毎田周一全集 第5巻から。
「念仏と科学」
跪いて光明無量寿命無量なることを知る。これが念仏の意義である。
南無阿弥陀仏である。
跪くとは心を空しくしてもの見ることである。
己れなくしてものを見るといふことである。
そのとき物事のありのままの姿が見られる。
物事のありのまゝの姿とは、無限なる事物が階調をなして、
一大世界の交響楽を奏でてゐるといふことである。
唯一の和の世界、玄沙の所謂「尽十方世界一顆明珠」である。
この世界にあつて我等は、この世界によって生かしめられ、
又逆にこの世界に働きかけてこの世界を作る。
西田博士にいはるゝ如く、
我等は創造的世界の創造的要素として働くのである。
この世界として働くといふことを、無我ともいふのであろう。
無我の世界は創造的発展の世界である。
これを光明無量寿命無量として表はす。
南無すること、跪くこと、己を空しうすることは、
やがてこの発展的世界の内面的自覚である。
これを南無阿弥陀仏といふ、念仏といふ。
それ故に念仏者は、発展的創造的に働くものでなければならない。
念仏はそれ故に消極的退嬰的ではないのである。
(略)
釈尊によって発見せられ、二千五百年の歴史を通して鍛へ抜かれた念仏の真理と、
その金剛の如き偉大を、我々は讃へざるを得ない。
誰か知る、念仏が科学的精神として現に発展し活動しつゝあることを。
念仏の皮相を見て、
その真理性を知らざるもののみが、これをあざ笑ふのである。
(23.3.3)
カウンセリング研究会【くりのみ】
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