Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

梅崎司の記憶

2020-05-09 16:46:49 | 浦和レッズ
ネタ切れが近づいていますが、まだ写真はあったので、元浦和MF梅崎司選手(現湘南)の記憶です。梅崎は大分のユースチームから育ち、トップ下として期待を集めますが、一時フランス2部のグルノーブルに移籍し、慣れない単身生活でリズムを崩していた時期もあります。その後は大分に一旦戻ってから、2008年に浦和が長期離脱のポンテに代わるトップ下としてオファーを出し移籍してきます。

しかし、味方になってプレーを観察すると、梅崎はポンテとはだいぶカラーの違うトップ下でした。梅崎の売り物は、サイドに流れてから左右両足で上げられるクロスです。トップ下で収めてから攻撃を組み立てるタイプではないので、梅崎がサイドに流れたときのトップ下の位置のフォローが必要な選手です。そのため、エンゲルス監督になってから出番を得たものの、その特徴を十分に発揮させることはできませんでした。

2009年から就任したフィンケ監督は、4-4-2でサイドハーフを置くシステムで、梅崎向きの戦術でした。しかし、梅崎は度重なる負傷でフィンケ時代のほとんどをリハビリに費やすことになります。そんな梅崎が復活のきっかけをつかんだのは、2011年に堀監督が就任したときの4-1-4-1です。この布陣は「梅崎システム」と言ってもよく、サイドの梅崎、原口の推進力を生かすための戦術でした。これで、浦和は15位という成績ながら辛くもJ1残留を果たします。

2012年からのミシャ時代も、梅崎にとっては再度のブレイクになります。3-6-1ながら複雑に位置を変えるミシャの戦術は、消化が難しいことから、キャンプの最初から戦術練習を取り入れました。その最初の練習で左アウトサイドに梅崎を置きます。この位置が、梅崎のはまり役になりました。トップ下もこなす柔軟性も見せながら、このシーズンはほぼフル稼働して6得点を挙げる活躍を見せます。

その後はトップ下を中心に、ACLにも出た浦和で数多くの試合に出場しました。しかし、2017年に堀監督が再度就任してシステムが4-1-4-1になると、梅崎の得意なアタッカーは武藤とラファエル・シルバのポジションとなり大きく出番を減らします。その年限りで、J1湘南に完全移籍して浦和を去ることになりました。

負傷も多かった梅崎ですが、それでも浦和で10年もプレーできました。サイドアタッカーという彼の長所にも気付いて起用できました。湘南では3トップの左のようで、彼の今後のサッカー人生が良いものであるよう、願わずにはいられません。
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別所沼公園トレーニング20200508

2020-05-08 16:07:39 | 他スポーツ
晴れた気持ちのいい天気だったので、別所沼公園までトレーニングに出かけてきました。これまで、休みながらとはいえ5kmを4度走っていましたが、今回は1kmでいいから距離を延ばすことを目標にして、目標通り6kmを走り切ることができました。km当たりのラップはできれば6分切っておきたいですが、やはり延ばした分の最後の1kmは体が動かず失速していました。

今日は平日なので、休みの日は人の多い別所沼公園も、それほど人はいませんでした。もちろん、市民の憩いの場ですから、子供連れや自転車など、ランナーにとっては気を付けなければならない要素もあるので、本当のギリギリまでは追い込めません。車道もあるので、ラップ自体にはそんなにこだわらなくてもいいと思っています。

今回、GWの長い休みで、体幹トレーニングを試したり5kmを複数回走ったりと、いろいろ体のことは試してみました。疲れで翌日、ぐったりしていることもありますが、GWなのでそれは許すことにして、これからどこまで自分自身の限界を上げていけるかを進めていければと思っています。

S→1km 6:44
1→2km 6:11
2→3km 6:49
3→4km 6:41
4→5km 6:51
5→6km 7:28
total 40:47








ミヤコワスレ


テッセン









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田中マルクス闘莉王の記憶

2020-05-08 10:52:03 | 浦和レッズ
写真を持っている選手の記憶ネタは、元浦和DF田中マルクス闘莉王さんを取り上げます。闘莉王といえばその打点の高いヘディングで、貴重なゴールを奪えた印象ですが、ブラジル時代は本格的にヘディングの指導を受けておらず、日本留学時の渋谷幕張高校のときにヘディングのノウハウを学びました。

