Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

フィリップ・トルシエの記憶

2020-05-16 17:35:36 | ワールドサッカー
今日は記憶ネタで、2002年W杯のベルギー戦を書くつもりでしたが、1月に書いたばかりだったのでネタを変え、当時の日本代表を率いていたフランス人監督、フィリップ・トルシエ氏について書きます。トルシエは選手時代は2部リーグが最高だったCBと地味な選手でしたが、指導者としてアフリカに渡ってから結果を出し「白い呪術師」という愛称もつきます。

もっとも、当時はアフリカのサッカーにあまり規律がなかったので、そういうチームに組織を植え付けて勝つと多くのファンが驚いた時代でした。本人も「組織作りこそが「白い呪術師」の正体」とサッカー雑誌のインタビューで認めています。そんなトルシエですが、日本代表に革新的な戦術だった3-5-2で最終ラインを高く保つ「フラット3」を導入したのが印象的です。

当時は3バックといえば2ストッパーが相手2トップをマンツーマンでマークして、後ろをリベロがカバーリングするという古典的な3バックが日本では主流でした。相手2トップを3人で連携して守る、トルシエの高度な守備は難しい戦術でしたが、1999年にワールドユースを指揮したトルシエがU-20日本代表にこの戦術を持ち込んで準優勝と結果を出したことで、強い追い風が吹くことになります。

このトルシエの守備の戦術は、機能したときは相手FWをオフサイドに掛けるなど威力も見せました。しかし、1999年に南米選手権に招待出場した日本代表に対し、南米のチームは研究して3バックが守りにくいサイドに、長いボールで後ろから走り込ませるという戦い方で対抗し、日本は1分け2敗という成績でグループリーグで敗退します。

また、当時の日本はW杯が地元開催という理由で予選が免除なので、公式戦の真剣勝負がない環境でした。それでも、フランス代表やスペイン代表が対戦を受けてくれるなど環境は良く、W杯を前に3バックのストッパーからのパスで組み立てるなどのさらに高度な手もこなせるようになってきました。その結果が、2勝1分けでのグループリーグ突破という結果だったのかなと思います。

それでも、トルシエは食事の内容をめぐってチームシェフと対立したり、あるMFに対し「人間的に魅力がない」など歯に衣着せぬ発言で議論も呼びました。今ではちょっと扱いにくい監督となるでしょうが、当時はまだまだ日本代表が弱かった時代なので、外から改革してもらうことが必要だったのかなと、今では振り返ります。
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高木俊幸の記憶

2020-05-16 15:37:10 | 浦和レッズ
2015年から2017年まで浦和に在籍した、FW高木俊幸選手(現C大阪)の記憶を書きます。高木俊幸は父親が元大洋ホエールズの内野手高木豊氏で、弟二人もプロサッカー選手というスポーツ一家に育ちます。豊氏からは「野球でもサッカーでもいいから打ち込んでくれればいいんだ」と言われており、プロ選手としての心構えは豊氏から学んだと話しています。

高木はユース時代を過ごした東京Vでプロになりますが、ブレイクしたのは移籍した清水時代です。スピード型のウイングタイプの高木俊幸は、清水を率いていたゴトビ監督が3トップの左FWという位置で起用するとここにうまくはまります。点も取れて突破もできる、ウイングとして求められる条件をすべて持っていました。

浦和移籍は2015年です。当時、浦和を率いていたミシャ監督は、高木俊幸に2シャドーの一角を期待していました。ミシャサッカーのシャドーは求められる役割が多く、本来の役割であるシャドーでキープするだけでなく、飛び出して行って点に絡むことや、守備のときにボランチのラインまで降りて守備をするなどを求められました。

最初の1年目は途中出場が多くフル稼働はできませんでしたが、2年目のシーズンが自身2度目のブレイクになります。当時、1トップの興梠がリオデジャネイロ五輪にオーバーエイジで出場するため、浦和の試合を欠場した時期がありました。この時期に、攻撃のポジションが1つ空くチャンスにうまく入り込みました。当時、浦和のシャドーに定着していた武藤雄樹が持っていた、守備にも戻れる動きを習得したのが大きく、その年のルヴァン杯優勝に大きく貢献します。

しかし、翌2017年はキャンプで足の指を骨折する負傷で出遅れ、さらにはミシャが解任されて4-1-4-1の布陣を旗印にする堀監督が就任した逆風も吹きました。堀監督時代のサイドのウイングは武藤雄樹とラファエル・シルバが固定され、高木俊幸はACLの川崎戦で決勝点を決める活躍はしたものの大きく出番を減らすことになりました。

