尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ミラン・クンデラ、ジェーン・バーキン他ー2023年7月の訃報③

2023年08月09日 22時52分37秒 | 追悼
 2023年7月の訃報(続き)。国外の訃報をまとめて。あまり多くなかったので、頑張れば前回と一緒に書けたんだが…。

 チェコ及びフランスの作家、ミラン・クンデラ(Milan Kundera)が7月11日死去、94歳。先月亡くなったアメリカのコーマック・マッカーシーとともに、毎年のようにノーベル文学賞候補に名が挙っていた。1929年、チェコスロヴァキア(当時)のブルノで生まれ、「社会主義」時代に創作を開始した。1967年の『冗談』(岩波文庫)は共産党支配下の閉塞した社会を描いている。翌年の「プラハの春」(自由化運動)にも関わったが、ソ連侵攻後に発禁となった。
(ミラン・クンデラ)
 1975年にフランスのレンヌ大学に招へいされ、渡仏。1979年には国籍をはく奪され、1981年にフランス市民権を取得し、創作もフランス語で行うようになった。1984年に『存在の耐えられない軽さ』を発表して世界的に評価され、映画化された。その他『不滅』『笑いと忘却の書』など主要な作品は集英社文庫に収録されている。文学評論も多く、ヨーロッパ文学の伝統を継承する作家だった。持ってるので、今後読みたいと思っている。

 英仏で活躍した俳優、歌手のジェーン・バーキンが7月16日死去、76歳。折しも娘のシャルロット・ゲンズブールが監督した映画『ジェーンとシャルロット』が公開を控えていた(8月4日公開)時点で、大変驚いた。ジェーン・バーキンと言えば、エルメスのバッグ「バーキン」だという人が多かったけど、僕は知らない。本当は歌手や俳優としての活躍もほとんど知らない。セルジュ・ゲンズブールと歌った『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』(1969)が大ヒットし、過激な性描写が話題となってヒットした。セルジュが監督した同名の映画(1976)でも主演している。
(ジェーン・バーキン)
 ロンドンで生まれ、女優を目指していた。18歳で映画『ナック』の端役に採用されたが、同作の音楽を担当したジョン・バリー(アカデミー賞音楽賞を4回受賞した大作曲家で、007のテーマ曲を編曲した)と結婚した。長女を産むが、68年に離婚。フランスにわたって、セルジュ・ゲンズブールと出会い、事実婚で次女シャルロットを産んだ。80年に関係が破綻するが、その後映画監督ジャック・ドワイヨンと結婚し、三女を産んだ。このような時代に先駆けた自由な生き方で支持されてきた。東日本大震災直後の4月6日に早くも来日し、チャリティ・コンサートを行ったことでも知られる。
(若い頃)
 アメリカの歌手トニー・ベネットが7月21日死去、96歳。第二次大戦後を代表するポピュラー歌手の一人で、グラミー賞を20回受賞した。主なヒット曲に「ブルー・ヴェルヴェット」「ストレンジャー・イン・パラダイス」「霧のサンフランシスコ」などがある。70年代後、ロック音楽台頭に押され人気が低迷したが、クラシックやジャズ、ロックなど多くの歌手とコラボして人気が復活した。近年もレディー・ガガとの親交で知られた。最近はアルツハイマー病を患っていたが、2021年にも史上最高齢の95歳で新作アルバムを発表し、ギネス世界記録に認定された。
(トニー・ベネット)
アンドレ・ワッツ、12日死去、77歳。クラシックピアニスト。ドイツ出身で、バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルと16歳で共演して知られた。
ボー・ゴールドマン、25日死去、90歳。アメリカの脚本家。『カッコーの巣の上で』『メルビンとハワード』でアカデミー賞を2度受賞した。他にも『ローズ』『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』などを手がけた。
ランディ・マイズナー、26日死去、77歳。「イーグルス」結成メンバー。「ホテル・カリフォルニア」などに関わったが、77年に離脱しソロで活動した。
シンニード・オコナー、26日死去、56歳。アイルランド出身の歌手で、宗教や性に関して政治的なメッセージを述べることで知られた。1990年には「Nothing Compares 2 U」がビルボード誌で世界1位のヒット曲となった。2018年にはイスラム教への改宗を公表していた。
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高史明、無着成恭、PANTA、外山雄三他-2023年7月の訃報②

2023年08月08日 22時31分49秒 | 追悼
 2023年7月の訃報。作家の高史明(コ・サミョン)が15日死去、91歳。1974年に「ちくま少年図書館」から刊行された『生きることの意味 ある少年のおいたち』が大きな評判を呼び、日本児童文学者協会賞を受賞した。この本は僕が今までに読んだ本の中でも、もっとも感動した本に入る。在日朝鮮人2世として下関に生まれ、幼くして母と死別した。その後の厳しい暮らしを生き抜く中で感じたことが感動的に語られている。戦後は政治運動を志し、その体験を描いた小説『夜がときの歩みを暗くするとき』(1971)で作家デビューした。その後、一人息子に悲劇が起こったことは、『中山千夏「ぼくは12歳」-レアCDの話④』に書いた。以後の魂の彷徨の中で、親鸞と『歎異抄』に出会い、浄土真宗に関する著作が多くなった。仏教伝道賞も受賞している。結局作家人生を総括すれば、仏教関連が圧倒的に多いことに驚くのである。
(高史明)
 教育者、僧侶の無着成恭(むちゃく・せいきょう)が21日死去、96歳。山形県に生まれ、1948年に現・上山市の山元小学校教師になった。その時に実践した「生活綴り方」の作文を『山びこ学校』として刊行し、大ベストセラーになった。しかし、村から追われるように上京し、駒沢大学を卒業後、1956年から1983年まで明星学園に教諭、教頭として勤めた。また、1964年からラジオの「全国こども電話相談室」の回答者を28年間担当した。独自のユーモラスな回答で人気があり、一時は誰でも知っている人だったが、長命すぎて忘れられたか。退職後は千葉県(87~)、大分県(03~11)で住職を務めた。24歳の若い頃に作った生徒の作文集が一生を決めた人生だった。その『山びこ学校』は岩波文庫に収録されている。
 (無着成恭)
 日本のロック音楽草創期の伝説的バンド「頭脳警察」のボーカル、PANTA(本名中村治雄)が7日死去、73歳。1970年から75年まで「頭脳警察」で活動、過激な反体制的な歌詞で注目された。その後、ソロになったり再結成したりを繰り返しながら、音楽活動を続けた。沢田研二などの歌手に楽曲を提供したり、多くの映画で俳優もしていた。近年は闘病しながら活動していた。
(PNNTA)
 NHK交響楽団正指揮者の外山雄三(とやま・ゆうぞう)が11日死去、92歳。東京芸大を卒業後、N響に打楽器練習員として入団した。その後、ヨーロッパ留学を経て、大阪フィルハーモニー管弦楽団で常任指揮者となり、京都、名古屋、仙台、神奈川など日本各地で活動した。79年から死去まで、N響正指揮者を務めていた。作曲者としても知られた他、テレビ出演も多かった。
(外山雄三)
夏まゆみ、6月21日死去、61歳。ダンスプロデューサー。「モーニング娘。」や「AKB48」などのダンスを手がけた。
高田衛、5日死去、93歳。国文学者、近世文学専門で、『八犬伝の世界』で注目された。
那須田稔、11日死去、92歳。児童文学者。『シラカバと少女』(1965)で日本児童文学者協会賞。「忍者サノスケじいさん」シリーズなどがある。
木滑良久(きなみ・よしひさ)、13日死去、93歳。マガジンハウス最高顧問。平凡パンチ、ananなどの編集長を経て、76年に「POPEYE」、80年に「BRUTUS」を創刊した。その後マガジンハウス社長、会長を務めた。
西川扇蔵、14日死去、95歳。日本舞踊の西川流宗家、文化功労者、人間国宝。
鈴鹿景子、18日死去、67歳。女優、演出家。76年にNHK朝ドラ「火の国に」でデビューした。
浦雅春、19日死去、74歳。ロシア文学者、翻訳家。東大名誉教授。チェーホフ、ゴーゴリなどの研究、翻訳で知られた。
那智わたる、21日死去、87歳。元宝塚トップスター。53年から68年に男役として活躍した。佐藤文生元郵政相と結婚して話題となった。
平良啓子、29日没、88歳。沖縄からの疎開船が米潜水艦に攻撃された「対馬丸」事件のサバイバーで、語り部として活動した。
奥村彪生(あやお)、31日死去、85歳。伝承料理研究家。テレビで活躍しながら、民俗学を学び各地に伝わる食文化の研究に取り組んだ。『日本めん文化の一三〇〇年」で第1回辻静雄食文化賞。
立岩真也、31日死去、62歳。社会学者。障害者問題を研究し、病者、障害者とともにある社会をめざし、「弱くある自由」を唱えた。
☆ところで、7月に大きく報道された訃報に、タレントの「ryuchell」の突然の悲報があった。12日没、27歳。テレビで見る限り、なかなか「まとも」な感性の人だなと思っていたが、沖縄での生い立ちや性自認などの背景があったようだ。「自殺」とみなされている。最近芸能界の「自殺」が多すぎないか。ここでもあえて画像を載せたりしないことにする。
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森村誠一と常石敬一、「731部隊」をめぐって-2023年7月の訃報①

2023年08月07日 22時06分07秒 | 追悼
 2023年7月の訃報特集。猛暑で書く方も(多分読む方も)エネルギーが落ちていると思うから、ちょっとゆっくりと3回に分けて書きたい。まず1回目は森村誠一常石敬一。「731部隊」関連でつながるのだが、判る人の方が少ないか。
(森村誠一)
 ミステリー作家の森村誠一が7月24日に死去、90歳。訃報は大きく報道されたが、大部分は『人間の証明』をめぐるものだった。1975年に角川書店の「野性時代」に発表され、76年に刊行された小説である。77年に角川映画で映画化され、大々的な宣伝が行われて大ヒットした。角川映画は1976年に横溝正史の『犬神家の一族』(市川崑監督)を映画化して大ヒットしていた。横溝作品を軒並み文庫化し、テレビでCMを繰り返して「メディアミックス」と呼ばれた。それをさらに大々的に展開したのが、角川映画第二弾の『人間の証明』だった。ジョー山中が歌うテーマ曲も大ヒットした。
(映画ポスター)
 もうマスコミ関係者も現役では知らないはずだが、幼少期のテレビCMの印象が強烈に残っているかもしれない。僕は原作も映画もスルーしてしまった。昔から大ヒットしているような映画や小説を避けて通っちゃうのである。ミステリーは昔から読んでるが、森村誠一だけでなく日本の作家はあまり読まなかった。僕の若い頃は英米と日本のミステリーには、まだまだ差があると思われていて、僕も「日本」の湿った風土を舞台にしたミステリーが好きじゃなかった。

 だから森村誠一は2冊しか読んでない。一冊はデビュー作の『高層の死角』(1969)で、公募の江戸川乱歩賞に応募して受賞した。あるとき乱歩賞受賞作を全部読もうと思って、その時に初めて読んだのだが、あまりの出来の良さに驚いた。それまで森村誠一はホテルマンとして働いていて、その経験を生かしている。トリック、動機、文体が渾然一体となって新人離れしている。西村京太郎、東野圭吾、池井戸潤などの受賞作よりもずっと完成度が高いと思う。もちろん新人賞なんだから、受賞作がこれほど完成されてなくても問題ないが、とにかく傑作なのである。