プロ入りは2001年、サンフレッチェ広島です。もっとも、当時は外国人枠でのプレーで、広島からは「君のために外国人枠は使えない」と戦力外となりJ2水戸へのレンタル移籍を経験します。この水戸時代がスターダムにのし上がるきっかけで、当時からCBの闘莉王が流れの中で上がる自由を与えられ、得点を量産し日本に帰化し、翌2004年には浦和に完全移籍することになります。

浦和入りの理由は「初優勝を果たす際のメンバーになりたい」で、事実浦和の3バックの中央でポジションを確保します。当時、浦和のDFは坪井(アルパイ)、闘莉王、ネネだったので、日本語、英語、ポルトガル語の3か国語で指示を出す難しい役割も果たします。歯に衣着せぬ発言もある闘莉王ですが、意外にも高校時代の成績は良く、英語力はあると聞きます。

闘莉王は気持ちを前面に出す選手です。負傷を抱えても、がちがちにテーピングを巻いて出場する気力もある選手で、たまに無理をして試合に出られる状態でないこともありますが、浦和の最終ラインに高さをもたらす選手でした。スピードには難があり、攻撃参加した際の戻りは遅い選手ですが、3バックのリベロで後ろをカバーすることで対応していました。

初優勝のメンバーになることはできました。2006年の浦和の優勝時のCBです。その後は日本代表にも定着し、「あまりにもすごすぎて夢にも出てこない」と言ったほどの、2010年南アフリカW杯に出場することができました。当時の岡田監督が、CBがフィジカル勝負で負けては意味がないという発想だったようで、中澤と闘莉王のCBが基本形でした。

浦和を2009年で去り、名古屋でも優勝メンバーになることができました。その後はJ2京都で昨年までプレーしました。京都時代にはFWで起用され、チームトップの14得点を挙げるなどの活躍もしました。日本人にはあまりいないタイプの、気力を前面に出すDFとして、印象的だった選手でした。
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アオスジアゲハ

2020-05-07 21:41:21 | 埼玉
地元さいたま市で、写真の「アオスジアゲハ」の写真を撮ることができました。以前は県の蝶「ミドリシジミ」だと思い込んでいましたが、こちらアオスジアゲハは比較的見つかります。それでも、自分が写真を撮れる範囲に止まってくれる確率は低いので、うまく花に止まってくれた今日は、運が良かったと思います。

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土橋正樹の記憶

2020-05-07 09:24:50 | 浦和レッズ
写真のある選手の記憶ネタは、元浦和ボランチ土橋正樹さんの記憶です。土橋は1995年、国士舘大学より浦和入りします。当時のオジェック監督が「前年最下位だから厳しくしなければならなかった」と語ったほどのチーム状態だったので、新人の土橋にも出番が与えられました。土橋のプレースタイルは読みのボランチで、スピードがない分を頭の良さでカバーできる選手でした。

当時の浦和のボランチは、パワーの堀、技術の広瀬と土橋の3人で争っていました。土橋は堀や広瀬とはタイプの違うボランチだったことと、当時のJリーグが年間52試合を行う強行日程だったことで、多くの出番を得ることになりました。新人王の候補とも思われましたが、Jリーグの新人王は選手の投票なので、知名度が影響し、横浜FMのGK川口能活が受賞することになります。

オジェック監督やケッペル監督には起用された土橋ですが、後任の原監督が左SBで起用したのは土橋にとっては逆風になりました。どうしても瞬間的なスピードに難があるので、相手のスピード型のアタッカーにサイドを仕掛けられると弱さが出ることもあり、左SBの本職である城定にポジションを奪われてしまいました。

それでも、守備的なポジションならどこでもこなせるので、ベンチには常に置いておきたい選手でした。その能力が生きたのは、2000年のJ2リーグ最終戦の鳥栖戦でした。当時、攻めに出なければいけない状況を考えて、ベンチにFWを3人置いた浦和は、唯一の守備的な選手としてどこでもこなせる土橋をベンチに入れていました。

