ネタ切れが近づいていますが、まだ写真はあったので、元浦和MF梅崎司選手(現湘南)の記憶です。梅崎は大分のユースチームから育ち、トップ下として期待を集めますが、一時フランス2部のグルノーブルに移籍し、慣れない単身生活でリズムを崩していた時期もあります。その後は大分に一旦戻ってから、2008年に浦和が長期離脱のポンテに代わるトップ下としてオファーを出し移籍してきます。
しかし、味方になってプレーを観察すると、梅崎はポンテとはだいぶカラーの違うトップ下でした。梅崎の売り物は、サイドに流れてから左右両足で上げられるクロスです。トップ下で収めてから攻撃を組み立てるタイプではないので、梅崎がサイドに流れたときのトップ下の位置のフォローが必要な選手です。そのため、エンゲルス監督になってから出番を得たものの、その特徴を十分に発揮させることはできませんでした。
2009年から就任したフィンケ監督は、4-4-2でサイドハーフを置くシステムで、梅崎向きの戦術でした。しかし、梅崎は度重なる負傷でフィンケ時代のほとんどをリハビリに費やすことになります。そんな梅崎が復活のきっかけをつかんだのは、2011年に堀監督が就任したときの4-1-4-1です。この布陣は「梅崎システム」と言ってもよく、サイドの梅崎、原口の推進力を生かすための戦術でした。これで、浦和は15位という成績ながら辛くもJ1残留を果たします。
2012年からのミシャ時代も、梅崎にとっては再度のブレイクになります。3-6-1ながら複雑に位置を変えるミシャの戦術は、消化が難しいことから、キャンプの最初から戦術練習を取り入れました。その最初の練習で左アウトサイドに梅崎を置きます。この位置が、梅崎のはまり役になりました。トップ下もこなす柔軟性も見せながら、このシーズンはほぼフル稼働して6得点を挙げる活躍を見せます。
その後はトップ下を中心に、ACLにも出た浦和で数多くの試合に出場しました。しかし、2017年に堀監督が再度就任してシステムが4-1-4-1になると、梅崎の得意なアタッカーは武藤とラファエル・シルバのポジションとなり大きく出番を減らします。その年限りで、J1湘南に完全移籍して浦和を去ることになりました。
負傷も多かった梅崎ですが、それでも浦和で10年もプレーできました。サイドアタッカーという彼の長所にも気付いて起用できました。湘南では3トップの左のようで、彼の今後のサッカー人生が良いものであるよう、願わずにはいられません。
しかし、味方になってプレーを観察すると、梅崎はポンテとはだいぶカラーの違うトップ下でした。梅崎の売り物は、サイドに流れてから左右両足で上げられるクロスです。トップ下で収めてから攻撃を組み立てるタイプではないので、梅崎がサイドに流れたときのトップ下の位置のフォローが必要な選手です。そのため、エンゲルス監督になってから出番を得たものの、その特徴を十分に発揮させることはできませんでした。
2009年から就任したフィンケ監督は、4-4-2でサイドハーフを置くシステムで、梅崎向きの戦術でした。しかし、梅崎は度重なる負傷でフィンケ時代のほとんどをリハビリに費やすことになります。そんな梅崎が復活のきっかけをつかんだのは、2011年に堀監督が就任したときの4-1-4-1です。この布陣は「梅崎システム」と言ってもよく、サイドの梅崎、原口の推進力を生かすための戦術でした。これで、浦和は15位という成績ながら辛くもJ1残留を果たします。
2012年からのミシャ時代も、梅崎にとっては再度のブレイクになります。3-6-1ながら複雑に位置を変えるミシャの戦術は、消化が難しいことから、キャンプの最初から戦術練習を取り入れました。その最初の練習で左アウトサイドに梅崎を置きます。この位置が、梅崎のはまり役になりました。トップ下もこなす柔軟性も見せながら、このシーズンはほぼフル稼働して6得点を挙げる活躍を見せます。
その後はトップ下を中心に、ACLにも出た浦和で数多くの試合に出場しました。しかし、2017年に堀監督が再度就任してシステムが4-1-4-1になると、梅崎の得意なアタッカーは武藤とラファエル・シルバのポジションとなり大きく出番を減らします。その年限りで、J1湘南に完全移籍して浦和を去ることになりました。
負傷も多かった梅崎ですが、それでも浦和で10年もプレーできました。サイドアタッカーという彼の長所にも気付いて起用できました。湘南では3トップの左のようで、彼の今後のサッカー人生が良いものであるよう、願わずにはいられません。