子どもたちとともに 「教育のつどい」から④ 「大丈夫」安心届けて
「参加と共同の学校づくり」分科会で、「登校拒否・不登校問題全国連絡会」の坂本則子さん(元中学校教員)は、8年半の間、引きこもりを経験した後、現在は社会人として生活している息子、悠(はるか)さん(仮名)について語りました。
「ぼくはもう学校に行くのをやめる」と言って、悠さんは小学3年生の9月から不登校になりました。「学校にも行けない、取るに足りない自分」と、自分を責めて暴れました。当時中学校の教員だった坂本さんは、悠さんに寄り添うため介護休暇を取りましたが、周囲から「甘やかした」と責められ、「わが子を登校拒否にしたダメな母親」と自分を責めたといいます。
「参加と共同の学校づくり」分科会で体験を語る坂本則子さん=8月、大阪市
担任から「手紙」
不登校になってから5度目の春、中学2年になった悠さんの担任はベテラン女性教諭になりました。担任は家庭訪問で悠さんの生い立ちから不登校の経緯まで丁寧に聞き、毎週末に悠さん宛ての「ラブレター」を書くと言いました。毎週、学校の日常や驚いたことなどをつづった手紙が届きました。「ラブレター」は2年間続きました。
中学校卒業のとき、校長室で悠さんのための卒業式が行われました。悠さんは、担任に花束を渡し「いつもお手紙読んでいました」と言いました。坂本さんは「グワッと何かをつかまれた。先生の働きかけが学校への、人への信頼を呼び覚ますと私の中に刻まれた」といいます。
悠さんが11歳の時、中学卒業と高校受験を控えていた姉も不登校になりました。姉は高校は何とか合格したものの一日も登校せずに1年が過ぎ、通信制高校に転入。その通信制高校も休学状態になりました。
悠さんが17歳になったとき、「お姉ちゃんがそんなに行きたくないのなら、僕が代わりに行ってあげようか」と言い出しました。自らすべての書類を持って、人生で初めて一人で電車に乗って通信制高校に行き入学を決めました。
こんな日が来るとは思っておらず、驚きでいっぱいだったと坂本さん。「悠に勉強の遅れについて聞くと『九九は覚え直した。割り算はお姉ちゃんに教わった』と言った。本人が勉強したいと心底思うようになったときこそ、意欲と大きなパワーが湧くと教えられた」
暴れる子の叫び
悠さんが不登校になってから教員の仕事を休んでいた坂本さんでしたが、ある日、2人の子どもから「お母さんはもう学校へ戻っていいよ」と告げられました。復職した坂本さんは「暴れる子どもたちの中に『誰か止めてよ』という叫びのような声が聞こえるようになった」といいます。
悠さんはその後大学・大学院と進学し、現在は介護士をしています。「8年半しっかり引きこもって充電した年月が、悠を突き動かした。引きこもるとき自分を責める子が多くいる。自分を責めているときに自己肯定感は生まれない。まずは『だいじょうぶだよ』という安心感を届けてほしい」と、坂本さんは訴えます。
(井上拓大)(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2024年9月13日付掲載
不登校になってから5度目の春、中学2年になった悠(はるか)さんの担任はベテラン女性教諭に。担任は家庭訪問で悠さんの生い立ちから不登校の経緯まで丁寧に聞き、毎週末に悠さん宛ての「ラブレター」を書くと。毎週、学校の日常や驚いたことなどをつづった手紙が届きました。「ラブレター」は2年間続きました。
中学校卒業のとき、校長室で悠さんのための卒業式が行われました。悠さんは、担任に花束を渡し「いつもお手紙読んでいました」と言いました。坂本さんは「グワッと何かをつかまれた。先生の働きかけが学校への、人への信頼を呼び覚ますと私の中に刻まれた」と。
悠さんはその後大学・大学院と進学し、現在は介護士を。「8年半しっかり引きこもって充電した年月が、悠を突き動かした。引きこもるとき自分を責める子が多くいる。自分を責めているときに自己肯定感は生まれない。まずは『だいじょうぶだよ』という安心感を届けてほしい」と、坂本さん。
