当時のコンパクトデジカメの性能が低かったので、写真の質は良くないですが、元浦和MFマルシオ・リシャルデスの記憶です。マルシオは新潟に加入して、長く右のMFを務めていました。当時の新潟は、マルシオ出場時の勝率は良いものの、欠場時は勝率が悪かったので、チーム内で重要な位置を占めているのだろうと思っていました。
浦和加入は2011年です。当時、長く浦和のゲームメーカーだったポンテが退団したので、トップ下の後任としてオファーを出しました。味方になってプレーぶりを観察すると、パスを出すゲームメーカーのポンテとはタイプが違う選手だとわかります。マルシオの場合、自陣から送られてくるボールを足元に収めるのが武器の選手です。
そうやって、トップ下で収めてから、フォローに上がってきた味方を生かすことで機能するトップ下だとわかりました。また、FKの精度も高いという評判でしたが、浦和加入初年度の2011年はわずか3得点と結果を出せませんでした。当時のゼリコ・ペトロヴィッチ監督に、ボランチで起用されたのも、スピードに難がある彼には不向きな役割でした。彼が抜かれることで招いたピンチも多くありました。
その結果、浦和は残留争いをすることになり、最後の5試合を率いた堀監督がギリギリのところで救ってくれましたが苦しいシーズンになりました。しかし、マルシオは翌2012年のシーズンに復活を果たします。当時のミシャ監督に2シャドーで起用され、柏木とのコンビでいいところに進出して点を取る、彼の良さが出てきました。この年は9得点を挙げて、浦和の3位躍進に大きく貢献します。
2013年シーズンは、原口元気にシャドーのポジションを奪われて、ベンチスタートが多くなってきます。それでも、諦めずにゴール前に飛び出して行ける能力が効いて、大事な得点を得ることもありました。翌2014年は負傷がちになってきており、膝の手術をブラジルで受けたこともあって11試合の出場にとどまり、この年限りで浦和を退団し故郷ブラジルへ帰ります。
その後は引退したようで、サッカーはやっていない様子です。新潟時代の2010年は16得点を挙げたなど活躍しましたが、それが彼のベストになりました。それでも、日本で8年間もプレーできたことで多少の蓄えはあるでしょう。彼の今後の人生が、平穏であることを願いたいです。
浦和加入は2011年です。当時、長く浦和のゲームメーカーだったポンテが退団したので、トップ下の後任としてオファーを出しました。味方になってプレーぶりを観察すると、パスを出すゲームメーカーのポンテとはタイプが違う選手だとわかります。マルシオの場合、自陣から送られてくるボールを足元に収めるのが武器の選手です。
そうやって、トップ下で収めてから、フォローに上がってきた味方を生かすことで機能するトップ下だとわかりました。また、FKの精度も高いという評判でしたが、浦和加入初年度の2011年はわずか3得点と結果を出せませんでした。当時のゼリコ・ペトロヴィッチ監督に、ボランチで起用されたのも、スピードに難がある彼には不向きな役割でした。彼が抜かれることで招いたピンチも多くありました。
その結果、浦和は残留争いをすることになり、最後の5試合を率いた堀監督がギリギリのところで救ってくれましたが苦しいシーズンになりました。しかし、マルシオは翌2012年のシーズンに復活を果たします。当時のミシャ監督に2シャドーで起用され、柏木とのコンビでいいところに進出して点を取る、彼の良さが出てきました。この年は9得点を挙げて、浦和の3位躍進に大きく貢献します。
2013年シーズンは、原口元気にシャドーのポジションを奪われて、ベンチスタートが多くなってきます。それでも、諦めずにゴール前に飛び出して行ける能力が効いて、大事な得点を得ることもありました。翌2014年は負傷がちになってきており、膝の手術をブラジルで受けたこともあって11試合の出場にとどまり、この年限りで浦和を退団し故郷ブラジルへ帰ります。
その後は引退したようで、サッカーはやっていない様子です。新潟時代の2010年は16得点を挙げたなど活躍しましたが、それが彼のベストになりました。それでも、日本で8年間もプレーできたことで多少の蓄えはあるでしょう。彼の今後の人生が、平穏であることを願いたいです。