今日は、週一度のスクールカウンセラーの仕事に出かけた。
若い先生と話し合いの時間をもったのだが、教育の“一番大事なこと”が伝わっていな感じでものたりない。
だが、この若い先生を責めるつもりは全くない。
それよりも、大事なことが伝えられない、我が国の官僚統制が色濃い“教育のしくみ”がこのような結果を招いているように思えてならない。
夕方からは夜学に出かけ、帰り道、いつものお店に立ち寄った。
気持ちの良いサービスとメニューが豊富な美味なお店で、大変気に入っている。
カウンター席の右隣は、ご常連の○○さん。
納豆オムレツを美味しそうに食していた。
私は、まだ食べてない。次回に挑戦しよう。
左隣のお客さんは、初対面の方であった。
話をすると、同郷の方で、伊豆の出身。
お父さんが、蓮台寺にある高校の、5歳先輩の息子さんであった。
その彼が、「フワクです」と、自分の年齢をいって先に帰っていった。
そこで、若いお店のスタッフに、「“フワク”を“漢字で書くとどうなる?」と、質問してみた。
酔っぱらいの爺の、質問が炸裂したわけだ。
それを聞いていた美人のベテランスタッフの○○ちゃんが、携帯で“フワク”を検索してくれた。
“不惑”を見つけてくれた。
そこで、今晩は、孔子の言葉の復習をしてみよう。
◆孔子の『論語』の中の年齢を表す言葉
志学=十五歳、 而立=三十歳、 不惑=四十歳、 知命=五十歳、
耳順=六十歳、 従心=七十歳
◆この言葉が柱になっている『論語』〔為政第二〕の原文
子曰、「吾十有五而志二於学一。三十而立。四十而不レ 惑。五十而知二天命一。 六十而耳順。七十而従二心所一レ欲、不レ踰レ矩。」
◆読み方
子曰はく、「われ 十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従へども、矩をこえず」と。
◆訳文
私は、十五の時に学問で身を立てようと決心しました。
三十の時に、学問などの基礎がきちっとして、独り立ちができるようになりました。
四十の時に、狭い見方に捕らわれることなく、心の迷いがなくなりました。
五十の時に、天が自分自身に与えた使命を自覚しました。
六十の時に、何を聞いても素直に受け入れることができるようになりました。
七十の時に、自分がしたいと思う言動をしても、人の道を踏み外すことがなくなりました。
と。
戦後、漢文や国語を軽視してきた文部省(文部科学省)の施策の“つけが”気になる(酔っぱらいの爺)の、戯言でした。
おそらく、不惑というのは、人生に対する何の学びもなくて、そうなるということはないんでしょうね。15歳で志し、30にして立つだけの学び・経験がないと40にして不惑ということにはならないのでしょう。そして、それは知識を得るというレベルの話ではないですね。智慧を要するのです。
コメントありがとうございます。
ご教示の通り、一日一日、年々の学び・経験がないと、本当の意味での不惑の到達にはならないと思います。
私事ですが、今日7月5日は、誕生日でございます。
早朝、先生からコメント、大変嬉しくいただきました。
「六十にして耳順う」年齢を三歳ばかりオーバーしましたが、何を聞いても「素直に」はなれません。
どうぞ、これからも宜しくご指導お願いします。
7月18日(金) くりのみ会でお待ちしています。