 もう一冊が『悪魔の飽食』で、731部隊の所業を本格的に追求した「ノンフィクション」である。1981年に「赤旗」に連載され、大反響を呼んで、光文社から出版されベストセラーになったのである。すでに現代史研究者には知られていたが、広く一般的に旧日本軍の生物兵器研究の恐ろしさを知らしめたのは、この本だったと言える。森村は初め小説の材料として取材を始め、後にドキュメンタリーとして発表することになった。共同取材を担当したのは下里正樹だったが、当時共産党員だった下里は後に除名されている。この本は第3部まで書かれたが、第2部の写真誤用事件をきっかけに光文社と揉めて、角川書店から再刊された。
 
 実はこの本も読まなかったのだが、授業で取り上げた時に「家にこの本があった」と持ってきた生徒があった。貸してくれるというから、その機会に読むことにした。この本をめぐってはいろんな話題があり、ウィキペディアに詳しく載っている。僕がそれまで読まなかったのは、「歴史研究」としてはどうなんだろうと勝手に思ってたからである。読んでみて、読む価値はあると思ったけれど、内容は別にして文体などはやはり「研究」を越えた部分はあるかなと思った。その後読んでないし、全3部を読んでないので最終的な評価は控えたい。ただ、多くの人に問題を提起したのは、この本なのである。
(『悪魔の飽食』)
 科学史研究者の常石敬一が4月24日に死去していた。79歳。訃報は7月に公表された。長崎大学を経て、神奈川大学教授。歴史学者ではなく、物理学を学んで科学史研究に進んだ。早くから「731部隊」の実態を研究し、最初の著作は『消えた細菌戦部隊 関東軍第731部隊』(1981)だった。化学兵器や核兵器、医療史なども研究したが、やはり日本の細菌戦研究がライフワークだった。一般書として、講談社現代新書『七三一部隊―生物兵器犯罪の真実』(1995)がある。昨年には『731部隊全史』(2022)を出しているが、あまりに大部で読んでいない。科学史に関する翻訳も多い。僕は常石氏の本はいくつか読んでいるが、信頼出来る研究者だと思う。
(常石敬一)(常石著『731部隊全史』)
 1993年に「731部隊展」が行われた。90年代初期は、そういう企画が市民運動として大きな広がりを持つ時代だったのである。僕は地元でこの運動に関わったが、(結婚で離れた)足立区に(父親の死去で)戻った少し後である。もともと地元のアムネスティグループに参加したりしていたが、転居してつながりが薄くなった。新しいつながりを求めていた頃だったのである。僕が「731部隊」に一番関心を持っていたのがその頃で、その後きちんとフォローしていないから、あまり語る資格がない。

 ただ日本軍は中国戦線で細菌戦を実行したことが、その後証明されている。研究しただけの機関ではないのである。「731部隊」は関東軍防疫給水部の秘匿名であり、人体実験も行っていた。そのことを公言したわけではないが、研究成果の論文を見れば明らかである。最近、部隊の構成メンバーや階級を記した文書が発見されたと報道された。近年になって、残された文書の発見が続いている。敗戦時に完全に焼却したはずが、少しは残るものなのである。今後さらに研究が進み、日本軍の生物兵器研究、使用状況が解明されるだろう。とにかく旧軍には恐るべき実態があったことを忘れてはいけない。
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北別府学、杉下茂、川口由一、青木幹雄等ー2023年6月の訃報③

2023年07月06日 22時24分29秒 | 追悼
 2023年6月は大きく報道された訃報が多かった。「大きく報道された」とは、訃報とは別に「追悼記事」や「評伝」が掲載される人だと思う。文化関係を2回目に書いたので、3回目は残りの人々を。(小田中教授とベニシアさんは一度2回目に書いたのだが、こちらに移した。)偉大な野球選手が同じ日に大きく報道された。杉下茂は別記事もで紹介したので、ここでは北別府から。

 広島東洋カープ一筋で通算勝利213勝を上げた北別府学が16日死去、65歳。1975年にドラフト1位でプロ入り。「精密機械」と呼ばれた制球力で知られ、最多勝2回(82、86年)、最優秀防御率1回(96年)、最高勝率3回(85、86、91年)を記録し、沢村賞を82年、86年に2回受賞した。広島の5回の優勝に貢献したが、日本シリーズでは一度も勝利投手になれなかった。通算213勝は歴代18位で、広島カープ史上最多勝利投手だった。94年限りで引退し、その後は広島ホームテレビ解説者やカープの投手コーチを務めた。2020年に2年前から成人T細胞白血病で闘病していることを公表していた。近年には珍しく一つの球団で活躍した生涯だった。
 (北別府学)
 中日ドラゴンズの元投手、杉下茂が12日死去、97歳。北別府と同じ日の新聞で訃報が大きく報道されたが、年齢的には30歳以上離れていて活躍したのは50年代になる。プロで活動したのは1949年から1961年までの合計11シーズンだった。何より「フォークボール」で有名になったが、今の投手のようにフォークボールを多投せず、試合の切り札的に5、6球投げる程度だったという。最多勝利2回(51、54年)、最優秀防御率1回(54年)、最高勝率1回(54年)。沢村賞3回(51。52。54年)。中日が初優勝した54年は投手として32勝12敗で、優勝の原動力となった。通算勝利数215勝は歴代17位。1954年は(中日ドラゴンズの最多勝利投手は歴代16位で219勝の山本昌。)兄が沖縄戦で戦死していて、平和を守ることの大切さを伝えていた。
 (杉下茂)
 自然農の実践家として知られた川口由一(かわぐち・よしかず)が9日死去、84歳。農薬、化学肥料の農業を続ける中で体調不良となり、70年代から独自の自然農を始めた。不耕起、不施肥、無農薬の「自然農」は、耕起、施肥、病害虫防除を否定し、周辺の草(雑草)の生命も全うさせるというものである。自ら実践するとともに、全国各地で自然農の指導にもあたった。著書も多く、虫や草を敵としない「思想」は一部に強い影響を与えてきた。新聞、テレビ、ネットメディア等では訃報が報じられかった。
(川口由一)
 元内閣官房長官、元参議院議員の青木幹雄が11日死去、89歳。島根県に生まれ同郷の竹下登の秘書となり、67年から86年まで島根県議会議員として「城代家老」と呼ばれた。86年に参議院議員となり、2010年まで4期当選。92年の竹下派分裂騒動では、38人中30人を小渕派にまとめて参議院の有力者と目されるようになった。98年に小渕恵三内閣が発足すると、1年後の99年に内閣官房長官に就任した。その結果、2000年4月に小渕首相が倒れた時に、後継首相に森喜朗を「密室」で決定した「五人組」として批判された。その後は自民党参議院議員会長として「参院のドン」と呼ばれて長く影響力を保った。2010年に体調不良で議員を引退し、長男の一彦が後継となった。その後も一定の影響力を持ち続けていた。
(青木幹雄)
 元青森県知事、元衆議院議員の木村守男が25日死去、85歳。1980年に新自由クラブから衆院議員に当選、81年には離党して自民党に入党した。83年は落選したものの、86年、90年と当選。93年には宮沢内閣不信任案に賛成して離党、新生党に参加して当選した。95年に無所属で青森県知事に立候補し、現職を破って当選、3回当選した。しかし、93年の三選直後に「週刊新潮」がセクハラ問題を掲載し、議会と対立して辞職勧告決議が可決された。揉めた挙げ句、県議選後の5月に辞職した。長男の木村太郎も衆院議員となって7回当選したものの、2017年に52歳で死去。その後は次男の木村次郎が後を継いで2回当選している。
(木村守男)
 ウシオ電機設立者で、元経済同友会代表幹事の牛尾治朗が13日死去、92歳。姫路出身で、1964年に家業をもとにウシオ電機を設立した。早くから財界活動も行い、規制緩和、株主重視を主張していた。しかし、89年のリクルートコスモスの未公開株を取得していたことから、公職を一時離れたこともある。小泉内閣では経済財政諮問会議の民間議員となって、積極的に発言した。安倍晋太郎と親しく、娘が安倍晋太郎の長男と結婚している。そのため安倍晋三内閣でも相談を受けていたと言われる。
(牛尾治朗)
 元産経新聞社社長の羽佐間重彰(はざま・しげあき)が19日死去、95歳。元々ニッポン放送に入社し、編成部長時代に「オールナイト・ニッポン」の放送を開始した。ポニー・キャニオンレコード社長を経て、85年にフジテレビ社長。88年にフジサンケイグループ議長の鹿内春雄が急死して、父の鹿内信隆が復帰し、ニッポン放送社長に飛ばされた。90年に信隆が死去し、92年6月に産経新聞社社長に就任。7月に信隆の女婿鹿内宏明議長を解任するクーデターが起こった。97年から2003年までフジサンケイグループ代表。この反鹿内家クーデターは日枝久フジテレビ社長が首謀者と言われる。産経が「つくる会」の中学歴史教科書を発行し始めた時期の最高責任者がこの人だったことを忘れてはいけない。
(羽佐間重彰)
 刑事法学者の小田中聰樹(おだなか・としき)が9日死去、87歳。東北大名誉教授。刑事訴訟法研究の第一人者だったが、研究に止まらず誤判、冤罪救援に尽力したことで知られる。講談社現代新書の『冤罪はこうして作られる』(1993)のような一般書も書いた。裁判員制度などの「司法改革」への批判でも知られた。護憲論者として「九条科学者の会」呼びかけ人も務めた。
(小田中聰樹)
 肩書きが「ハーブ研究家」となったベニシア・スタンリー・スミスが21日死去、72歳。イギリス人だが、離婚した母とともに世界各地を移りながら育った。1971年に日本に来て、1978年から京都で英語学校を経営。1992年に登山家梶山正と再婚し、96年に京都・大原に住むようになり、ハーブ作りを始めて、ハーブ研究家となった。『ベニシアのハーブ便り 京都・大原の古民家暮らし』(2007)などエッセイも出版。その暮らしぶりをNHKが撮影し『猫のしっぽ カエルの手 京都 大原 ベニシアの手づくり暮らし』として放送した。これは日曜日夕方6時にEテレで放映されて、母親が見ていたので僕はこの人のことを身近に感じるようになった。
(ベニシア・スタンリー・スミス)
27代木村庄之助、22日死去、97歳。1977年から90年まで大相撲の行司最高位の木村庄之助として活動した。
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中島貞夫、野見山暁治、平岩弓枝他ー2023年6月の訃報②