2018年にC大阪に移籍してからは、4-4-2のサイドハーフとして出番を得ています。彼も28歳となり、ベテランの域に近づいていますが、サイドプレーヤーという長所が生きるC大阪にいるので、その良さをこれからも出して行って欲しいものです。

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相撲巧者(遠藤)

2020-05-14 22:14:11 | 他スポーツ
大相撲夏場所は残念ながら中止になってしまいました。相撲ネタは、前頭筆頭の遠藤関の記憶を書きます。遠藤は相撲どころの能登半島にある石川県鳳珠郡穴水町出身で、能登半島からは元横綱輪島、元関脇舛田山、元小結大翔山(現追手風親方)などを輩出しています。金沢学院東高校から日大を経て、アマチュア横綱と国体優勝の実績を評価されて同郷の追手風親方のもとに入門してきます。

幕下10枚目格付け出しでデビューも、5勝2敗、5勝2敗と幕下ではそれほど群を抜く成績ではありませんが、番付運もあって十両に昇進します。遠藤の開花はその新十両の場所で、突き押しで序盤に優位に立っておいて土俵際で得意な左四つに組むという勝ちパターンを確立して14勝1敗の好成績で十両優勝を果たします。この成績で、十両を1場所で通過して新入幕となりました。

幕内での遠藤は、突き押しでは幕内では通用しないと思ったのか、四つ相撲主体の取り口を見せます。技の多彩さは学生相撲出身らしく、土俵際で回り込むなどのテクニックにも優れます。このあたりから「イケメン関取」として相撲ファンの知るところになり、高見盛引退後の永谷園のCMに出演するなど人気を集めます。

もっとも、そんな遠藤はちょっと前までは上位に上がると大きく負けが込むこともある力士でした。その原因は立ち合いにそれほどのパワーがないことで、突き押しの威力をまともに受けてしまって押し出される相撲も見られました。負傷で十両に落ちた場所もあるなど、上位ではなかなか通用しない力士というイメージでした。

そんな遠藤が、昨年あたりから変わってきました。上位に定着し、負け越しても7勝8敗と踏みとどまることができるようになっています。体重を増やしたり筋トレを行ったりと、本人なりに肉体改造もしたようで、初の三役での勝ち越しもできました。先場所は小結で惜しくも7勝8敗と負け越しましたが、この状態を維持できれば関脇昇進も見えてくるでしょう。

遠藤は年寄株も持っており、将来的には親方として後進を育成することになるでしょう。この人気力士の相撲界に対する貢献は相当で、初場所で白鵬を切り返しで破った相撲では「遠藤」コールが出たほどでした。この、いい時期に関脇昇進などの結果を出して、相撲も強かったと後々まで語られることを期待したいです。
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志村一里塚

2020-05-13 23:01:38 | 雑記
今日はネタを思いつかないので、昔撮った写真から、東京都板橋区にある「志村一里塚」を取り上げます。一里塚は江戸時代に五街道を整備したときに、一里(4km)毎に目印となる小高い丘を作ったことが由来です。今はこういう、綺麗に残る一里塚は少ないと聞きます。横を通るとただのケヤキで、昔は気付かずに通り過ぎていた場所ですが、歴史的な意味があると知って、5年前に行ったのがこの写真を撮った当時です。

一里塚というと、私の育った時代では「この出来事は歴史にとって大きな一里塚になる」というたとえでよく出ていた記憶です。この五街道、のちの幹線道路や鉄道がこの街道沿いに引かれることが多かったことを考えると、今の時代にも影響を与えています。江戸の昔の知恵、関係ないようでも現代とかかわりがあるんですね。
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ジョホールバルの歓喜(1997年日本対イラン)

2020-05-12 21:20:32 | ワールドサッカー
今の若いサッカーファンの中には、1997年の「ジョホールバルの歓喜」を知らない世代も出始めています。ベテランサポの昔話で、ジョホールバルの歓喜、1997年アジア第三代表決定戦の記憶を書きます。当時、日本代表はBグループで2位になり、Aグループ2位のイランと中立地一発勝負の第三代表決定戦を戦うことになりました。

その、マレーシアのジョホールバルには、多くの日本代表サポーターが詰めかけました。まるでホームなのかと思うほどでしたが、この時の日本代表は、初めてやってきたW杯出場のチャンスに浮足立っていたのがありありでした。Bグループの2位も、最後の連勝で辛くも届いたもので、このイラン戦も選手はかなりプレッシャーで苦しんでいました。

