新型コロナが問う 日本と世界 人間生活の土台強化を
新型コロナウイルスの世界的な流行が示したものは何か。フランス文学・思想研究者で、EUの問題にも詳しい慶応大学名誉教授の堀茂樹さんに聞きました。
聞き手 西沢亨子 写真 橋爪拓治
フランス文学者 堀茂樹さん
ほり・しげき1952年生まれ。慶応大学名誉教授(フランス文学・思想)。翻訳家。
訳書に『悪童日記』『第三の嘘』ほか多数
今回のコロナ禍で痛感させられたのは、人間生活のインフラつまり土台が、いかに重要で、いかに損なわれてきたか、です。
まず自然環境。相次ぐ新しい感染症の発生は、人類の野放図な経済活動が森を壊し、自然を痛めつけてきたことの結果です。かつては人間が直接触れることのなかった森の奥の野生動物から、未知のウイルスが人間に感染する。
次に身体性。地球の文明生活が自然の上に成り立っているように、個人の思想や感情も身体という土台の上にあるということ。
同様に、われわれは社会的な存在でもあり、集団生活は公共性に支えられています。
自然、身体、公共をもう一度意識化し、その保全に十分なお金を注いで強くする必要があると思います。
それでどうするか。表面的な効率追求、ジャストインタイム(必要な物を必要な時にだけ取りそろえ在庫を極力減らす)的な、余裕のない社会の組織・運営をやめて正気を取り戻す、物事の本質を見つめなおす意識改革が必要です。ところが、それをやらせないのがいわゆる新自由主義ですね。日本でこれをひっぺがし、環境を保護し、疾病に備え、公共部門を強くするには、政権交代が不可欠です。
ここ25年ほど、教育や知的活動の分野にも新自由主義が入り込み、基礎をないがしろにし、由その研究、何の役に立つの」という近視眼的な考え方が広がりました。「グローバルに活躍する人材を」が決まり文句となり、公共や国の利益は軽視され、個人が国境を超えた市場で自己の最大利益を求める行動がよしとされ、そういう志向が育てられてきました。
このように新自由主義の人間観は功利的な個人主義で、グローバリズムと表裏一体です。これをしっかり乗り越えるには、国家主義にハマることなしに国家を再評価する必要があります。
グローバルとインターナショナルの区別が重要だと思うんです。インターナショナルというのは、ナショナルな(国の)枠組みが前提です。私は、民主主義社会を営むには、ある程度の国家意識は必要だと考えます。他国と自国の区別、外国人と日本人、つまり政治的権利・投票権を持つ人と持たない人の区別です。
これは民族とは違います。民族は血ですから閉じている。国民はそうではない。誰がその国のメンバーかは、ラグビーのナショナルチームのようにルールを決めて開放的にすることもできる。でも一定の時期に一定の枠がないと多数決もとれない。だから民主制を成立させるには国境が必要なんです。
そのうえで、ほかの国との境を壁でなくドアや窓にして、開けたり閉めたりしながら国際協力する。
これはあくまで政治的権利に関する話です。コロナの補償とかワクチン接種とかで住民を国籍のある、なしで区別するのは、もちろん論外です。
グローバリズムは、国家を弱体化させ、国民の概念を曖昧にします。そうすると国民の総意がぼやけてしまい、民主主義ができず、結局、超富裕層による寡頭政治になるのです。
EUの優等生イタリアの今
世界で一番、グローバル化している空間はEU(欧州連合)です。現在の超国家としてのEUには、各国の国民の民意が届かない。なので一部のエリートが牛耳る、民衆からかけ離れた一種の帝国になっています。
イタリアはEU委員会からすると優等生だったんですよ。予算削減の。医療体制も一番削られた。今回その結果を突き付けられた時に、EUから何の助けもなかった。ギリシャ等の南欧に緊縮を強いてきたドイツは、自国はちゃんと医療体制も確保してたんですね。
いまイタリアは相当怒っています。ユーロ(通貨)圏から抜けたい、EUから脱退したいという意見が世論調査で過半数を占めています。
フランスでも、フランス有数の工業をドイツやアメリカの資本から守ろうとしなかった新自由主義者のマクロン大統領に対して、マスク一つ作れない国になっていることへの批判が起きています。今月、『人民戦線』という論壇誌が出るのですが、これは、戦中戦後にドゴール派と共産党が連帯した一種の愛国戦線、「全国抵抗評議会」を模範に、左右が共同で公共を強くする方向を目指しており、私は注目しています。
弱者・民衆が勝つためには
いうまでもなく、国家があるのは国民のためです。
国家をひとり歩きさせるのではなく、民主的にコントロールしながら「国家を活用する自由」。これを生かさなかったら民衆に勝ち目はないですよ。「国家からの自由」としての人権擁護を言っているだけでは富裕層の天下です。民主主義の闘いで権力を握り、力関係を変更し、市場に介入してはじめて貧しい側が勝てるのです。
19世紀のフランスのジャーナリスト、ラコルデールの言葉を紹介します。「強者と弱者、金持ちと貧乏人、主人と従者の間では、自由が抑圧し、法律が解放する」
国家権力を背景とする法的規制は民衆の味方になり得るわけです。もちろん全部規制したら自由ではないわけで、そこは切り分けです。社会共通資本は公共でやるべきです。
野党の結築で政権を奪取し、竹中平蔵氏のお仲間、一握りのメンバーが実質的権力を行使する政治を完全に終わらせたいものですね。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年6月22日付掲載
新型コロナの危機のもと、効率優先、新自由主義を見直し、人々の命、生活、福祉を優先する政府、行政に転換することが求められています。