2023年07月05日 22時54分55秒 | 追悼
 2023年6月の訃報、2回目は日本人の中で、文化的ジャンルで活躍した人を中心に。まず映画監督の中島貞夫が11日死去、88歳。東映に入社し、1964年に『くノ一忍法』で監督デビュー。以後70年代の実録映画、80年代の大作路線など、東映娯楽映画を支えた職人監督だった。同時代に活躍した深作欣二と違って娯楽に徹した印象が強い。1987年から大阪芸術大学教授に就任し、大阪芸大から続々と優秀な新人監督を輩出させた。1967年『893愚連隊』で「イキがったらあかん、ネチョネチョ生きるこっちゃ」のセリフが注目された。チンピラたちの生き様を描いた70年代前後の作品が一番面白いと思う。『日本暗殺秘録』(1969)『現代やくざ 血桜三兄弟』(1971)『鉄砲玉の美学』(1973)『脱獄広島殺人囚』(1974)『狂った野獣』(1976)『沖縄やくざ戦争』(1976)などが代表作か。2019年に20年ぶりに長編映画『多十郎殉愛記』を監督して話題となった。
(中島貞夫)
 洋画家の野見山暁治(のみやま・ぎょうじ)が22日死去、102歳。筑豊の炭鉱経営者の子どもとして生まれた。戦後に12年間パリで暮らし、画風が抽象画に変化した。帰国後、1968年から東京芸術大学で教え、東京芸大名誉教授。名エッセイストとしても知られ、『四百字のデッサン』(1972)でエッセイストクラブ賞を受賞した。窪島誠一郎と協力して戦没画家の絵を収集し、長野県上田市に「無言館」を設立した。2014年に文化勲章受章。僕は絵をちゃんと見たことがないんだけど、実妹が作家の田中小実昌と結婚して、パリ在住時代は世田谷の家に田中夫婦が住んでいた。そのことが田中小実昌のエッセイによく出て来る。
(野見山暁治)
 作家の平岩弓枝が9日死去、91歳。1959年に『鏨師』(たがねし)で直木賞を受賞。僕はそれしか読んでいない。その後、1974年から『御宿かわせみ』シリーズを発表し始め、2017年の41巻まで続いた。僕の若い頃はテレビドラマの『女と味噌汁』『肝っ玉かあさん』『ありがとう』などが人気でよく知られていた。大河ドラマ『新・平家物語』の脚本も担当。2016年に文化勲章受章。東京・渋谷区の代々木八幡宮の宮司の一人娘で、そういう人もいるんだなあと思った。
(平岩弓枝)
 彫刻家の澄川喜一が4月9日に死去していた。91歳。元東京芸大学長。木の造形にひかれ、木の反りを生かした抽象的な「そりのある形」シリーズで評価された。その造形性を生かして、東京スカイツリーなどを監修した。文化勲章受章。
(澄川喜一)
 演出家、オペラ演出家の栗山昌良が23日死去、97歳。演劇作品も多く手掛けたが、それ以上に戦後日本のオペラ演出で知られた。『椿姫』『蝶々夫人』などの他、特に日本の團伊玖磨『夕鶴』、黛敏郎『金閣寺』などを演出した。文化功労者。
(栗山昌良)
 俳優の柳澤愼一が2022年3月24日に死去していた。もともとジャズ歌手として人気を得て、日劇で500日連続出演したという。多くのテレビ、映画に出ていたが、各社で貴重な脇役として活躍していた。当時の出演映画には『西銀座駅前』『鷲と鷹』『紀ノ川』などがある。最近の映画では『メゾン・ド・ヒミコ』に出ていた。一時池内淳子と結婚していたこともある。軽妙洒脱な語りでも知られ、最近までトークショーなどに出ていた。僕もラピュタ阿佐ヶ谷で聞いたことがある。
(柳沢慎一)
 フランス文学者、評論家の栗田勇が5月5日に死去していた。93歳。50年代に日本で初のロートレアモン個人訳全集を翻訳した。文学、演劇、美術など幅広い分野で評論家として活躍。次第に仏教関係の著作が多くなり、1977年に『一遍上人』で芸術選奨を受賞。他にも道元、良寛、最澄などの本も書いた。また『わがガウディ 劇的なる空間』などガウディを70年代から紹介していた。
(栗田勇)
春日三球(かすが・さんきゅう)、5月17日死去、89歳。漫才師。妻と組んだ「春日三球・照代」を組んで活躍した。「地下鉄の電車はどこから入れたんでしょうね。それを考えると夜も眠れない」の地下鉄漫才で人気を得た。87年に妻が死去し、後別の女性と再婚した。確かに地下鉄銀座線などを思うと、先の疑問も成り立つだろう。でも僕は自宅徒歩1分のところに地下鉄車庫があるので、特に疑問を持ったことがなかった。
高山由起子、脚本家。2日死去、83歳。70年代から活躍し、村野鐵太郎監督の名作『月山』『遠野物語』の脚本を書いた人である。テレビでも『フランダースの犬』『必殺仕掛人』などを手掛けた。福永武彦原作の『風のかたみ』では監督も務めた。映画化された『源氏物語 千年の謎』の原作など、著作も多い。日本画家高山辰雄の娘で、父に関する著作もある。
亀井忠雄、3日死去、81歳。能楽師。人間国宝で、芸術院会員だった。
小桜京子、15日死去、90歳。女優、喜劇役者。柳家金語楼の姪で、金語楼劇団の子役でデビューした。50年代にテレビ、映画の「おトラさん」シリーズで人気を得た。一時、奇術師の引田天功と結婚していた。
坂見誠二、16日死去、65歳。日本にストリートダンスを伝えた一人で「ダンスの神様」と呼ばれた。多くの舞台、テレビ、映画などで振付師として活躍した。
佐藤剛、20日死去、71歳。音楽プロデューサー、ノンフィクション作家。甲斐バンドを担当していたが、独立してTHE BOOMなど多くの歌手をプロデュースした。21世紀になって、『上を向いて歩こう』(2011)、『「黄昏のビギン」の物語』(2014)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」』(2017)など、戦後大衆音楽史を扱うノンフィクションを著した。
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C・マッカーシー、エルズバーグ、ベルルスコーニ他ー2023年6月の訃報①

2023年07月04日 22時32分52秒 | 追悼
 2023年6月の訃報特集。北半球では暑くなるにつれ、訃報が多くなってきた。今回は3回になる予定。海外は比較的すぐに訃報が発表されるようで、まず外国人から。

 アメリカの小説家、コーマック・マッカーシー(Cormac McCarthy)が13日に死去、89歳。ノーベル文学賞候補とも言われた現代アメリカを代表する作家の一人。軍に入ったり、各地を放浪して、作家として認められたのは遅かった。1992年の『すべての美しい馬』が全米図書賞を受賞したときは、もう60歳に近かった。2003年の『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』はコーエン兄弟が映画化してアカデミー作品賞を受賞。2006年の『ザ・ロード』はピュリッツァー賞を受賞してベストセラーになった。会話を引用符なしで書いたり、暴力的、哲学的な独自の作風で知られた。日本では早川書房から主要作品が文庫化されていて、大型書店に行ったら追悼コーナーがあった。僕はほとんどもってるけど読んでないので近々読む予定。
(コーマック・マッカーシー)
 アメリカで1971年にヴェトナム戦争の戦争過程を分析した、いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」を暴露したことで知られるダニエル・エルズバーグが16日死去、92歳。海兵隊を経て、国務省、国防省に勤務したが、やがてアメリカの戦争政策に批判的になっていった。ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストにリークした様子は映画『ペンタゴン・ペーパーズ』に描かれた。国家機密漏洩罪に問われたが、ロサンゼルス連邦地裁で公訴棄却となった。その後は平和運動家、軍縮研究家として活動した。
(ダニエル・エルズバーグ)
 イギリスの俳優、元政治家のグレンダ・ジャクソンが15日死去、87歳。日本では知る人が少ないが、アカデミー賞主演女優賞を2回受賞した大女優である。シェークスピアの舞台から、コメディ映画、テレビではエリザベス1世を演じるなど、確かな演技力で大活躍した。ケン・ラッセル監督『恋する女たち』(1969)とメルヴィン・フランク監督『ウィークエンド・ラブ』(1973)でアカデミー賞。後者は中年男女の不倫コメディで、面白かったけど時代を超えて残ることが出来なかった。1992年に女優を引退して労働党から国会議員となり、2015年まで務めた。政界引退後は女優に復帰して、トニー賞を受賞するなど活躍した。映画『帰らない日曜日』(2021)で晩年の様子を見られる。実に見事な老後を演じて感銘深かった。
(グレンダ・ジャクソン)
 アメリカの俳優、アラン・アーキンが29日死去、89歳。地方の舞台からスタートし、ブロードウェイに進出。1966年の映画デビュー作『アメリカ上陸作戦』でアカデミー賞主演男優賞ノミネートされ、一気にスターとなった。『愛すれど心さびしく』(1968、マッカラーズ『心はさびしい狩人』の映画化)で再びアカデミー賞主演男優賞にノミネート。次第に渋い脇役に回るようになり、21世紀になって『リトル・ミス・サンシャイン』(2006)でアカデミー賞助演男優賞を受賞した。
(アラン・アーキン)
 イギリスの俳優ジュリアン・サンズの死亡が6月27日に確認された。65歳。1986年の『眺めのいい部屋』が評判となり、日本でも人気となった。その後も『裸のランチ』『リービング・ラスベガス』などで順調に活躍した。登山愛好家で、1月にカリフォルニア州の山にハイキングに行って、13日を最後に消息を絶っていた。6月24日に遺体が発見され、27日に身元が確認された。
(ジュリアン・サンズ)
 フランスの映画監督、ジャック・ロジエが2日死去、96歳。フランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」を代表する映画監督の一人だが、非商業的、自由で即興的な作風で、日本で公開されたのは近年のことだった。『アデュー・フィリッピーヌ』(1962)、『オルエットの方に』(1973)、『メーヌ・オセアン』(1986)などの長編の他、ゴダール『軽蔑』のメイキング『バルドー/ゴダール』(1963)などもある。こういう映画もあるんだという自由な映像が魅力。今夏ユーロスペースで追悼上映が予定されている。
(ジャック・ロジエ)
 ブラジルの歌手、アストラッド・ジルベルトが5日死去、83歳。1959年にジョアン・ジルベルトと結婚、1963年にアメリカに移住した。プロ歌手ではなかったが、夫のレコーディング時に歌声が素晴らしかったので、英語版の『イパネマの娘』を歌って世界的に大ヒットした。ボサノヴァの代表的歌手とされるが、そういう経緯からブラジルでの評価は高くないと言われる。
(アストラッド・ジルベルト)
 アメリカの物理学者、ジョン・グッドイナフが25日死去、100歳。リチウムイオン電池の研究で、2019年にノーベル化学賞を、日本の吉野彰、イギリスのウィッテンガムと同時受賞した。受賞時年齢97歳は、ノーベル賞史上最高齢の受賞となる。
(ジョン・グッドイナフ)
 アメリカの陸上競技選手、ジム・ハインズが3日死去、76歳。人類で最初に100メートルを9秒台で走った人である。1968年の全米選手権で手動計時で9秒9を記録。メキシコ五輪代表に選ばれ、五輪史上初の電動計時で9秒95を記録して金メダルを獲得した。この記録は1983年まで破られなかった。
(ジム・ハインズ)
 イタリアの元首相シルヴィオ・ベルルスコーニが12日死去、86歳。大実業家でメディア王と呼ばれた。90年代初期に積年の保守政界汚職が摘発され、保守政界が再編されたとき、新党「フォルツァ・イタリア」を結成して、一躍首相となった。94年~95年、2001年~2006年、2008年~2011年に掛けて首相を務めた。あまりにもスキャンダルが多く、公職追放されたこともあるが復活した。庶民的と呼ばれたりもするが、もう僕に書くべきことはない。「やっと死んだか」ということだろう。
(ベルルスコーニ)
セオドア・カジンスキー、10日死去、81歳。一時はカリフォルニア大学バークレー校の最年少教授だったが、1969年に退職して山の中で原始的生活を送った。現代文明批判を強め、社会に訴えるためとして1978年から95年にかけて、全米各地の現代技術関係者に爆弾を送りつけ、その結果3人が死亡した。「ユナボマー」と呼ばれたが、96年に逮捕された。仮釈放なしの終身刑を宣告され、ノースカロライナ州の連邦医療刑務所で死亡した。
ハリー・マーコウィッツ、22日死去、95歳。アメリカの経済学者。1990年ノーベル経済学賞。金融資産運用の安全性を高める研究。
クリスティン・キング・ファリス、29日死去、95歳。アメリカの人権活動家。マーティン・ルーサー・キングの姉。
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「国がおかしくなる時は教育からおかしくなる」ー杉下茂の「遺言」(再掲)