中山の証言によれば、一つゴール前でフリーで「もらった」と思ったチャンスもありました。しかし、中山はプレッシャーでこれをミスキックして、北澤へのパスのようになってしまったと、今だから言える証言もあります。経験のある井原あたりもプレッシャーで苦しみますが、前半は中山のゴールで1-0で折り返します。

しかし、相手はアジア最強レベルのイランでした。当時アジアNo.1ストライカーと言われたダエイの個人技で2点を立て続けに入れられて逆転されます。駄目かのムードの中、一つのプレーで流れが変わります。相手パスを高い位置でカットした山口のパスから、左サイドの中田にパスが出て、中田のクロスを城がヘディングで決めて2-2の同点に追いつきます。

延長戦に入ると、日本の方がコンディションがいいことが次第に表れてきました。そこで岡田監督が起用したのがスピードのある岡野でした。イランはDFが組織的に守るのが苦手だったこともあって多くのチャンスをつかみますが、岡野もプレッシャーで苦しみ決定機を外します。岡田監督は冗談で「殺してやろうと思った」と当時を振り返っています。

そんな試合は、当時のルールだった「延長ゴールデンゴール(Vゴール)」で決着が着きます。中田のミドルシュートを相手GKが弾き、そこに詰めた岡野のスライディングシュートが決まって、この試合は日本が勝ちW杯出場を決めました。山あり谷ありだった最終予選で、これが一番苦しかった試合でした。それだけ、W杯に出ることは難しいことだと、日本国民が知ることになった機会だったと振り返ります。
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別所沼公園の睡蓮

2020-05-11 21:52:20 | 埼玉
今日はブログを更新する元気が出ないので、昨日の散歩で見かけた睡蓮の花の写真を貼っておきます。今が花盛りの睡蓮、別所沼公園の端に、水面ギリギリの花を咲かせています。
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デッレアルピスタジアム(トリノ)

2020-05-10 20:24:13 | ワールドサッカー
1996年に出かけたセリエAの思い出から、当時ユベントスとトリノが本拠地にしていた旧スタジアム、デッレアルピスタジアムの記憶です。今は取り壊され、新しいユベントススタジアムとしてユベントスの本拠地になっています。当時、私はサンシーロスタジアムのインテル対アタランタを終えてからのバス移動で2試合を見るスケジュールでした。

そのため、デッレアルピスタジアムに着いてから試合までの時間はあまりなく、オフィシャルショップなどを見ている余裕がなかったのは残念です。それでも、6万7千人のスタジアムがほぼ満員になった、当時のミラン戦の記憶は今でも鮮明です。当時はRバッジョがミランのFWで、マルディーニやバレージなども出場していました。

このスタジアムの記憶では、当時2月の試合だったこともあって、寒かったという印象が今でも残っています。のちに冬季五輪も開かれた地なので、寒いのは当然とも思えましたが、雪が残っていたスタジアム周辺の様子を見て「これは寒いだろう」と覚悟していました。試合中は試合に集中していて気になりませんでしたが、試合が終わると同時に強烈な寒気が襲ってきました。

当時の頼りない記憶によれば、スタジアムは掘り下げ式で、2階席だった自分の席には簡単にたどり着きました。一番印象的だったのはサポーターの発煙筒で、キックオフから数分間、その煙で試合が見にくかったことです。ようやく煙が抜け、様子がわかった前半11分にコンテ(現インテル監督)のゴールでユベントスが先制していました。

もっとも、当時のデッレアルピスタジアムはサポーターからは評判が悪かったと聞きます。陸上トラックがあってピッチの距離が遠かったのと、郊外にあってアクセスが悪かったのが理由です。1990年イタリアW杯のスタジアムで、当時の最先端技術も使われていましたが、時代に合わせて変わっていくのは運命の必然でしょう。

これを書くために調べたので、デッレアルピスタジアムはもうないという事実は今知りました。自分の若き日の思い出の中に大切に取っておこうと思います。いつか、ユベントススタジアムでサッカーが見られる日が来ることを願って。
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母の日

2020-05-10 20:18:59 | 雑記
今年の母の日のプレゼントは、写真の切り花のバラを贈りました。今年は外出自粛で、なかなか花屋さんに行くタイミングがないですが、5/2に所用があってそのときに買ってきました。母の日の今日まで、何とか枯れずに残っていましたが、次第に色が変わってきたので今日限りです。こういうものは気持ちなので、少しでもこの花が、母の日常を豊かにできたなら嬉しいです。
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橋本和の記憶

