浦和出身の地元選手で、J2に降格した浦和に加入して苦しいときを戦ってくれた室井市衛選手の思い出です。彼はまだ現役で、現在横浜FCに所属しています。開幕戦で見たかったですが、ベンチにも入っていなくて残念でした。
室井は、Jリーグが開幕した1993年に鹿島に加入し、鹿島では準レギュラークラスの選手でした。十分レギュラーの力はありましたが、当時の鹿島は秋田、奥野ががっちりポジションを確保していて、室井の出番は出場停止や負傷のときだけでした。そのため、よりDFの層が薄かった当時の浦和に加入すれば、不動のCBになれると思っていました。
事実、4バックの布陣を引いた斉藤監督が選んだ開幕戦のCBは、ピクンと室井でした。ただ、順調に見えた室井のスタートは、アウェーの水戸戦で日立市陸上競技場の劣悪な芝生にバランスを崩し鎖骨を骨折してつまずいてしまいました。リーグ後半戦は復帰しましたが、不安定な最終ラインをまとめ切れず、最終戦ではピクンのミスを処理するために無理をして退場になってしまいました。
それでも、J1に昇格することはできたので、翌2001年こそはと期待していました。しかし、理由はわかりませんが、チッタ監督は室井を使おうとしませんでした。結局、そのシーズンの途中でC大阪にレンタル移籍して、もう室井のプレーは敵としてしか見られないと覚悟しました。
しかし、2002年に室井は浦和に戻ってきました。当時のオフト監督が引いた布陣が、3バックのマンツーマンディフェンスでした。このシステムが室井の選手寿命を延ばすことになりました。最初の年こそ控えでしたが、翌2003年は室井の力を最大限に発揮した年になりました。
だいたい、相手が2トップのときは、ポストプレーヤーとスピードのあるタイプで組ませてきます。室井の役割はポストプレーヤーをマークして消す役割でした。当時のポストプレーヤーには外国人が多く、室井がマークした相手はエムボマ(東京V)、オゼアス(神戸)、マルコス(仙台)ら実力派外国人でした。
そんな相手に、ヘディングの技術を工夫して一歩も負けない戦いを見せた室井の姿は忘れられません。不運なことに、その年の9月に負傷して、浦和の初タイトルになったナビスコ杯決勝のピッチには立てませんでした。ただ、あの年の室井の活躍は、おそらくいろいろなチームのスカウトに強烈な印象を残したでしょう。まだ現役なのですから、横浜FCでもう一花を期待しています。
室井は、Jリーグが開幕した1993年に鹿島に加入し、鹿島では準レギュラークラスの選手でした。十分レギュラーの力はありましたが、当時の鹿島は秋田、奥野ががっちりポジションを確保していて、室井の出番は出場停止や負傷のときだけでした。そのため、よりDFの層が薄かった当時の浦和に加入すれば、不動のCBになれると思っていました。
事実、4バックの布陣を引いた斉藤監督が選んだ開幕戦のCBは、ピクンと室井でした。ただ、順調に見えた室井のスタートは、アウェーの水戸戦で日立市陸上競技場の劣悪な芝生にバランスを崩し鎖骨を骨折してつまずいてしまいました。リーグ後半戦は復帰しましたが、不安定な最終ラインをまとめ切れず、最終戦ではピクンのミスを処理するために無理をして退場になってしまいました。
それでも、J1に昇格することはできたので、翌2001年こそはと期待していました。しかし、理由はわかりませんが、チッタ監督は室井を使おうとしませんでした。結局、そのシーズンの途中でC大阪にレンタル移籍して、もう室井のプレーは敵としてしか見られないと覚悟しました。
しかし、2002年に室井は浦和に戻ってきました。当時のオフト監督が引いた布陣が、3バックのマンツーマンディフェンスでした。このシステムが室井の選手寿命を延ばすことになりました。最初の年こそ控えでしたが、翌2003年は室井の力を最大限に発揮した年になりました。
だいたい、相手が2トップのときは、ポストプレーヤーとスピードのあるタイプで組ませてきます。室井の役割はポストプレーヤーをマークして消す役割でした。当時のポストプレーヤーには外国人が多く、室井がマークした相手はエムボマ(東京V)、オゼアス(神戸)、マルコス(仙台)ら実力派外国人でした。
そんな相手に、ヘディングの技術を工夫して一歩も負けない戦いを見せた室井の姿は忘れられません。不運なことに、その年の9月に負傷して、浦和の初タイトルになったナビスコ杯決勝のピッチには立てませんでした。ただ、あの年の室井の活躍は、おそらくいろいろなチームのスカウトに強烈な印象を残したでしょう。まだ現役なのですから、横浜FCでもう一花を期待しています。