2023年06月18日 20時36分07秒 | 追悼
 元プロ野球選手の杉下茂氏が亡くなった。97歳と長命だった。中日ドラゴンズで活躍し、日本で初めてフォークボールを投げて「フォークの神様」と呼ばれた人である。1951年、54年に最多勝利、51、52、54年に3度沢村賞を獲得したという偉大な記録を持っている。国鉄スワローズの金田正一と投げ合うことが多く、1955年には金田相手に1対0でノーヒットノーランを達成した。一方、1957年に1対0で金田が完全試合を達成したときの相手投手でもある。このような活躍は僕が生まれる前なので、もちろん直接は知らないけれど。通算勝利215勝は、日本プロ野球史上15位の記録となっている。同日に訃報が報じられた元広島の北別府学投手は213勝で、歴代17位だった。(昨年亡くなった村田兆治氏も215勝で、15位が2人いる。)
(杉下茂氏)
 さて、3年前の2020年夏、コロナ禍で夏の甲子園大会が中止になった年のことだけど、東京新聞に杉下氏のインタビューが掲載された。杉下氏の名前ぐらいは知っていたけれど、「伝説の投手」というだけで杉下氏の戦争体験のことなど全く知らなかった。そこで語られた言葉は、胸に迫る深さがあり非常に驚いた。そのため、ブログでも紹介したことがある。(2020年9月3日)その内容は改めて紹介する価値があると思う。むしろ今こそさらに重みが増しているというべきかもしれない。自分でも忘れていたぐらいだから、当時読んだ人でも多分覚えてないだろうと思う。そこで以下に再掲したい。
(現役当時の杉下氏)
 杉下茂は1925年生まれで、東京都千代田区(現)で育って、旧制帝京商業学校の野球部で活躍した。1941年の中止された甲子園の高校野球に出場予定だった。「あれは帝京商3年生の1941年だった。地区予選を勝ち抜いて、さあ、甲子園だというところで、中止になってしまった。残念だったが、大人たちはそれどころではないという感じ。今年はコロナで中止になったが、私たちのとき以来、79年ぶりだというね。この年の12月、日本は太平洋戦争に突入したんだ」

 「―そのときの思いは。」
 「日本はどうなってしまうのかという不安と野球をやりたい気持ちが入り交じっていた。1942年は文部省(現文部科学省)が主催となって夏の大会が復活したが、正式な大会ではないため、『幻の甲子園』と呼ばれている。私は予選に出たが、この大会は戦意高揚が目的だったから、投手からぶつけられても『球から逃げるとは何事だ』と怒られ、死球を取ってもらえなかった。ひどい時代だった」

 「―「魂の野球」と呼ばれた時代ですね。選手は審判におかしいとは言えない雰囲気だったのですか。」
 「何しろ、世の中全てがそうだった。大人からああしろこうしろと言われれば、『ハイ』と答えるしかなかった。異議を唱えるなんて許されなかった。国はそこのところをよく考えて、子どもたちに『お国のために』と教え込んだ。軍事教育だね。だから、私は教育というのは本当に大事で、国が危うくなるときは教育からおかしくなると思っている

 その後召集され、中国戦線に従軍、行軍のつらさ、上官の体罰などが語られる。そして叔母から兄の死を知らせる手紙が届いた。制海権がすでに奪われていたので、それが軍隊時代に受け取った唯一の郵便だったという。

 「―確かお兄さんは3歳年上でした。どんな方でしたか。」
 「兄の安佑は、優しくて、しっかりしていて、野球が上手な人だった。海軍に入っており、この年の3月21日に沖縄で戦死した。神雷部隊といってね。特攻専用の桜花という機体に乗り、米艦に突撃したとのことだ。2階級特進で少佐になったと書いてあったが、そんなことはどうでもよかった。小さいころからキャッチボールをしてくれた兄がいなくなったのが、悲しかった」

 日本の敗戦に伴い、中国軍に武装解除され捕虜収容所に。そこは水が悪く多くの戦友が亡くなっていった。そんな中で捕虜収容所でも野球をやった。スポーツがつらい生活を救ってくれたという。野球大会を開いたり、バレーボールやバスケットボールもやった。スポーツで最後まで諦めずにプレーすることに助けられた。

 「―戦後、75年がたち、当時の様子を話せる人が少なくなりました。最後に戦争経験者として次の世代に残したい思いを聞かせてください。」
 「あの戦争では多くの若者が犠牲になった。兄は野球がうまかったから、無事でいたら、私を上回る野球選手になっていたことだろう。人間の未来や可能性を奪ってしまう戦争は二度と起こしてはいけない。そのためには誰もが意見が言える世の中にしておくことだ。戦争中は上官が突撃しろといったら『ハイ』といって従った。それが特攻や自決につながった。そんなのは間違っている。私はおかしいことをおかしいと言えない空気が悲劇を生んだと思う。誰もが自由に声を挙げられる世の中、『そうじゃない』と批判ができる世の中をいつまでも残してほしいと思っています。」

 このインタビューは新聞未掲載部分を含めて、全文が「「戦争は人間の未来を奪う」 フォークの神様・杉下茂さん(94)がひ孫世代に伝えたいこと 」で読むことが出来る。是非読んでみて欲しい。貴重な写真の数々も掲載されている。
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成田稔、蟻田功、高見のっぽー2023年5月公表の訃報

2023年06月05日 22時04分58秒 | 追悼
 2023年5月の訃報を一気に書いた後で、「5月に公表された訃報」を3件書き残していたことに気が付いた。そこでもう一回別に書いておくことにする。国立ハンセン病資料館名誉館長国立ハンセン病療養所多磨全生園元園長成田稔氏が4月9日に亡くなった。95歳。新聞に載った時に特別に書こうかと思ったのだが、他に書きたいことが多く先送りにしてしまった。東大医学部卒業後、1955年に多磨全生園に勤務して、1981年に副園長、85年に園長となり、93年に退職し名誉園長となった。
(成田稔)
 僕が一番よく全生園に行っていた頃、「成田園長」「成田先生」という名前をよく聞いたものだが、成田氏の真骨頂はむしろ退官後の活動にあったと思う。「日本らい学会」を「日本ハンセン病学会」に改称し、「らい予防法」反対の学会声明をまとめる中心となった。それら専門家としての活動はよく知らないが、僕がすごい人だと思ったのは、ハンセン病国賠訴訟の証人尋問である。熊本、岡山、東京で訴訟が起こされ、成田氏はその東京訴訟の証人となった。僕はそれを休暇を取って傍聴に行ったのである。隔離政策は人権無視であり、その責任を取るのは「国以外にあり得ない」と強く述べた声は心に残っている。訴訟後にハンセン病資料館が国立施設に移管されると、2007年から2021年まで館長を務めた。最後までハンセン病の啓発に努めた生涯だった。

 「天然痘」の撲滅に尽力した蟻田功(ありた・いさお)氏が3月17日に死去、96歳。熊本医大を卒業後、1950年に厚生省に入省し、1962年にWHOアフリカ事務局員としてリベリアに赴任した。そこで天然痘対策を担当し、1977年にはWHOの世界天然痘根絶対策本部長に就任した。最後の流行地となったソマリアでは、紛争下にワクチン接種に奔走した。その結果、1980年に天然痘根絶宣言を出すことに成功したのである。1985年に帰国して、国立熊本病院院長に就任した。1990年には財団法人国際保健医療交流センターを設立した。1985年に朝日賞、1988年に日本国際賞を受賞したが、この人類史上の偉業を達成した責任者に対して、日本国が何も顕彰してないのは何故だろうか。
(蟻田功)
 俳優、作家の高見のっぽが1922年9月10日に死去した。88歳。訃報を半年以上伏せるように本人が希望し、誕生日の5月10日に合わせて公表された。1967年にNHK教育テレビの「なにしてあそぼう」の「ノッポさん」役に起用された。芸名は181㎝の長身だったためで、一言もしゃべらずに工作する姿が人気を呼んだ。4年後に番組が終了し、後継の「できるかな」には出演していなかったが、視聴者の要望が強く1年後に出演するようになた。1990年まで23年間、番組ではしゃべらなかったが、最後の番組で初めて声を発して話題となった。その後は絵本や児童文学を中心に活躍した。と、まあそういうことなんだけど、以上は報道等を基に書いたもので僕はほとんどこの人の記憶がない。1967年は小学校高学年で、テレビでは怪獣もの、アニメ、野球などは見ていたが、このような児童番組はもう見なかった。その後も縁がなかった。訃報で初めて自分が知らない有名人がいるという事実を知るのである。
(高見のっぽ)
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中西太、上岡龍太郎、ティナ・ターナー等ー2023年5月の訃報

2023年06月04日 22時48分47秒 | 追悼
 2023年5月の訃報特集。ミステリー作家の原尞を別に書いたので、その他の人を内外合わせて1回で。誰かが亡くなるのは避けがたいが、5月は比較的大きな訃報が少なかった。若い人だと知らない訃報が多くなるが、その方が良いんだろう。

 スポーツ関係の訃報が多かったので、まずまとめて。元プロ野球選手の中西太が11日死去、90歳。パリーグで西鉄ライオンズの黄金時代を支えて、ホームラン王5回を獲得した。出身は香川で、高松一高時代に夏2回、春1回甲子園に出場し「四国の怪童」と呼ばれたという。1952年に西鉄(現西武)に入団、新人王となった。西鉄は三原脩監督のもとで56年から3年連続で日本一となり、中西は主力として支えた。62年から69年まで、西鉄で選手兼監督になり63年に優勝した。69年の「黒い霧事件」(八百長疑惑)で辞任し、その後日本ハム、阪神でも監督を務めた。しかし、監督としてはあまり良い成績を残せなかった。

