毎週月曜日は、「Zoom歎異抄学習会」です。
内容は、
*1分・念仏
*『歎異抄・師訓篇』音読
*『歎異抄・別序』音読&解説
*井戸端
井戸端での話題。
ご参加のお一人が、
「浄土が分かりませんし、イメージももてません。
やはり、浄土が分からないと信じる気持ちもわきませんと」と。
少し話し合ったのですが、時間切れで来週までの課題としました。
いろいろ合理的・科学的知見をもっている現代人にとっては、
「浄土」を理解知るのは相当に難しいようです。
昔のお方は、『阿弥陀経』で展開されている世界を、素直に受け容れていたのでしょう。
さて、ボクも来週まで考えることにしますが、
マア、お浄土からお帰りになられた方はいませんので、
体験談を聞くことは無理ですよね。(笑)
ただ、親鸞聖人も法然上人も、
「お浄土」というところについては、
『阿弥陀経』の説かれている世界で十分だったと考えます。
大事なことは(本願念仏)の実践、生活の中の(お念仏)だったのではないかと思います。
『歎異抄・第二章』がヒントになりますよね。
「浄土」についての分析・判断等より、
「念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、
よきひとのおほせをかぶりて信ずるよりほかに別の子細なきなり」
「浄土は “これこれ、しかじか”と分かってから信じる」のではなく、
「よきひとのおほせをかぶって信じる」の一句が大事だと考えます。
大事なのは、「よきひと」ですよね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます