昨日の当blogで、
善導大師『観経疏(玄義分)』から、
南 無 阿 弥 陀 仏・・・西国(印度)の正音
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
帰 命 無 量 寿 覚・・・この地(中国)の漢音
を紹介させてもらいました。
「仏」からは、何か(対象的な印象)を
「覚」からは、ひとの分別を超えた(はたらき)を
感受できると記しました。
そこで、一歩すすめてのボクの愚考。
ひとの分別を超えた(はたらき)のイメージは、
道元禅師の『現成公案』の言葉。
少しだけ引きますね。
佛道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。
萬法に證せらるるといふは、
自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。
ボクの薄ペラな理解では、
「無量寿覚」と「萬法に證せらるる」とおなじように思います。
一応のボクの愚考、仮説、備忘として記しておきます。