 「情の人」で監督に向かないが、むしろ打撃を若い選手に教えるのが「天職」だと言い、打撃コーチとして評価が高かった。ヤクルト、阪神、近鉄、巨人、ロッテでコーチを務めて、若松勉、岡田彰布、掛布雅之らを育てた。妻は三原監督の長女で、三原監督の影響を受け継ぐ人だった。三冠王にはなっていないが、二冠王4回という記録を持つ。(最多は王の5回。)50年代が活躍の中心だったから、一番すごかった時期はナマでは知らない。むしろ監督として下位チームを率いた印象があるが、僕の若いときは「西鉄黄金時代」を語る人が多かったことは記憶している。
(中西太)
 東映フライヤーズ(現日本ハム)で活躍した毒島章一が11日死去、87歳。「毒島」は「ぶすじま」と読む。毒が「ぶす」だという知識をこの人から得た。1954年に東映に入団、すぐに主力打者となり、71年まで東映一筋に過ごした。1962年のリーグ初優勝に貢献したが、タイトルには縁がなかった。通算安打1977本とわずかに2千本に届かなかった。通算三塁打数が106本で、2位という記録を持っている。引退後は東映、西武などでコーチやスカウトとして活躍した。
(毒島章一)
 元バレーボール選手の横田忠義が9日死去、75歳。19歳で代表入りし、68年メキシコ五輪銀メダル、72年ミュンヘン五輪金メダルを獲得した。大古、森田とともに「三本柱」と呼ばれ、男子バレー黄金時代を築いた。その時代にいかに人気があり、日本中の女子生徒がバレーボール選手に憧れたかは小川洋子『ミーナの行進』に描かれている。76年モントリオール五輪4位で、78年引退。94~95年には全日本女子の監督を務めた。
(横田忠義)
 女子体操選手として、64年東京五輪団体銅メダルを獲得した池田敬子が13日死去、89歳。1954年にローマで開かれた世界選手権で、平均台の金メダルを獲得した。2017年の村上茉愛(床運動)まで出なかった記録である。メルボルン、ローマ、東京と3回五輪に出場し、女子体操界の牽引者として長く活動した。旧姓は田中で、池田は結婚後の姓。結婚、出産後も現役を続け活躍した先駆者の一人である。日体大が女子入学を認めた一期生で、卒業後も大学に残り、日体大教授、副学長を務めた。
(池田敬子)
 元漫才師、元タレントの上岡龍太郎が19日死去、81歳。夕刊紙が「伝説の芸人死す」と見出しを付け、なるほどと思った。元は59年から「漫画トリオ」で活躍した「横山パンチ」である。60年代半ばのお笑いブームで全国的に知られたが、68年に横山ノックが参議院議員に当選して事実上解散した。その後、上岡龍太郎名義で関西のテレビ、ラジオの司会者として有名になった。『鶴瓶上岡パペポTV』『探偵!ナイトスクープ』などは東京でも放送されたが、僕はテレビを持たない時期だったので全く見てない。2000年に引退を表明して、以後は全く公の場に出なかった。その消え方こそ最高の「芸」だったかも。理路整然たる毒舌で知られ、選挙出馬を求める声があった。大阪には横山ノック、西川きよしの「芸人枠」があるなどと言われ、上岡の出馬を期待する声も多かった。もし出ていたら、大阪がここまで「維新」の牙城にならなかったかもしれない。
(上岡龍太郎)
 歌舞伎役者の4代目市川段四郎が18日に死去、76歳。この死亡は「自殺」と言われているが、現時点では謎が多く未だよく判らない点が多い。兄が3代目市川猿之助(現猿翁)で、兄を支えるとともに市川一門の重鎮として重要な役を務めた。歌舞伎は詳しくないから語れないが。テレビなどで何度も報道された「事件」のことは書かない。ここでは猿翁、段四郎の母親について。父は3代目段四郎だが、母は女優の高杉早苗。戦前の松竹映画で活躍し、結婚で引退した。戦後の経済困窮で復帰し、70年代まで映画、テレビに出ていた。猿翁、段四郎の間に脚本家市川靖子がいたが、2003年に亡くなった。
(市川段四郎)
篠原睦治(むつはる)、8日没、84歳。臨床心理学、障害者問題が専門で、和光大で長く教えた。
いなせ家半七、11日没、64歳。落語家。5代目春風亭柳朝に弟子入りし、師匠没後に兄弟子小朝門下に移籍した。
浅草駒太夫、22日没、82歳。新聞の訃報は「ダンサー」だが、Wikipediaでは「ストリッパー」である。浅草などで「花魁ショー」で知られ、引退興行にはそうそうたる顔ぶれが集まったという。しかし、引退後も度々復帰していたことはWikipediaに非常に詳しい記述がある。晩年は浅草で「喫茶ベル」を経営していた。

 アメリカの歌手、ティナ・ターナーが24日死去、83歳。「ロックンロールの女王」と呼ばれた。テネシー州出身だが、最後はスイス市民権を取りスイスで亡くなった。1960年にアイク・ターナーと組んで「アイク・アンド・ティナ・ターナー」として活動を始め、60年代半ばには大成功した。日本のラジオでも「プラウド・メアリー」などがよく掛かっていて、「アイキャンティナターナー」という歌手だと思い込んでいた。アイク・ターナーと組む前に相互に他に交際相手がいたが、やがて二人は結ばれ結婚した。しかし、成功とともにアイクは酒と麻薬に溺れ、家庭内暴力がひどくなった。その悩みから「創価学会インターナショナル」に入会し、78年に正式に離婚した。その後ソロ活動を行い、1984年に「愛の魔力」などのヒットを生んだ。自伝を書いて家庭内暴力などを明かし、映画化されたことでも知られる。
(ティナ・ターナー)
 オーストリア出身の俳優、ヘルムート・バーガーが19日死去、78歳。イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティに見出され、映画に出演するようになった。『地獄に堕ちた勇者ども』で圧倒的な存在感を示し、『ルードヴィヒ』ではタイトルロールの狂王を演じ、『家族の肖像』でも記憶される。ヴィスコンティが「発見」した美形だから、他にも青春映画などにも出ている。しかし、ヴィスコンティの公然たるパートナーでもあり、監督死後は自ら「未亡人」と述べたともいう関係だった。
(ヘルムート・バーガー)
 アメリカの前衛映画作家、ケネス・アンガーが11日に死去、96歳。60年代から70年代にかけて、前衛的な実験映画をたくさん製作した。同性愛を公言し当初は「ゲイ・ポルノ」と扱われたこともあったが、アメリカを代表する実験映画作家である。『スコピオ・ライジング』、『ルシファー・ライジング』など主要な映画は『マジック・ランタン・サイクル』にまとめられ、日本でも上映された。また、50年代までのハリウッドのスキャンダルをまとめた『ハリウッド・バビロン』を1959年にパリで出版したことでも有名。
(ケネス・アンガー)
 フランスの小説家、批評家フィリップ・ソレルスが5日死去、86歳。実験的な作風で知られたヌーヴォ・ロマンの代表的な作家。『公園』(1960)で知られた。他にも『女たち』『秘密』など邦訳も多いが、句読点なしで書かれた『楽園』(1981)は未だ翻訳されていない。、批評家としてはポスト構造主義、政治的にはマルクス主義からマオイストを経て、最後は伝統回帰したと言われる。美術批評も多く、邦訳もされている。思想家ジュリア・クリスティヴァと結婚していた。
(フィチップ・ソレルス)
 ソ連出身でニューヨークで活動した現代美術家イリヤ・カバコフが27日死去、89歳。ウクライナのドニエプルペトロフスクで生まれ、モスクワの美術学校で学んだ。その後30年間「国家公認」の挿絵画家をしながら、非公認のアート活動を続けた。80年代後半にニューヨークへ移住、同郷のエミリアと知り合って、92年に結婚した。日本でも大地の芸術祭などで知られている。2008年に世界文化賞を受賞している。
(イリヤ・カバコフ夫妻)(人生のアーチ)
ジョン・ダニング、23日死去、81歳。アメリカのミステリー作家。デンヴァーで新聞記者をしていたが、辞職して作家を目指した。出版社とトラブって、作家を諦め稀覯本中心の古書店をやっていた。92年にその体験を生かした『死の蔵書』でカムバック。96年に日本で翻訳されると「このミステリーがすごい!」の1位になった。シリーズ化され、ハヤカワ文庫から刊行されている。
ハラルド・ツア・ハウゼン、28日死去、87歳。1983年に子宮頸がんを引き起こすパピローマウイルスを発見し、2008年にノーベル生理学医学賞を受賞した。
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原尞を悼むー日本ハードボイルド史上最高の達成

2023年05月15日 22時26分03秒 | 追悼
 ミステリー作家の原尞が5月4日に亡くなった。76歳。本当に大好きな作家だったので、来月回しにせず追悼しておきたい。1989年に『私が殺した少女』で直木賞を取ったので、読んでいる人もいるかもしれない。それにしても「寡作」で知られた作家で、長編小説はたった5作しかない。だから、こういうタイプの小説を愛する人以外には忘れられていたのではないか。他に短編小説集が1つ、エッセイ集が1つ、生涯に残した作品はそれだけだった。しかし、一作ごとの熱気と完成度は抜群で忘れられないのである。

 生まれは佐賀県だが、福岡で育ち、亡くなったのも福岡だった。ペシャワール会の故・中村哲とは高校時代の同期だという。ジャズ・ピアニストとして活躍していたが、1988年に『そして夜は蘇る』(早川書房)でデビューした。早川への持ち込み原稿だったというが、山本周五郎賞候補になるなど高い評価を得た。そして翌1989年に出た『私が殺した少女』で、候補一回目にして直木賞を受賞したわけである。僕が最初に読んだ作品はそれだが、圧倒的な完成度に驚嘆した。日本ハードボイルド史上で一二を争う大傑作である。別に少女殺しの異常者ものじゃなく、題名にも深い意味があるので注意して読むべし。
(『私が殺した少女』)
 直木賞はエンタメ系に与えられる賞だから、受賞作家には多作の人が多い。司馬遼太郎池波正太郎など、没後も文庫の棚にズラリと揃っている。現役ミステリー作家だと、大沢在昌宮部みゆき東野圭吾など、一何冊書いてるのか、本人にも判らないんじゃないかというぐらい多い。直木賞の場合、作品以上に「作家」に与えられる側面が強い。また単に面白いだけじゃダメで、「人間」描写力も問われる。候補一作目で受賞することは珍しいが、他業種から参入して軽々とクリアーしてしまった。

 最初の2作品に魅了されて次の作品を待ち望んだが、3作目が刊行されたのは1995年の『さらば長き眠り』だった。(その間1990年に短編集『天使たちの探偵』が出ているが。)チャンドラーに魅了されてハードボイルドを実作したとはいえ、この題名はどうなんだと読む前には思ったものだ。つまりチャンドラーの名作『さらば愛しき女よ』『長いお別れ』『大いなる眠り』と当時の翻訳題名を集めたようなネーミングなのである。しかし、読み終わるとこの題名こそ内容に最も相応しいものだと納得したのである。
 
 次はさらに待たされて『愚か者死すべし』(2004)、そして『それまでの明日』(2018)とこれだけである。完成原稿が残されている可能性もあるが、僕はあまり期待はしていない。少ないとは言え、読後の満足度からすれば十分だし、東日本大震災前日で終わったのも良いのではないか。原尞の小説はすべて、西新宿の「渡辺探偵事務所」に所属する探偵沢崎が主人公になっている。下の名は不明だし、なんで沢崎なのに渡辺探偵事務所なのかの真相もなかなか明かされない。
(『それまでの明日』)
 原の小説は完全にチャンドラー仕立ての「ハードボイルド」である。しかし、日本では私立探偵小説は書きにくい。警察以外の捜査は無理があるし、銃を持つ自由が日本にはない。都市の孤独は日本も同じだけど、殺人事件の数は少ないし、他を圧した大富豪もアメリカに比べると存在感が薄い。情緒てんめんたる湿っぽい日本では、「○回泣けます」みたいなコピーの映画がヒットしてしまう。感情を排して行動だけを叙述して、そこに都市空間の孤独を浮かび上がらせるというタイプの小説は選ばれにくい。

 原の小説世界は、なるほど「私立探偵」の出番だという設定が上手い。日本でも調査を頼まれる「探偵事務所」は数多いわけだが、それらは言ってみれば「民事利用」である。小説としての面白さとともに、謎解き小説としての完成度も果たす。そんな力業が原作品では見事に達成されている。それは「日本」社会に潜む「毒」を浮かび上がらせる試みでもあった。日本ハードボイルド史上最高の達成である。完成までの時間を考えると、僕はもう原作品は読めないんだろうと覚悟していた。だけど訃報の小ささにはガッカリした。実に素晴らしい作品を残してくれたことに感謝したい。
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畑正憲、片桐夕子、富岡多恵子、ハリー・ベラフォンテ他ー2023年4月の訃報