2020-05-10 10:13:55 | 浦和レッズ
出てきた過去の写真の中からは、浦和レッズに2年だけ在籍した左SB、橋本和選手(現J3岐阜)の記憶です。橋本の印象は柏時代のものが多く、左SBとして安定した守りを誇っていた印象があります。浦和の右MFエスクデロが、橋本との1対1に勝てず敗れた、ちょっと苦い記憶もあります。そういう、守備が売り物のサイドプレーヤーが2015年に完全移籍で浦和に入るのには、期待を寄せていました。

当時の浦和は、ミシャ監督が率いており、橋本への期待は3バックの左ストッパーと左アウトサイドでした。当時ACLを控えていた浦和は、選手層の厚さが必要な時期で、特に左アウトサイドの宇賀神のバックアッププレーヤーにはいろんな選手が試されていました。そんな時期でしたが、橋本はACLを中心に起用されます。

もっとも、橋本への期待だった守備という意味では、軽い守備もあるなど期待通りではなかった記憶です。2015年のリーグ戦では7試合の出場にとどまり、翌年もあまり起用されず神戸へのレンタル移籍となるなど、彼にとっては柏時代の4バックの左SBの方がはまり役だったのかなと、今となっては振り返ります。事実、神戸のネルシーニョ監督が左SBで起用し復活を果たしています。

プライベートでは、夫人が元岡山湯郷ベルのFW、中川理恵さんです。柏時代に理想の女性を聞かれたときに「一緒にリフティングができる人がいい」と言っていましたが、この時点で中川さんを想定していたのでしょう。柏と岡山でどうやって出会ったのかとも思いましたが、大阪体育大学サッカー部の同級生でした。橋本はチームの大阪遠征を利用して、中川さんと会っていたと聞きます。

中川さんの現役最後の試合に、橋本がスタジアムに行っていたのが目撃されており、そういうサッカー選手同士の縁、素晴らしいなと思っていました。今は神戸からJ3岐阜に移っています。33歳という年齢を考えると岐阜が最後のチームになるかもしれませんが、本人が納得いくまでできればいいなと思っています。
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サンシーロスタジアム(ミラノ)

2020-05-09 16:49:38 | ワールドサッカー
昨日、ドイツのメルケル首相が、ブンデスリーガの来週末からの再開を宣言していました。ようやく、当ブログも記憶ネタだけで持たせてきた2か月が過ぎ、マニアックなブンデスリーガのネタとはいえ試合のことを書けます。ちょっと元気が出てきたので、昔のセリエA観戦の思い出として、写真のイタリア、ミラノにあるサンシーロスタジアムの記憶を書きます。

サンシーロスタジアムは、古くからあるスタジアムですが、最初は1階席しかない小さなスタジアムでした。そこから、2階席、3階席と外側に増築されて、今の8万人収容の巨大なスタジアムになっています。現在の近代的な姿は、1990年イタリアW杯に向けての改修工事によるもので、スタジアムの四方にらせん状に通路を設けた円柱形の柱を立て、そこに屋根をつけて雨に濡れない構造を実現しました。

1996年、私がここに足を踏み入れたときは、オーロラビジョンが2か所にあってどこからでも映像が見られる構造自体が初めてでした。当時は日本には横浜国際競技場も埼玉スタジアムもなかった頃なので、W杯を誘致すればこういうスタジアムができると感じながら、当時の最先端のイタリア建築を実感してきました。それでも、当時はカズがジェノアの一員としてこのピッチに立っており、「ここでプレーした日本人はいるんだ」とちょっと誇らしい気分でした。

それでも、新しいスタジアムを作るには、それに伴う課題は常に付きまといます。サンシーロスタジアムの場合は、屋根をつけたことでピッチの風通しが悪くなり、当時のサンシーロスタジアムの芝生はイタリア最悪と言われていました。私は、インテル対アタランタの試合の翌日、スタジアムツアーでサンシーロスタジアムに行きましたが、芝生には黒いシートがかけられ、芝生の管理には神経質になっている様子はうかがえました。

もともとミラノは、冬場になると霧がかかり、どんよりとした雰囲気の強い地です。日照時間が少ないのも、その芝生の悪さの原因の一つでしょう。あれから24年の時が過ぎました。芝生の管理などはノウハウも貯まったでしょう。今、サンシーロスタジアムに行けば、当時とは違った感想を持つかもしれないですね。
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