「カウンセリング」に出会って40数年になる。
昭和39年に大学入学のため東京に出てきた。
縁あって、ロージャズのカウンセリング理論や技法を我が国に紹介した友田不二男先生の研究室に出入りするようになった。
その時が、「カウンセリング」との出会いである。
以来、我が国のカウンセリングの第一世代の先生方に、いろいろ教えていただいてきた。
この頃は、臨床心理士やカウンセラーの中でも、友田不二男先生のお名前も知らない専門家が増えてきたようだ。
臨床心理やカウンセリングの専門家であるのなら、我が国のカウンセリングの生みの親でもある、友田不二男先生のお名前位は知っていてもらいたいものだ。
ところで、その「カウンセリング」であるが、占いや化粧品や不動産や・・・いろいろな分野で「カウンセリング」という言葉が使用されている。
本当に残念な現場である。
親鸞聖人の『御消息集』の中に、次の言葉がある。
「本願念佛の衆生には、かげのかたちにそえるがごとくしてはなれたまわず、あかせり」
本文の下敷きは、中国の善導大師に『観念法門』の次の言葉だそうだ。
「若シ人有リテ心ヲ至シて常ニ阿弥陀佛及ビニ菩薩ヲ念ズレバ、観音・勢至常ニ行人トトモニ、勝友知識と作リテ、随逐影護ス」
現代語訳すると、
「もし人が、まごころから常に阿弥陀佛および二菩薩を念じたならば、観音・勢至は常にこの行者のための善き友となって、影の形にそうように護ってくださる」
「随逐影護」(ずいちくようご)、これがカウンセラーの理想の在り方のように思う。
恩師・五十嵐正美先生は、教師のカウンセリング(教育相談)を学ぶ目的を、「教育の裏打ち」と教えてくださった。
何か通じるものを感じる。
この頃の「カウンセリング」は、商売になってしまい、「表芸」になってしまっていることが残念である。