「参加と共同の学校づくり」分科会で、「登校拒否・不登校問題全国連絡会」の坂本則子さん(元中学校教員)は、8年半の間、引きこもりを経験した後、現在は社会人として生活している息子、悠(はるか)さん(仮名)について語りました。
「ぼくはもう学校に行くのをやめる」と言って、悠さんは小学3年生の9月から不登校になりました。「学校にも行けない、取るに足りない自分」と、自分を責めて暴れました。当時中学校の教員だった坂本さんは、悠さんに寄り添うため介護休暇を取りましたが、周囲から「甘やかした」と責められ、「わが子を登校拒否にしたダメな母親」と自分を責めたといいます。
「参加と共同の学校づくり」分科会で体験を語る坂本則子さん=8月、大阪市
担任から「手紙」
不登校になってから5度目の春、中学2年になった悠さんの担任はベテラン女性教諭になりました。担任は家庭訪問で悠さんの生い立ちから不登校の経緯まで丁寧に聞き、毎週末に悠さん宛ての「ラブレター」を書くと言いました。毎週、学校の日常や驚いたことなどをつづった手紙が届きました。「ラブレター」は2年間続きました。
中学校卒業のとき、校長室で悠さんのための卒業式が行われました。悠さんは、担任に花束を渡し「いつもお手紙読んでいました」と言いました。坂本さんは「グワッと何かをつかまれた。先生の働きかけが学校への、人への信頼を呼び覚ますと私の中に刻まれた」といいます。
悠さんが11歳の時、中学卒業と高校受験を控えていた姉も不登校になりました。姉は高校は何とか合格したものの一日も登校せずに1年が過ぎ、通信制高校に転入。その通信制高校も休学状態になりました。
悠さんが17歳になったとき、「お姉ちゃんがそんなに行きたくないのなら、僕が代わりに行ってあげようか」と言い出しました。自らすべての書類を持って、人生で初めて一人で電車に乗って通信制高校に行き入学を決めました。
こんな日が来るとは思っておらず、驚きでいっぱいだったと坂本さん。「悠に勉強の遅れについて聞くと『九九は覚え直した。割り算はお姉ちゃんに教わった』と言った。本人が勉強したいと心底思うようになったときこそ、意欲と大きなパワーが湧くと教えられた」
暴れる子の叫び
悠さんが不登校になってから教員の仕事を休んでいた坂本さんでしたが、ある日、2人の子どもから「お母さんはもう学校へ戻っていいよ」と告げられました。復職した坂本さんは「暴れる子どもたちの中に『誰か止めてよ』という叫びのような声が聞こえるようになった」といいます。
悠さんはその後大学・大学院と進学し、現在は介護士をしています。「8年半しっかり引きこもって充電した年月が、悠を突き動かした。引きこもるとき自分を責める子が多くいる。自分を責めているときに自己肯定感は生まれない。まずは『だいじょうぶだよ』という安心感を届けてほしい」と、坂本さんは訴えます。
(井上拓大)(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2024年9月13日付掲載
不登校になってから5度目の春、中学2年になった悠(はるか)さんの担任はベテラン女性教諭に。担任は家庭訪問で悠さんの生い立ちから不登校の経緯まで丁寧に聞き、毎週末に悠さん宛ての「ラブレター」を書くと。毎週、学校の日常や驚いたことなどをつづった手紙が届きました。「ラブレター」は2年間続きました。
中学校卒業のとき、校長室で悠さんのための卒業式が行われました。悠さんは、担任に花束を渡し「いつもお手紙読んでいました」と言いました。坂本さんは「グワッと何かをつかまれた。先生の働きかけが学校への、人への信頼を呼び覚ますと私の中に刻まれた」と。
悠さんはその後大学・大学院と進学し、現在は介護士を。「8年半しっかり引きこもって充電した年月が、悠を突き動かした。引きこもるとき自分を責める子が多くいる。自分を責めているときに自己肯定感は生まれない。まずは『だいじょうぶだよ』という安心感を届けてほしい」と、坂本さん。
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