2023年05月06日 22時28分16秒 | 追悼
 2023年4月の訃報特集。4月には一面に載るような訃報がなく、ちょっと忘れていたような著名人の訃報が多かった。まずは「ムツゴロウ」の愛称で「動物王国」を作った畑正憲が4月5日に死去、87歳。80年代にはテレビに本当によく出ていて、誰もが知っている人だった。北海道・浜中町の島に「動物王国」を作り(やがて内陸の中標津町に移動)、そこでの生活を映したテレビ番組が大ヒットした。またエッセイ『ムツゴロウの○○』という著書を何十冊も書いていて、『ムツゴロウの青春記』など本当に面白い本だった。是非若い人に読み継がれて欲しい本だ。最初に書いた『われら動物みな兄弟』でエッセイストクラブ賞。1987年には知床原生林伐採計画反対運動の中心となり、東京で行われた集会で話を聞いた記憶がある。
(畑正憲)
 俳優の片桐夕子が2022年10月16日に亡くなっていた。70歳。日活ロマンポルノで曽根中生監督作品などに数多く出演し、曽根監督の特集上映などで話を聞いた。元気だったのに、こんな早い訃報に驚いた。日活がポルノ路線に転換したとき『女高生レポート 夕子の白い胸』で主演して、主人公の名前を芸名にした。明るい役柄でスターとなり、多くの作品に出演している。その時代の代表作は『㊙女郎市場』(1972)かなと思う。その後、一般映画にも出演した。村野鐵太郎監督『鬼の詩』(1975)での上方落語家の妻が代表作か。村野作品にはその後も『月山』『遠野物語』などに出演。テレビドラマにも多数出ていた。私生活では小沼勝監督と結婚、離婚、その後アメリカへ行ってアメリカ人と結婚、子どももいたが離婚とWikipediaに出ていた。
(片桐夕子)
 テレビドラマのディレクター、映画監督の生野慈朗(しょうの・じろう)が6日死去、73歳。TBSでドラマ演出を担当し、70年代後半以後の数多くの人気作品を演出した。『3年B組金八先生』『男女7人夏物語』『ずっとあなたが好きだった』『愛していると言ってくれ』『ビューティフルライフ』など伝説的作品を担当している(シリーズ全作品ではない)。映画監督としても『いこかもどろか』『秘密』などがあり、『いこかもどろか』の明石家さんま、大竹しのぶの軽快なやり取りは面白かった。
(生野慈朗)
 小説家、詩人、評論家の富岡多恵子が6日死去、87歳。大阪出身で、当初は詩人として出発し女性で初めてH氏賞を受賞した。70年代頃から小説が中心となり、『植物祭』(田村俊子賞)、『冥土の家族』(女流文学賞)、『波打つ土地』、『ひべるにあ島紀行』(野間文芸賞)などがあるが、実は一つも読んでない。また69年の篠田正浩監督『心中天網島』では脚本も担当(篠田、富岡、武満徹)し、篠田監督との電話が冒頭のシーンになっている。批評も多く書いたが、『中勘助の恋』(1993、読売文学賞)には本当に驚いた。他にも『釈迢空ノート』(2000、毎日出版文化賞)、『西鶴の感情』(2004、大佛次郎賞、伊藤整文学賞)などがある。上野千鶴子、小倉千加子との鼎談『男流文学論』(1992)はフェミニズム批評の傑作で大笑いして読んだものだ。
(富岡多恵子)
 英文学者で、鉄道ファンとしても知られた小池滋が4月13日に死去、91歳。本当に多くの著書、訳書があり、有名な人なのに訃報が小さかったのは長命で忘れられたか。ディケンズの研究者で、長すぎて訳されていなかった『荒涼館』『リトル・ドリット』などを翻訳した。シャーロック・ホームズ全集も訳している。1979年の『英国鉄道物語』は毎日出版文化賞を受けた。僕も何冊か新書を読んでるし、ちくま文庫4冊になる大作『荒涼館』も読んだ。達意の訳文で、エッセイもとても面白い人である。
(小池滋)
 評論家の海野弘が5日死去、83歳。80年代、90年代にヨーロッパの都市、世紀末芸術などを縦横に論じる本を多数著し、僕もかなり読んだ気がする。もともとは平凡社に入社して「太陽」編集長を務め、アール・ヌーヴォーの魅力にひかれて『アール・ヌーボーの世界 : モダン・アートの源泉』を刊行した。その後、次第にアール・デコを紹介するとともに、ファッション、文学、映画、江戸文化など非常に幅広く論じた。ものすごく多数の著書があったけどどのくらい生き残っているのだろうか。
(海野弘)
 ノンフィクション作家の川田文子が2日死去、79歳。元慰安婦を数多く取材したことで知られる。『赤瓦の家ー朝鮮から来た従軍慰安婦』『皇軍慰安所の女たち』など多くの著書がある。今年になって『女たちが語る歴史』上下(上=北海道・東北・上信越他篇、下=沖縄篇)を刊行した。歴史教育に関わる著書も多く、僕も何冊か読んできた。
(川田文子)
・元レスリング選手の渡辺長武(わたなべ・おさむ)が2022年10月に死去していた(死亡日は未公表)、81歳。64年東京五輪フリースタイル・フェザー級で金メダルを獲得。「アニマル」と呼ばれ、五輪でも全試合フォール勝ちした。
・元参議院議員、国家公安委員長の溝手顕正(みぞて・けんせい)が14日死去、80歳。自民党参院幹事長などを務めた有力議員だったが、2019年の参院選で落選した。自民党が広島選挙区に二人目の候補河井案里を擁立したあおりを受けた例の人。
・元日本IBM社長の椎名武雄が19日死去、93歳。米本社と異なる独自路線を取って売り上げ1兆円を87年に達成した。その成果を認められ、米本社副社長を89年~93年に務めた。退任後は経済同友会副会長など財界活動を行い、「ミスター外資」と呼ばれた。
・「ひめゆり平和祈念資料館」の館長を務めた木村つるが7日死去、87歳。戦後長く小学校教員を務め、退職後に資料館開設に向け活動した。2002年から10年まで館長。
竹山洋、脚本家。12日死去、76歳。テレビ、映画の脚本を多数手掛けた。テレビでは大河ドラマ『秀吉』『利家とまつ』など。映画では『四十七人の刺客』『ホタル』など。小説も書いている。
・歌舞伎役者の市川左団次(4代目)が15日死去、82歳。数々の敵役、老け役で知られた。様々なユーモラスなエピソードで知られたというけど、全然知らないからここでは省略。
松永有慶、高野山真言宗総本山金剛峯寺412世座主。16日死去、93歳。金剛峯寺座主を初めて2期8年務め、全日本仏教会会長も務めた。密教研究の第一人者で、岩波新書『高野山』『空海』などの一般書を含めて数多くの著書がある。
黒土始、第一交通創業者。17日死去、101歳。大分で5台から始めたタクシー会社を合併を繰り返して日本一のタクシー会社に発展させた。100歳になって代表取締役を退いた。
・陶芸家で人間国宝指定の加藤孝造が17日死去、美濃焼第二世代として荒川豊蔵を継ぎ活躍した。
・ボクシングのヨネクラジム元会長の米倉健司が20日死去、88歳。60年に東洋バンタム級王者となって5回防衛したが世界には届かなかった。引退後の63年にジムを創設して、柴田国明、ガッツ石松ら5人の世界王者を育てた。

 アメリカの歌手ハリー・ベラフォンテが25日死去、96歳。カリブ系移民の子としてニューヨークに生まれ、1956年の「バナナ・ボート」が世界的に大ヒットした。バナナを積み込む労働者の「デーオ」という掛け声が印象的で、日本でも浜村美智子らが歌ってヒットした。歌手として活躍すると同時に社会運動や慈善活動に熱心に取り組んだことでも知られる。キング牧師の熱心な支持者で公民権運動に積極的に関わった。また85年のアフリカ飢餓支援の「USAフォー・アフリカ」の提唱者でもあった。俳優としても多くの映画に出演している。
(ハリー・ベラフォンテ)
 イギリスのファッションデザイナー、マリー・クワントが13日死去、93歳。58年頃から「ミニスカート」をデザインし、60年代に世界的に大ブームとなった。高級注文服中心だったファッション界で、若者向けファッションを確立した。近年ドキュメンタリー映画が作られ、日本でも公開された。
(マリー・クワント)
ジョー・プライス、13日死去、93歳。江戸絵画のコレクターとして知られた。伊藤若冲、長沢蘆雪、曾我蕭白などの作品を多数収集し、「奇想の画家」として人気が出るきっかけを作った。日本でも21世紀になって知られるようになり、里帰り展も開かれた。コレクションの一部は出光美術館が購入している。
・最後に今回調べていて、日本では報道されていないけれど驚くべき訃報を見つけた。イギリスの女性ミステリー作家、アン・ペリーという人が4月10日に亡くなった。82歳。日本でも創元推理文庫から何冊か翻訳されているウィリアム・モンク・シリーズなど、ベストセラー作品を持つ人気作家だった。この人はピーター・ジャクソン監督が映画化した『乙女の祈り』というニュージーランドで1954年に起こった殺人事件の犯人だった。13歳の時に、15歳の親友とともにその親友の母親を殺害したのである。事件のきっかけは、二人の創作したファンタジー小説の中に有名俳優との妄想的な性的場面などがあり、驚いた親たちが二人を引き離そうとしたことだった。無期懲役の判決が出たが、二度と二人が会わないことを条件に5年後に釈放された。その後イギリスへ戻り(ロンドン生まれで、父がニュージーランドの大学学長に就任していた)、改名して作家となったという。
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扇千景、伊藤雅俊、三好達、大川隆法他ー2023年3月の訃報②

2023年04月05日 23時36分41秒 | 追悼
 2023年3月の政治、経済、スポーツ等の訃報をまとめて。世間的にも一番驚きだったのは大川隆法の訃報だろうが、一番最初に書くと記事を見るたび写真が出て来るので、一番最後に回したい。

