この人に聞きたい 作家・落合恵子さん 第3回 “若い女性”を見下す時代 いつもトゲ出して生きていた
〈大学卒業後、22歳でラジオ局の文化放送に就職しました〉
あの時代、女性でメディアに就職できたことは恵まれていたと思います。でも、入ってみたら、「えっ?」と思うようなことの連続で、苦い失望を味わいました。報道を志望していましたが、かなわない。会議で企画を出してもテーブルの上には載らない。当時はそれがルールだったと後で知りました。
女性であり若手であることは、二重三重のハンディキャップを背負わされることでした。それでも、同僚たちの前では絶対に涙を見せまいと決めていて、それは貫徹しました。若い女性を見下すのが当たり前の職場で、何を言われても「そんなこと言わしておけばいいじゃない」という同僚がほとんど。そんな風潮にも同調できませんでした。
42歳、文化放送「落合恵子の ちょっと待ってMONDAY」の放送時
セクハラ質問
〈深夜番組のパーソナリティーとなり、ささやくような語りロで「レモンちゃん」というニックネームがつく人気者に。でも、自分が望んだことではありませんでした〉
私は集団のなかにいると少数派。その少数派のなかでもさらに少数派になってしまう感覚があり、疲れてしまうことが多いんです。会社では、いつもトゲを出して生きていた感じです。そのトゲは自分も傷つける。それが退職するまで続きました。
アナウンサーなのに5カ月も声が出なくなったこともあったし、全身じんましんになったこともありました。そんな会社勤めのなかで、若い女性だからというだけで意味もなく自分にスポットライトを当てられるのは、本当に耐え難いことでした。
〈珍しいというだけで、週刊誌の取材が殺到し、今でいうセクシャルハラスメントにあたる質問や、根拠のない結婚報道に悩まされました〉
「初恋はいつですか」とか。悪意不在でしょうが、疲れました。なかには「下着の色は?」などと。なぜ私がそんなことを答えなければならないのか、と理解できなかったです。答えないと「生意気」と。会ったこともない人と「結婚か!」と報じる雑誌のつり広告を、通勤の電車で見たこともありました。注目はされたけど、それは若い女性パーソナリティーが珍しかったというだけです。
後にもの書きになってからも、がっかりするようなことはありました。でも、会社勤めやものを書くことで失望を味わったのは、いま思えばよかったのかもしれません。負け惜しみかもしれませんが、つまづくことがなかったら見えなかった景色を見せてくれたのかもしれないからです。
児童書専門店
〈放送局時代には、いい思い出もあります〉
放送局の食堂で知り合ったアルバイトの青年は、45年前にクレヨンハウスを始めた時、一輪のバラを届けてくれました。社会で闘っていた青年です。放送のなかの「もっと本を読もうよ」という呼びかけをきっかけに、編集者になったというリスナーもいました。
〈クレヨンハウスのモデルとなった児童書専門店との出合いも、放送局の仕事で海外を訪れたことがきっかけでした〉
欧米には子どもの本の専門店があって、そこに子どもや町の人たちが集まってくる。親たちも、子どものころに通っていた。そんな話を聞いた時、日本にもそんな本屋さんが欲しいと思いました。
初めての著書『スプーン一杯の幸せ』シリーズが数百万部も売れたのは、ラジオ・パーソナリティーをしていたからです。その印税でクレヨンハウスを始めることができたわけですから、放送局には“おかげさまで”という思いも一方ではあります。同時にいろいろ屈辱的な思いもしましたし、メディアとはどんなところかも、学ぶことができました。当時はいろいろな感情がごちゃまぜで、押しつぶされそうな毎日でしたが。(つづく)
「しんぶん赤旗」日曜版 2020年12月6日付掲載
若い女性というだけで、見下され、セクハラ質問される時代。
しかし、ラジオ・パーソナリティが功を奏して、初めての著書『スプーン一杯の幸せ』がミリオンセラーに。
児童書専門店・クレオンハウスにつながっていく。
