先日、善導大師の『観経疏(玄義分)』を見ました。
これまで(眼)にしなかった「帰命無量寿覚」です。
普通には、『正信偈』の「帰命無量寿如来」が耳にも慣れていますよね。
「如来」と「覚」。
ボクの受け止めですが、
「覚」の方が人に重なる気がします。
『観経疏(玄義分)』から引いておきます。
『浄土真宗聖典 七祖篇』 本願寺出版 302頁より
【7】「無量寿」といふは、
すなはちこれこの地(中国)の漢音なり。
「南無阿弥陀仏」といふは、またこれ西国(印度)の正音なり。
また「南」はこれ帰、「無」はこれ命、「阿」はこれ無、
「弥」はこれ量、「陀」はこれ寿、「仏」はこれ覚なり。
ゆゑに「帰命無量寿覚」といふ。
これすなはち梵漢相対するに、その義かくのごとし。
いま「無量寿」といふはこれ法、「覚」とはこれ人なり。
人法並べ彰す、ゆゑに阿弥陀仏と名づく。
以前、新潟の里村専精師に、
仏教は 人間学
仏道は 人間道
と教えていただきました。
「南無阿弥陀仏」「帰命無量寿如来」より、
「帰命無量寿覚」の方が、人間学・人間道の響きを感受できます。
仏教と縁の薄い現代人にとって、
「帰命無量寿覚」の方が、人間学・人間道として実感を伴うように思います。
暫く、あたためてみたい。
皆さまの、ご意見をご教授ください。