 参議院議長を務めた元女優の扇千景が9日死去、89歳。1977年に自民党から参議院議員になって、扇千景の名前で活動した。もちろん芸名で、戸籍名は林寛子。もともとは宝塚の41期生で、早くから映画専科に移籍して、映画やテレビで活躍した。50年代の東宝映画を見ると時々出ている。『女の学校』というのはなかなか良かった。1957年に上方歌舞伎の中村扇雀と結婚したが、後の坂田藤十郎(2020年没)と参議院議長の夫婦になるなど、その時は誰も想像しなかっただろう。結婚後も芸能活動を続け、テレビ「三時のあなた」の司会者として知名度を高め、参院選立候補要請につながった。
(議長席の扇千景)
 参議院には5期当選しているが、1989年には落選した。リクルート事件、消費税で自民党が惨敗した選挙である。しかし、93年に繰り上げ当選した。もっとも翌94年に自社さ連立を否定し自民党を離党した。以後、新生党(小沢、羽田グループ)を皮切りに新進党、自由党と小沢一郎と行動をともにした。しかし、2000年に自由党が連立を離脱した時に、「保守党」を結成して連立に残留し党首になった。森内閣に建設大臣として入閣、省庁再編で初代の国土交通大臣となった。そして「保守新党」を経て、2003年に自民党に復党。2004年から2007年まで参議院議長を務めたわけである。強運の政治家だったと言えるだろう。
(結婚時の扇千景)
 セブン&アイ・ホールディングス名誉会長伊藤雅俊が10日死去、98歳。他の大流通グループ創業者に比べて、一般的知名度は低いかもしれない。しかし、この人がイトーヨーカドー、セブンイレブン、デニーズの設立者である。もともとは東京都足立区北千住の洋品店「羊華堂」である。漢字で書けることを知らない人が多い。この家業を1958年に「ヨーカ堂」という株式会社にしたわけである。その後、1974年にセブンイレブン1号店を豊洲に開店。現在はイトーヨーカドーよりもセブンイレブン中心になりつつある。戦後の流通業史上の重要人物だが、ダイエーの中内功のような知名度は持たなかった。だからセブン&アイが残っているのかもしれない。味の素会長も全くの同名で、年齢は離れているが同名のよしみで会食を開いていたという。
(伊藤雅俊)
 元最高裁長官三好達(みよし・とおる)が6日没、95歳。1992年に東京高裁長官から最高裁裁判官に就任、95年~97年に長官を務めた。最高裁判所長官は「三権の長」の一人で、今までにちょうど20人いる。しかし、総理大臣は何人も知ってるだろうけど、最高裁長官の名前はほとんど知らないだろう。その中でこの人は知られている方だが、それは退官後の2001年から15年まで「日本会議」の会長を務めたからである。日本会議と言えば、改憲を目指す右派組織である。そのトップに最高裁長官退任2年後に就く。退官後の2年間に憲法を勉強して「改憲論者」になったのだろうか。いや、裁判官時代も内心は改憲論者で、その立場で裁判をやっていた。そう考えて、最高裁判決に行政寄りが多い理由も判るというもんだ。
(三好達) 
 元外相、元衆議院憲法調査会長の中山太郎が15日死去、98歳。89~91年に海部内閣で外務大臣に就任した。参議院3期、衆議院で7期議員に当選した。母は日本初の女性閣僚(厚生相)を務めた中山マサ、弟は建設相を務めた中山正揮。臓器移植法案では中山は「脳死」を認める中山案をまとめた。一方、その時に反対案をまとめた金田誠一も10日に死去、75歳。社会党推薦の無所属で初当選、その後社会党、新党さきがけ、民主党に所属した。1997年の臓器移植法案採決では、初めて与野党ともに党議拘束をかけずに「中山案」「金田案」を採決し、中山案が可決された。
(中山太郎)(金田誠一)
・元建設事務次官で、退官後の2000年に日本道路公団総裁を務めた藤井治芳(はるほ)が18日死去、86歳。2003年に小泉政権の道路公団民営化に抵抗し、石原伸晃国交相から辞表提出を求められたが拒否して解任された。不当性を裁判所に訴えたが却下された。公団内ではワンマンぶりを現職幹部に内部告発され、政権側からは「民営化の敵」と批判された。

 スポーツ界では、ヘルシンキ五輪(1952年)の競泳男子1500メートルで銀メダルを獲得した橋爪四郎が9日死去、94歳。戦後直後に故古橋広之進が「フジヤマのトビウオ」と呼ばれる活躍をしたが、橋爪も「もうひとりのトビウオ」と呼ばれた。最盛期の48年ロンドン五輪に日本は出場できず、52年のヘルシンキでは古橋は体調不良だったが、橋爪が銀メダルだった。また56年のメルボルン五輪のレスリング・フェザー級で金メダルを獲得した笹原正三が6日死去、93歳。引退後に89年から2003年まで日本アマチュアレスリング協会会長を務めた。
(橋爪四郎)(笹原正三)
 外国では「走り高跳び」で68年メキシコ五輪で金メダルを獲得したディック・フォスベリーが12日死去した。76歳。それまで走り高跳びは「ベリーロール」(腹ばいで跳ぶ)が主流だったが、フォスベリーが初めて「背面跳び」で優勝したのである。これにはビックリしたもんだ。学校の授業でも高跳びがあったが、それ以後背面跳びをする生徒が出て来たのを覚えている。
(フォスベリー) 
インテル創業者ゴードン・ムーアが24日死去、94歳。1968年にインテルを創業し、79年から8年間最高経営責任者を務めた。「半導体の集積度は2年で倍増する」という「ムーアの法則」で知られるというが、僕にはよく判らない。

 「幸福の科学」創始者の大川隆法が2日死去した。66歳。本人はまだ死ぬとは思ってなかったとされ、没後の教団体制がどうなるのか、マスコミでも注目されている。まあ、僕には関係ないけど。1981年に東大法学部を卒業し、総合商社トーメンに入社した。そんなエリート・ビジネスマンが宗教に方向転換したのは、様々な「霊言」を聞いたからだとされる。そして1986年に「幸福の科学」を開設した。この「霊言」という言葉は一発変換できない。日本の宗教家だけでなく、シャカ、イエス、ムハンマド、孔子などの「霊言」を聞き自動筆記したと称するから、大胆不敵。イスラーム過激派に襲撃されなかったのは幸運だった。
(大川隆法)
 それどころか現存人物、小泉純一郎とか小池百合子などの「霊言」まである。本多勝一まであって、南京大虐殺はホントはなかったとか「霊」が語っているらしい。誰も訴えなかったのが不思議だが、法的に難しい問題があるのかもしれない。まあ信じるのも自由なのかもしれないが、少なくとも「霊言」を大学の学問にしようという目論見が実らなかったのは当然だろう。2004年に心筋梗塞で心停止したというが「復活」したらしい。今回は「復活」出来なかったけど。「幸福実現党」のことはもういいや。
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坂本龍一、黒田杏子、菅野昭正他ー2023年3月の訃報①

2023年04月04日 22時57分58秒 | 追悼
 2023年3月の訃報特集。3月は大江健三郎奈良岡朋子を別に書いた。そこで「文化」関係の訃報を先にまとめたい。4月になって坂本龍一の訃報が公表された。3月28日没、71歳。ガンを公表し闘病していたから、意外ではない。マスコミでは「音楽家」という肩書きになっている。普通は「作曲家」とか「ピアニスト」とか表わされる。そういう個々の活動を越えて様々な音楽活動を行ったということなんだろう。でもWikipediaではそういう書き方はしない。見てみると、「作曲家、編曲家、ピアニスト、俳優、音楽プロデューサー」と出ていた。まあ、そういうことになるんだろうけど、一番重大な活動は「作曲家」だろう。
(坂本龍一)
 この人の名前をはっきりと意識したのは、大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』(1983)への出演と音楽だったと思う。もっともこの映画でもっと印象的だったのは、ビートたけしを俳優として起用したことだ。この映画は3回見てても判った気にならない。だが坂本龍一の音楽が耳に残り続けるのは間違いない。その後の『ラスト・エンペラー』での米アカデミー作曲賞に結びつく意味でも重要だ。その後もずいぶん映画音楽を担当していて、ベルトルッチ監督の『シェルタリング・スカイ』が良かったと思う。6月公開の是枝裕和監督『怪物』が遺作になるという。
(『戦場のメリークリスマス』のヨノイ役)
 没後の報道を見て、ずいぶん多方面で活動してエピソードも豊富な人だと思った。父親は河出書房の名編集者だった坂本一亀(かずき)で、この人も伝説的な人である。都立新宿高校から芸大に進学した経歴も興味深い。芸大では民族音楽の大家・小泉文夫に大きな影響を受けた。晩年に反原発環境保護などに度々発言するようになった。高校時代に塩崎恭久(第一次安倍政権の官房長官)や馬場憲司らと校長室に乱入した過去があるというから、もともと気質的に運動好きなのかと思う。(馬場憲司という人を知らなかったので検索したところ、ホリプロで石川さゆりを担当して、後に結婚、一人娘がいると出ていた。)

 俳人の黒田杏子が13日に死去、84歳。僕は東京新聞で「平和の俳句」の選者をしてたことぐらいしか知らなかった。だから名前を「ももこ」と読むのも、訃報で知ったことだった。(普通「きょうこ」と読むことが多い。)学生時代に山口青邨に師事し、卒業後は博報堂に就職して「広告」編集長などを務めた。70年に青邨に再入門し、88年の青邨没後に俳誌「藍生」(あおい)を創刊して主宰。蛇笏賞、現代俳句大賞など数多くの賞を受けた。代表句「白葱のひかりの棒をいま刻む」など。
(黒田杏子)
 ところで東京新聞に夏井いつき師 黒田杏子を悼む」が掲載された。その書き出しが「皆さんは樺美智子さんを知っていますか」なのである。「ある句座で、師黒田杏子にこう問いかけられた。」何と夏井先生は樺美智子を思い出せなかったという。それには驚いたが、黒田杏子は1960年6月15日に国会を取り巻くデモ隊にいたのである。そして、以後長く毎年のように樺美智子を詠んだという。「選句してはるけし樺美智子の忌」。「樺美智子の忌」が季語だろう。誰だっていう人は自分で検索して欲しい。

 フランス文学者、文芸評論家で、東大名誉教授の菅野昭正(かんの・あきまさ)が9日に死去、93歳。『ステファヌ・マラルメ』(1988)で読売文学賞。東京新聞の文芸時評を1981年から2001年まで務め、『変容する文学の中で』3巻にまとめられた。また2007年から2021年まで世田谷文学館館長も務めた。多くのフランス文学の翻訳を手掛け、マラルメ全集編集の他、またバルザックなど古典から、クロード・シモンなど現代文学まで数多く紹介した。僕が印象的だったのは、ミラン・クンデラ不滅』(1992)。
(菅野昭正)
・評論家の芹沢俊介が22日死去、80歳。吉本隆明の影響の下で文筆活動を始め、教育、宗教などを深く論じた。1985年の『「イエスの方舟」論』は評判になり、僕も読んでいる。『子どもたちはなぜ暴力に走るのか』(1998)、『子どもたちの生と死』(1998)、『家族という暴力』など、少年犯罪、いじめ、引きこもりなどを考察した本は刺激的だった。
・評論家の小浜逸郎(こはま・いつお)も31日死去、75歳。学習塾をしながら評論活動を行い、『学校の現象学のために』(1985)など学校や家庭を論じた。『なぜ人を殺してはいけないのか 新しい倫理学のために』(2000)は議論を呼んだ。2008年に横浜市の教育委員になり、「つくる会」の中学歴史教科書採択を推進した。芹沢、小浜の二人は従来の「戦後左派」的な言論と一線を画し、「現象学」的方法で学校や家庭を論じた。その当時は新鮮に見えた部分もあったが、結局小浜などは右派的になった感がある。
・児童文化論の第一人者だった本田和子(ますこ)が2月12日に死去していた。92歳。お茶の水大学学長を務めた。1982年の『異文化としての子ども』が高く評価され、以後多数の児童論、特に少女文化論の著書がある。
(芹沢俊介)(小浜逸郎)(本田和子)
・俳人、編集者、文芸評論家の齋藤愼爾が28日死去、83歳。高校時代より秋元不死男に師事して句作を始め、1959年に氷海賞を受賞するも20年以上俳句から遠ざかった。その間に出版社「深夜叢書社」を設立し数多くの文芸書を刊行した。50歳を超える頃から句作を再開、また文筆活動も始め、『寂聴伝 良夜玲瓏』『ひばり伝 蒼穹流謫』『周五郎伝 虚空巡礼』などが評価された。
・1956年に思潮社を設立し、現代詩を数多く出版した小田久郎が2022年1月28日に死去していたことが公表された。90歳。1959年に雑誌「現代詩手帖」を創刊し、多くの詩人を世に送った。1995年に『戦後詩壇私史』で大佛次郎賞。