この試合で、DF室井が退場し、守備が不安定になっていた浦和ですが、土橋を左SBに入れたところ守備が安定し、鳥栖の攻めをある程度抑えられるようになってきました。浦和の古株サポなら覚えている、J1昇格を決めたVゴールも、その流れで出ました。当時、阿部敏之のFKが壁に当たり、カウンターを食らったら数的不利の浦和は厳しいと覚悟した場面で、土橋が思い切って放ったロングシュートが鳥栖のネットに刺さり、浦和は1年でのJ1復帰を決めました。

土橋は「レッズ以外でのプレーは考えられない」と2003年限りで引退し、浦和のアカデミーコーチになっています。あの、山あり谷ありだった90年代末期の浦和を、いろんな形で支えた、懐かしい選手です。
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堀之内聖の記憶

2020-05-06 18:10:36 | 浦和レッズ
写真がある限り書き続けたい記憶ネタは、元浦和DF堀之内聖さんの記憶です。堀之内は地元さいたま市出身で、浦和市立高校で高校選手権で活躍し、進学した東京学芸大でボランチとしてユニバーシアード日本代表に選ばれます。浦和入団は2002年で、同期入団には坪井、長谷部、平川がいた黄金世代の一人です。

しかし、堀之内には一つの大きな不運がありました。堀之内より2歳年下の鈴木啓太がボランチのポジションに定着し、このポジションの世代交代が完了している状態だったことです。堀之内の居場所はサテライトとなり、サテライト担当コーチの柱谷哲二氏の指導を受けることになります。サテライトでは十分いいプレーをしており、柱谷氏も「堀之内はいつでもトップに推薦できる」と認めながら、空いているポジションがない状況でした。

そんなとき、堀之内はDFとしてなら試合に出られる可能性があると聞きました。当時の浦和のDFは坪井、闘莉王、ネネという3バックでしたが、彼らCB陣には負傷離脱する期間が時にありました。その隙間にうまく入り込んだのが堀之内でした。ストッパーでもリベロでもプレーできた堀之内は、どんなときでも頼りになる控えとして、当時のギド監督の信頼をつかむようになります。

記憶にある堀之内のベストプレーは、2007年のACLグループリーグ最終戦のシドニーFC戦です。シドニーFCには豪州代表のズドリリッチという強力なポストプレーヤーがいました。そのズドリリッチに対し、激しく体を当てて相手の位置を下げさせて、ズドリリッチのポストプレーを後ろに限定されました。こうなればシドニーFCの攻撃は機能しなくなり、味方は無得点ながらこの試合を0-0の引き分けに持ち込む、大きな原動力になりました。

出身の浦和市立高校にはいくつかの堀之内伝説が残っていますが、その一つに「高校選手権埼玉大会優勝の翌日、誰もが喜びムードの中、その日の授業の予習ができていたのが当の堀之内君ただ一人だった」という、当時の先生が教育のために使っていたエピソードです。それだけ、真摯な姿勢は若手の見本で、2010年まで浦和の「逃げ切り要員」としてベンチに入る活躍をしました。

最後は横浜FC、モンテディオ山形と移籍し、引退した今は浦和のスタッフとして姿を見かけます。そういう、どこに自分の居場所があるか探してそこに向けて努力するのはプロの見本で、こういう選手がこれからも育って行って欲しいと願うばかりです。
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内舘秀樹の記憶

2020-05-05 13:47:18 | 浦和レッズ
写真右の、地元さいたま市出身DF、内舘秀樹さんの記憶です。内舘は地元の田島中学から浦和北高校と進みますが、それほど強いチームではなかったです。そんな内舘がプロ入りできるほどレベルを上げたのは仙台大学時代で、ユニバーシアード日本代表で金メダルの活躍をしてプロ入りの期待も受けます。地元浦和から、左右のSBができるという期待を受けてオファーを受けて入団します。

もっとも、SBとしての内舘はベンチスタートも多く、安定してスタメンをつかむほどの活躍ではありませんでした。J2時代の2000年に、相手カウンターに対して戻りが早くチームを救えたという特徴も見せましたが、3バックが導入されるとアウトサイドで起用できるほどの攻撃力ではなかった印象でした。