〈大学卒業後、22歳でラジオ局の文化放送に就職しました〉
あの時代、女性でメディアに就職できたことは恵まれていたと思います。でも、入ってみたら、「えっ?」と思うようなことの連続で、苦い失望を味わいました。報道を志望していましたが、かなわない。会議で企画を出してもテーブルの上には載らない。当時はそれがルールだったと後で知りました。
女性であり若手であることは、二重三重のハンディキャップを背負わされることでした。それでも、同僚たちの前では絶対に涙を見せまいと決めていて、それは貫徹しました。若い女性を見下すのが当たり前の職場で、何を言われても「そんなこと言わしておけばいいじゃない」という同僚がほとんど。そんな風潮にも同調できませんでした。
42歳、文化放送「落合恵子の ちょっと待ってMONDAY」の放送時
セクハラ質問
〈深夜番組のパーソナリティーとなり、ささやくような語りロで「レモンちゃん」というニックネームがつく人気者に。でも、自分が望んだことではありませんでした〉
私は集団のなかにいると少数派。その少数派のなかでもさらに少数派になってしまう感覚があり、疲れてしまうことが多いんです。会社では、いつもトゲを出して生きていた感じです。そのトゲは自分も傷つける。それが退職するまで続きました。
アナウンサーなのに5カ月も声が出なくなったこともあったし、全身じんましんになったこともありました。そんな会社勤めのなかで、若い女性だからというだけで意味もなく自分にスポットライトを当てられるのは、本当に耐え難いことでした。
〈珍しいというだけで、週刊誌の取材が殺到し、今でいうセクシャルハラスメントにあたる質問や、根拠のない結婚報道に悩まされました〉
「初恋はいつですか」とか。悪意不在でしょうが、疲れました。なかには「下着の色は?」などと。なぜ私がそんなことを答えなければならないのか、と理解できなかったです。答えないと「生意気」と。会ったこともない人と「結婚か!」と報じる雑誌のつり広告を、通勤の電車で見たこともありました。注目はされたけど、それは若い女性パーソナリティーが珍しかったというだけです。
後にもの書きになってからも、がっかりするようなことはありました。でも、会社勤めやものを書くことで失望を味わったのは、いま思えばよかったのかもしれません。負け惜しみかもしれませんが、つまづくことがなかったら見えなかった景色を見せてくれたのかもしれないからです。
児童書専門店
〈放送局時代には、いい思い出もあります〉
放送局の食堂で知り合ったアルバイトの青年は、45年前にクレヨンハウスを始めた時、一輪のバラを届けてくれました。社会で闘っていた青年です。放送のなかの「もっと本を読もうよ」という呼びかけをきっかけに、編集者になったというリスナーもいました。
〈クレヨンハウスのモデルとなった児童書専門店との出合いも、放送局の仕事で海外を訪れたことがきっかけでした〉
欧米には子どもの本の専門店があって、そこに子どもや町の人たちが集まってくる。親たちも、子どものころに通っていた。そんな話を聞いた時、日本にもそんな本屋さんが欲しいと思いました。
初めての著書『スプーン一杯の幸せ』シリーズが数百万部も売れたのは、ラジオ・パーソナリティーをしていたからです。その印税でクレヨンハウスを始めることができたわけですから、放送局には“おかげさまで”という思いも一方ではあります。同時にいろいろ屈辱的な思いもしましたし、メディアとはどんなところかも、学ぶことができました。当時はいろいろな感情がごちゃまぜで、押しつぶされそうな毎日でしたが。(つづく)
「しんぶん赤旗」日曜版 2020年12月6日付掲載
若い女性というだけで、見下され、セクハラ質問される時代。
しかし、ラジオ・パーソナリティが功を奏して、初めての著書『スプーン一杯の幸せ』がミリオンセラーに。
児童書専門店・クレオンハウスにつながっていく。
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