先師・五十嵐正美先生の最晩年の色紙に『名利共休』があります。
〔落穂拾いNo208〕に、写真を掲載したことがある。http://www.bb.isas.ne.jp/kurinomi/otibohiroi/200-209/otibo208/page001.htm
今晩の夜学で、源信僧都の略伝を教えていただいた。
源信僧都は、7歳で父に死別、父の遺言で出家した。
僧都の研学英才は時の帝までも届き、帝から布帛(ふはく)の賞を賜った。その時の感激を文にしたため布帛を郷里に母親に送った。ところが母親は、ことことを大変嘆かれた。
「後(のち)の世を導く僧とたのみしに、世渡る僧となるぞ悲しき」という歌を添えて布帛を返されたいう。
母親は、名聞利養の道におちいるのを憂い、深くこれを誡められた。
僧都は、母からの感化を深く感じ、名利の道をはなれて仏道の道を一途に進められたということです。
先師・五十嵐正美先生に、この『名利共休』についてお聞きしていません。また、先生から源信僧都のお話はきいたことはありませんが、博覧強記でもあられた先生は、『往生要集』をお読みになっていたのでは?と思います。
講義を受けながら、先師・五十嵐正美先生の教えを思い出していました。
〔落穂拾いNo208〕に、写真を掲載したことがある。http://www.bb.isas.ne.jp/kurinomi/otibohiroi/200-209/otibo208/page001.htm
今晩の夜学で、源信僧都の略伝を教えていただいた。
源信僧都は、7歳で父に死別、父の遺言で出家した。
僧都の研学英才は時の帝までも届き、帝から布帛(ふはく)の賞を賜った。その時の感激を文にしたため布帛を郷里に母親に送った。ところが母親は、ことことを大変嘆かれた。
「後(のち)の世を導く僧とたのみしに、世渡る僧となるぞ悲しき」という歌を添えて布帛を返されたいう。
母親は、名聞利養の道におちいるのを憂い、深くこれを誡められた。
僧都は、母からの感化を深く感じ、名利の道をはなれて仏道の道を一途に進められたということです。
先師・五十嵐正美先生に、この『名利共休』についてお聞きしていません。また、先生から源信僧都のお話はきいたことはありませんが、博覧強記でもあられた先生は、『往生要集』をお読みになっていたのでは?と思います。
講義を受けながら、先師・五十嵐正美先生の教えを思い出していました。