そんな内舘に大きな期待を寄せたのは、2002年に就任したオフト監督でした。当時、オフト監督は3バックのマンツーマン守備のシステムを確立するために、足が速く相手FWをどこまでも追い回せるDFを探していました。それに適任とされたのが坪井と内舘でした。内舘本人は「監督は自分の本職がSBと知っているんですかね?」と最初はなぜCBになったか不思議に思っていました。

この年の浦和は、成績的にはそれほどではなかったですが、坪井と内舘で相手2トップをマークし、後ろを井原がカバーする約束事は確立でき、相手にとっては疲れさせられる嫌な相手になることができました。翌2003年はボランチにポジションを移し、鈴木啓太とコンビを組んでオフト監督の慎重なサッカーを後ろで支えました。

2004年以降はベンチスタートが多くなりますが、それでも五輪代表が不在になるナビスコ杯でチームを後ろから引き締めて、ナビスコ杯のグループリーグを確実に突破できる貴重な存在でした。内舘は2008年までプレーし、引退後は浦和のアカデミーコーチを務めています。

足が速くマンツーマン守備を苦にしないという特徴を、オフト監督はよく見抜いたと思います。あのままSB専門の選手だったら、ここまで浦和の伝説的選手にはなれなかったでしょう。カウンターでの戻りの速さなど、困ったときに浦和を救った、貴重な脇役として今でも印象に残っています。
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鴻沼川トレーニング20200505

2020-05-05 13:19:54 | 他スポーツ
GWの恒例としたい、鴻沼川トレーニングは2回目です。3週間で4度目ということで、だんだん5kmという距離に慣れてきており、ペースもすべてのラップで7分切りができました。マスクをしているためギリギリまでは追い込めませんが、それでも次第に毎週桜環境センターのトレーニングルームに通っていたときに近い水準になっています。

これからの課題は精神的なスタミナでしょう。まだまだ、今回の5kmは連続走行ではなく、苦しくなったら休んでいます。熱中症対策を考えると休むべきときは休んでもいいと思いますが、レースでの給水が2km12分に一回程度ということを考えると、特に終盤の休む回数はどうにかしたいところです。

もっとも、終盤足が止まったと感じていましたが、それでもkm7分を切っています。もう少し精神的に強くできれば、もっといいトレーニングはできると思います。6km以上に距離を延ばすか、ペースを上げるか、どちらかはGWのうちに達成できればと思っています。

S→1km 6:55
1→2km 6:19
2→3km 6:30
3→4km 6:47
4→5km 6:58
total 33:32







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荒川彩湖公園

2020-05-04 21:49:54 | 埼玉
台風19号で水没した、荒川彩湖公園に台風以来初めて散歩に出かけてきました。遊具などは使用禁止になっており、駐車場も使えないことから子供連れの姿はまばらでしたが、1周4.7kmの彩湖一周のマラソンコースは走れるようになっていました。もっとも、自販機は水没の影響で復旧しておらず、トイレも仮設トイレです。走ることは可能ですが、給水のやり方を考えておかないと苦しい思いをすることになるでしょう。

撮ってきた写真を貼っておきます。











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鴻沼川トレーニング20200503

2020-05-03 15:04:58 | 他スポーツ
鴻沼川トレーニング、5kmを走り始めて3週目になりました。iPS細胞の山中教授の勧めもあってマスクをして走ったこともあって、スピードは前回ほど出せませんでしたが、それでもkm7分切りのラップが3つあったことは前向きに考えています。特に、今回うまく行ったのは後半のペースの落ち方が小さかったことです。

特に初回は終盤に足が止まったのが自分でもわかるほど、最後の2kmは失速していました。今回、最後の1kmで7分切りができた以上、もう少し距離を延ばしても大丈夫かなと思います。最近は急激に気候が夏に向かっており、暑さ対策で早めに休憩して水を飲むなどは必要ですが、次は1km延ばして6kmを走ろうかと欲が出てきます。

いつも室内トレーニングをしていた、桜環境センターのトレーニングルームが使えないため、一時モチベーションが落ちていました。それが今のメタボ状態の原因ですが、今回GWに突入したこともあり、トレーニングで「ステイホーム週間」をいい時間にできればと、これからの自分に期待しています。

S→1km 7:38
1→2km 6:55
2→3km 6:39
3→4km 7:17
4→5km 6:51
total 35:23

















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