新型コロナウイルスの世界的な流行が示したものは何か。フランス文学・思想研究者で、EUの問題にも詳しい慶応大学名誉教授の堀茂樹さんに聞きました。
聞き手 西沢亨子 写真 橋爪拓治
フランス文学者 堀茂樹さん
ほり・しげき1952年生まれ。慶応大学名誉教授(フランス文学・思想)。翻訳家。
訳書に『悪童日記』『第三の嘘』ほか多数
今回のコロナ禍で痛感させられたのは、人間生活のインフラつまり土台が、いかに重要で、いかに損なわれてきたか、です。
まず自然環境。相次ぐ新しい感染症の発生は、人類の野放図な経済活動が森を壊し、自然を痛めつけてきたことの結果です。かつては人間が直接触れることのなかった森の奥の野生動物から、未知のウイルスが人間に感染する。
次に身体性。地球の文明生活が自然の上に成り立っているように、個人の思想や感情も身体という土台の上にあるということ。
同様に、われわれは社会的な存在でもあり、集団生活は公共性に支えられています。
自然、身体、公共をもう一度意識化し、その保全に十分なお金を注いで強くする必要があると思います。
それでどうするか。表面的な効率追求、ジャストインタイム(必要な物を必要な時にだけ取りそろえ在庫を極力減らす)的な、余裕のない社会の組織・運営をやめて正気を取り戻す、物事の本質を見つめなおす意識改革が必要です。ところが、それをやらせないのがいわゆる新自由主義ですね。日本でこれをひっぺがし、環境を保護し、疾病に備え、公共部門を強くするには、政権交代が不可欠です。
ここ25年ほど、教育や知的活動の分野にも新自由主義が入り込み、基礎をないがしろにし、由その研究、何の役に立つの」という近視眼的な考え方が広がりました。「グローバルに活躍する人材を」が決まり文句となり、公共や国の利益は軽視され、個人が国境を超えた市場で自己の最大利益を求める行動がよしとされ、そういう志向が育てられてきました。
このように新自由主義の人間観は功利的な個人主義で、グローバリズムと表裏一体です。これをしっかり乗り越えるには、国家主義にハマることなしに国家を再評価する必要があります。
グローバルとインターナショナルの区別が重要だと思うんです。インターナショナルというのは、ナショナルな(国の)枠組みが前提です。私は、民主主義社会を営むには、ある程度の国家意識は必要だと考えます。他国と自国の区別、外国人と日本人、つまり政治的権利・投票権を持つ人と持たない人の区別です。
これは民族とは違います。民族は血ですから閉じている。国民はそうではない。誰がその国のメンバーかは、ラグビーのナショナルチームのようにルールを決めて開放的にすることもできる。でも一定の時期に一定の枠がないと多数決もとれない。だから民主制を成立させるには国境が必要なんです。
そのうえで、ほかの国との境を壁でなくドアや窓にして、開けたり閉めたりしながら国際協力する。
これはあくまで政治的権利に関する話です。コロナの補償とかワクチン接種とかで住民を国籍のある、なしで区別するのは、もちろん論外です。
グローバリズムは、国家を弱体化させ、国民の概念を曖昧にします。そうすると国民の総意がぼやけてしまい、民主主義ができず、結局、超富裕層による寡頭政治になるのです。
EUの優等生イタリアの今
世界で一番、グローバル化している空間はEU(欧州連合)です。現在の超国家としてのEUには、各国の国民の民意が届かない。なので一部のエリートが牛耳る、民衆からかけ離れた一種の帝国になっています。
イタリアはEU委員会からすると優等生だったんですよ。予算削減の。医療体制も一番削られた。今回その結果を突き付けられた時に、EUから何の助けもなかった。ギリシャ等の南欧に緊縮を強いてきたドイツは、自国はちゃんと医療体制も確保してたんですね。
いまイタリアは相当怒っています。ユーロ(通貨)圏から抜けたい、EUから脱退したいという意見が世論調査で過半数を占めています。
フランスでも、フランス有数の工業をドイツやアメリカの資本から守ろうとしなかった新自由主義者のマクロン大統領に対して、マスク一つ作れない国になっていることへの批判が起きています。今月、『人民戦線』という論壇誌が出るのですが、これは、戦中戦後にドゴール派と共産党が連帯した一種の愛国戦線、「全国抵抗評議会」を模範に、左右が共同で公共を強くする方向を目指しており、私は注目しています。
弱者・民衆が勝つためには
いうまでもなく、国家があるのは国民のためです。
国家をひとり歩きさせるのではなく、民主的にコントロールしながら「国家を活用する自由」。これを生かさなかったら民衆に勝ち目はないですよ。「国家からの自由」としての人権擁護を言っているだけでは富裕層の天下です。民主主義の闘いで権力を握り、力関係を変更し、市場に介入してはじめて貧しい側が勝てるのです。
19世紀のフランスのジャーナリスト、ラコルデールの言葉を紹介します。「強者と弱者、金持ちと貧乏人、主人と従者の間では、自由が抑圧し、法律が解放する」
国家権力を背景とする法的規制は民衆の味方になり得るわけです。もちろん全部規制したら自由ではないわけで、そこは切り分けです。社会共通資本は公共でやるべきです。
野党の結築で政権を奪取し、竹中平蔵氏のお仲間、一握りのメンバーが実質的権力を行使する政治を完全に終わらせたいものですね。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年6月22日付掲載
新型コロナの危機のもと、効率優先、新自由主義を見直し、人々の命、生活、福祉を優先する政府、行政に転換することが求められています。
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