里村専精師 提言集(002)
他力という言葉は、現代の言葉では全く宗教を顕さなくなっています。
けれども、他力という言葉こそ日常を超えた仏道の運動を語っていたものです。
他力が改めて理解されないと、仏教全体が見えなくなってしまいます。
自力の仏教ということは、特殊な優れた人だけの思い込みになってしまっています。
この自力とか他力という言葉は、五世紀から六世紀にかけて必要上出た言葉です。
曇鸞(475-542)という人が、大きな回心を通して中国式の仏教を見直しました。
仏教は、人の努力で開かれたものではなかったのです。
むしろ人の努力が、仏教を矮小化してしまっていたのでした。
曇鸞大師は、大きな他力の仏道を確認しました。
ブッダのスケールで展開する仏道が、衆生を包むかのように息づいているのです。
このことに驚いた曇鸞大師は、無量寿経に基づく仏道に生きる人になりました。
中国浄土教の始まりでした。
他力という言葉は、インドの仏教の在り方に驚いて見いだされたものでした。
人間の問題は、人知の限りを尽くしても不徹底さが残ります。
つまりいくら自力を重ねても、無量の人類の問題は徹底を欠くのです。
流転とは、そのような在り方全体を言うものでした。
その流転からの大きな出離こそ、仏教の課題なのです。
一般には、他力という言葉、「自分以外のものの力。他人の助力」というように使われていますネ。
しかし、他力とは、そうではなさそうです。
親鸞さまは、他力という言葉を次のように使われています。
『教行信証・行巻』には、
「他力というのは如来の本願力なり」
「大無量寿経の宗致他力本願の正意なり」
『正像末和讃』には、
「他力の信心うるひとを
うやまいおおきによろこべば
すなわちわが親友とぞ
教主世尊はほめたまう」
ご参考にしてください。