヌの鉢巻きです。
自覚無く育ち
光野さんはアイヌの母親と和人の父親の間に生まれました。親戚が集まるとアイヌ語会話を聞くこともありましたが、アイヌ民族の自覚無く育ちました。両親の離婚後、母親は土産物の熊の木彫りを彫っては観光客に売り、子どもたちを育て上げました。長兄は木彫りの仕事を継ぎましたが、次兄はアイヌであることを今も否定しています。
光野さんは母親から「シャモ(和人)と結婚してアイヌの血を薄める」よう勧められ、自身も納得し和人と結婚しました。
転機は自身の離婚後、専業主婦だった光野さんが手に職を得るため38歳で通い始めたアイヌ刺しゅうの講習でした。それまでは編み物も縫い物も途中で放り出していた「飽きっぽい」光野さんが、アイヌ刺しゅうに触れたとたん、すいすいと縫い進むことができました。縫い目も美しく、デザインが自然に浮かんできます。
それまでは隠していた「アイヌとしての自分」が目覚めた瞬間でした。
構造的な差別
それを契機に光野さんは、民族の歴史や文化を学びました。出身地の平取(びらとり)町で見てきたアイヌは、日雇いの仕事しか得られず貧しくて、酒ばかり飲む人がたくさんいました。「いやだな」と思っていたことが構造的な差別によるものだったと知り、今では苦しんだアイヌたちの代弁者として教壇に立ちます。
授業では、アイヌ紋様の魔よけや守護を願う意味を伝え、折り紙で作ります。コタン(集落)での生活の様子の絵を見せ、狩りに使った道具で遊びます。光野さんが「あの子はアイヌかもしれない」と思う子どもが、授業の内容に目を伏せることもあります。アイヌ民族を日本国民にさせる教育などの明治政府による同化政策や差別について直接は触れませんが、子どもたちに問いかけます。
「なぜ今私は日本語を話し、アイヌとしての生活ができなくなっているのでしょうか」
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2024年2月29日付掲載
北海道を中心に1万人以上いる(道調査)アイヌは日本の先住民族。光野智子(みつの・ともこ)さん(63)もそのひとり。
「札幌はアイヌ語の『サッポロペツ』からきています。『サッ』は『乾いた』、『ポロ』は『大きい』、『ペツ』は『川』。
転機は自身の離婚後、専業主婦だった光野さんが手に職を得るため38歳で通い始めたアイヌ刺しゅうの講習。それまでは編み物も縫い物も途中で放り出していた「飽きっぽい」光野さんが、アイヌ刺しゅうに触れたとたん、すいすいと縫い進むことができました。縫い目も美しく、デザインが自然に浮かんできます。
それまでは隠していた「アイヌとしての自分」が目覚めた瞬間。
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札幌市アイヌ教育相談員 光野智子さん
北海道を中心に1万人以上いる(道調査)アイヌは日本の先住民族です。和人(日本民族)から差別を受け、多くの人が出自を隠してきました。光野智子(みつの・ともこ)さん(63)もそのひとり。現在は札幌市アイヌ教育相談員として市内の小中高校200校を対象にアイヌ文化と歴史を教えています。
自らアイヌ紋様の刺しゅうを施したマタンプㇱ(はちまき)や半年かけて制作したチヂリ(木綿衣)を身に着けて教室に入ると、子どもたちは目を見張り、「日本語話せるの」と尋ねます。
授業の前半はアイヌ語のあいさつや地名のアイヌ語の意味を教えます。「札幌はアイヌ語の『サッポロペツ』からきています。『サッ』は『乾いた』、『ポロ』は『大きい』、『ペツ』は『川』。ポロやペツの付いた地名がたくさんあるでしょう。北海道はアイヌ語が元になっている地名がほとんどです」
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「刺しゅうのとげは魔よけの意味」と説明する光野智子さん。着用するマタンプㇱ、チジリも自作
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僕が、40年近く前、北海道を旅行した時に買ったアイヌの鉢巻きです。
自覚無く育ち
光野さんはアイヌの母親と和人の父親の間に生まれました。親戚が集まるとアイヌ語会話を聞くこともありましたが、アイヌ民族の自覚無く育ちました。両親の離婚後、母親は土産物の熊の木彫りを彫っては観光客に売り、子どもたちを育て上げました。長兄は木彫りの仕事を継ぎましたが、次兄はアイヌであることを今も否定しています。
光野さんは母親から「シャモ(和人)と結婚してアイヌの血を薄める」よう勧められ、自身も納得し和人と結婚しました。
転機は自身の離婚後、専業主婦だった光野さんが手に職を得るため38歳で通い始めたアイヌ刺しゅうの講習でした。それまでは編み物も縫い物も途中で放り出していた「飽きっぽい」光野さんが、アイヌ刺しゅうに触れたとたん、すいすいと縫い進むことができました。縫い目も美しく、デザインが自然に浮かんできます。
それまでは隠していた「アイヌとしての自分」が目覚めた瞬間でした。
構造的な差別
それを契機に光野さんは、民族の歴史や文化を学びました。出身地の平取(びらとり)町で見てきたアイヌは、日雇いの仕事しか得られず貧しくて、酒ばかり飲む人がたくさんいました。「いやだな」と思っていたことが構造的な差別によるものだったと知り、今では苦しんだアイヌたちの代弁者として教壇に立ちます。
授業では、アイヌ紋様の魔よけや守護を願う意味を伝え、折り紙で作ります。コタン(集落)での生活の様子の絵を見せ、狩りに使った道具で遊びます。光野さんが「あの子はアイヌかもしれない」と思う子どもが、授業の内容に目を伏せることもあります。アイヌ民族を日本国民にさせる教育などの明治政府による同化政策や差別について直接は触れませんが、子どもたちに問いかけます。
「なぜ今私は日本語を話し、アイヌとしての生活ができなくなっているのでしょうか」
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2024年2月29日付掲載
北海道を中心に1万人以上いる(道調査)アイヌは日本の先住民族。光野智子(みつの・ともこ)さん(63)もそのひとり。
「札幌はアイヌ語の『サッポロペツ』からきています。『サッ』は『乾いた』、『ポロ』は『大きい』、『ペツ』は『川』。
転機は自身の離婚後、専業主婦だった光野さんが手に職を得るため38歳で通い始めたアイヌ刺しゅうの講習。それまでは編み物も縫い物も途中で放り出していた「飽きっぽい」光野さんが、アイヌ刺しゅうに触れたとたん、すいすいと縫い進むことができました。縫い目も美しく、デザインが自然に浮かんできます。
それまでは隠していた「アイヌとしての自分」が目覚めた瞬間。
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