・科学者としては、惑星科学の第一人者、松井孝典(たかふみ)が22日死去、77歳。東大名誉教授、千葉工業大学学長。1986年に「ネイチャー」に掲載された海の誕生に関する「水惑星の理論」を発表した。石原慎太郎(都知事)の「ババア発言」(文明がもたらした最も悪しき有害なものはババア)のネタ元は松井と石原に言われたが、これは松井の「おばあさん仮説」(ヒトの女性が生殖可能年齢を超えて生存することで、「おばあさん」が集団の記憶装置となり文明が誕生した)を全く逆に誤解したものとされる。
(松井孝典)
・「レビー小体型認知症」を世界で初めて発見した小阪憲司が16日死去、83歳。アルツハイマー病とは異なる病状の認知症を発見し、76年にレビー小体型認知症を報告したことで知られている。
・陶芸家の今井政之が6日死去、92歳。「面象嵌」という手法を確立し、早くから日展で評価された。2003年に芸術院会員、2018年に文化勲章を受章。
(今井政之) 
 外国では、イスラエルの俳優トポルが8日死去、87歳。名前を言われても判らない人が多いと思うが、1971年の映画『屋根の上のバイオリン弾き』でテヴィエ役だった人である。アカデミー賞主演男優賞にノミネートされ、その後しばらくアメリカで活躍した。『フォロー・ミー』でミア・ファローの後を付ける私立探偵役は最高に素晴らしかった。
(トポル)
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女優奈良岡朋子の逝去を悼むー素晴らしかった『ドライビング・ミス・デイジー』

2023年03月30日 23時09分20秒 | 追悼
 劇団民藝の代表を務めていた女優の奈良岡朋子が3月23日に死去した。93歳。年齢が年齢だけに、そう遠くない時期に訃報を聞くことは避けられないと思っていた。最後の舞台になるかもしれないのだから、是非もう一回見たいと思っていた。そして、2020年の民藝のレパートリーに、奈良岡朋子の公演が入っていた。それは『想い出のチェーホフ』という作品である。これは絶対に見ようと思っていたのだが、コロナ禍で中止になってしまった。そうしてもう一度見ることが出来ないままになってしまった。

 奈良岡朋子は多くの舞台出演とともに、映画やテレビにもたくさん出ていた。だから、多分若い頃にテレビ番組で名前と顔を覚えたんだと思う。調べてみると、東芝日曜劇場に多く出演しているし、大河ドラマや連続テレビ小説にも出ていた。『おしん』のナレーションをやっていたのは、この人だった。映画では東京新聞に黒澤明監督の『どですかでん』、木下恵介監督の『父よ!母よ!』、山田洋次監督の『息子』の名が挙っている。全部見てるけど、奈良岡朋子が出ていたのは記憶にない。こういう巨匠作品だと、脇役的出演が多かった奈良岡朋子は記憶されないのである。

 舞台も幾つかは見ているが、正直言ってすぐには名前が浮かんでこない。自分でブログを検索してみたら、『カミサマの恋』『静かな落日』『「仕事クラブ」の女優たち』を見ていた。そうかと我ながら忘れているのに驚く。もちろん、それらも素晴らしかったと思うけれど、何より素晴らしかったのは『ドライビング・ミス・デイジー』だった。ここではその話を書いておきたい。
(『ドライビング・ミス・デイジー』)
 この芝居は二人しか出て来ない。奈良岡朋子仲代達矢である。奈良岡朋子は民藝だし、仲代達矢は俳優座。その後、自分で無名塾を開いたから、この日本を代表する二人の名優は舞台で共演したことがなかった。そこで是非共演を見たいという声があって、この企画が実現したということだった。2005年のことである。元はアメリカでピュリッツァー賞を受けた名作戯曲である。映画化され、1989年度のアカデミー賞作品賞を受け、主演のジェシカ・タンディも80歳でアカデミー賞主演女優賞を受けた。もう一人の運転手役はモーガン・フリーマンだった。

 1940年代から70年代にかけてのアメリカ南部の話である。人種差別が激しかった時代から、公民権運動の時代へ。激動の時代を、あるユダヤ系元教師の老女性とその運転手を務める黒人男性の二人に絞って描いていく。良く出来ている。もちろん映画は当時見て、まあ名作だなと思った。「まあ」というのは、要するにこういう展開になるだろうなという予測に沿って進行する構造が気になるのである。それを日本でやったって、筋書きは知ってるし、仲代達矢が黒人役なの? という感じで、僕は最初は見なくてもいいかなと思っていた。仕事は忙しいし、見たいものは多いんだから。

 上演されたら評判がとても良かった。東京でも時々何回か上演され、ついにこれが最後という公演が予告され、やっぱり見ておこうかなと思った。仲代達矢や奈良岡朋子もいつまで元気というわけじゃないだろうし。今まで何回も見ておきたい舞台を逃してきた。これは見ておこうかという感じである。僕は予定調和的な原作があまり好きではなかった。そんなに期待していなかったのである。だけど、素晴らしい舞台だった。時代と民族を越えて、まさに「ミス・デイジー」がそこにいた。良心的でありたいと思いつつ、人種の壁をなかなか越えられずに、次第に老いてゆく老女性。奈良岡朋子の「神技」を見た気がした。

 そして終わった後で、何とスタンディング・オベーションが起きた。コンサートならともかく、静かに見ている「新劇」系の演劇でスタンディング・オベーションが起きるのか。その後も一度も見たことがない。(去年、ミュージカルの『ラ・マンチャの男』で経験したけれど。)未だに思い出すと、素晴らしいものを見た重いが蘇る。他にも井伏鱒二の『黒い雨』の朗読を長く続けたこと。宇野重吉、滝沢修亡き後、大滝秀治とともに民藝を支えてきたこと。文学座の杉村春子を尊敬していたこと。書くべきことはいっぱいあるけど、それはもういいだろう。なお、劇団民藝のホームページを見ると、4月5日までの期間限定で「ある女優・奈良岡朋子」という映像を劇団民藝YouTubeチャンネルで公開していると告知されている。(https://youtu.be/DPERsCEFHmM)
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「国家」を相対化する生き方ー追悼・大江健三郎②

2023年03月18日 23時20分39秒 | 追悼
 大江健三郎の文学に関する追悼を書いたけれど、書き足りない思いが残るのでもう少し書きたい。大江健三郎はある時点まで「新進作家」として注目され、そのうち大成してノーベル文学賞を取るまでになった。しかし、その頃には難解な作家とみなされ、むしろ社会的発言をする「進歩的文化人」として知られるようになっていたように思う。近年になっても元気な間は原発反対運動などに奔走して、集会やデモにも積極的に参加していた。

 そのような生き方を全体としてどのように評価するべきだろうか。今振り返っておけば、大江健三郎は作家生活の早い頃から、ずっと政治的な課題と向き合って生きてきた。戦後の作家はまず「戦争体験」という空前絶後の体験から出発した人が多い。大岡昇平野間宏などは、その壮絶な戦場体験、軍隊体験などと向き合うことから「作家」となったのだった。しかし、戦後10数年して若手作家となった世代(大江や石原慎太郎など)は、子ども時代に戦争を体験したとはいえ、軍に従軍したわけではない。今ではほぼ全国民がそうだけど、50年代末には彼らが「新世代」だったのである。

 1958年に岸信介内閣が「警察官職務執行法」の「改正」を目論んだとき、野党(社会党)、労働組合を中心にした大きな反対運動が起こった。その時彼ら新世代の「若き文化人」は「若い日本の会」を結成して反対を表明した。ウィキペディアを見ると、この会は石原慎太郎谷川俊太郎永六輔らが中心だった。参加者には大江の他、開高健寺山修司武満徹など幅広い顔ぶれが集まっていた。そして注目されるのは、石原の他、浅利慶太江藤淳黛敏郎など後に保守派として知られる人々も参加していた。

 そのことは前にも書いたが、50年代末には石原慎太郎と大江健三郎は政治的に同じ位置にいたのである。それがどうして、同時代人なら誰しもが知るように、全く正反対の立場になったのだろうか。石原慎太郎は現実に妥協して単なる保守派になったのではない。「保守」の枠組の中でも最右翼になって、日本という国家を強大にするべく憲法改正や核武装を主張するまでになった。一方、大江健三郎は晩年になって「九条の会」結成の呼びかけ人となり、あくまでも護憲派として終始した。

 この違いはどこから来たのか。それぞれの個性もあるだろうが、「国家観の違い」が最大の理由じゃないかと思う。この世代は幼いときは「少国民」と呼ばれ、「鬼畜米英」と戦って天皇のために命を捧げるように教えられて育った。ところが一端戦争に敗れると、上の世代は昔から戦争に反対だったかのように振る舞い、「民主主義」を唱えたのである。この「裏切り」にどう対処したか。大江健三郎の『遅れてきた青年』では、あくまでも敗戦を認めずに戦い続けようとする少年が描かれている。

 それは小説の設定だが、現実に「国(あるいは天皇)に裏切られた」という呪いのような感情は戦後日本の精神史に伏流として流れ続けてきた。このような感情は戦後社会の中でどのように処理されたのだろうか。例えば、戦争に負けたのはアメリカと戦ったからで、今度はアメリカに付くんだという立場もある。一方で、戦争を起こした軍部・右翼ではなく、「正しい考え」の持ち主が指導する日本を作るんだという立場もある。前者が自民党政権のホンネなら、後者が社会党や共産党支持者の考え方だろう。

 では大江健三郎の思想はどのようなものだろうか。それは「国家」というものは間違うものであり、人々が監視していかないといけないというものではないか。その国家は日本だけでなく、アメリカや旧ソ連、中国なども同じである。「正しい勢力」が権力を持てば正しい国家に成ると思うのなら、大江はその党のために支援をしただろう。戦後の「進歩的文化人」の中には、選挙で革新政党を支援した人も多い。国政はともかく、一時は全国に多かった「革新自治体」(その多くでは社会党、共産党の「共闘」が行われた)を支持する運動には多くの文化人が関わった。しかし、大江は選挙の応援には関わって来なかったと思う。

 大江健三郎においては、「国家」はいつも何か別の視点によって「相対化」されていると感じる。特に中期において展開された「四国の森」の喚起力は圧倒的だ。江戸時代の藩権力や近代の天皇制国家に表面的には従いつつも、もう一つの神話的世界が存在したという「オルタナティヴな歴史」を提示する。それは60年代、70年代に深化した民衆史や民族学、神話学などの成果と共通性もあった。それが実証的にどこまで現実に即していたのか、あるいは大江健三郎の想像力の産物なのかは、今の時点では見極めが難しい。
(1960年の初めて広島訪問)
 大江健三郎は社会的発言を行ったイメージが強いかもしれないが、どんなテーマにも発言したわけではない。例えば、60年代に文壇でも大きな問題だった冤罪・松川事件の救援運動の先頭には立たない。65年に結成された「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)にも関わっていない。大きな理由としては、長男に障がい児が生まれたことによって、家庭外の活動に制約が出来たことがあるだろう。実際に関係者に会って関わりを持った「広島」や「沖縄」、そして戦争否定の象徴としての「憲法9条」護持、核兵器反対から続く「原発反対」などに限って注力したのだと思う。
 
 そのような大江健三郎の「国家」(日本においては天皇制国家)に呑み込まれない生き方は、ノーベル賞受賞直後の文化勲章拒否に見事に示されている。そのような国家への向い方は広島との関わりから生まれた「核時代」という時代認識につながっている。核兵器が全人類の頭上にある世界で、一つの国家の「国益」というものは相対的なものでしかない。そのような核時代にどのように抵抗出来るのか。それこそが大江文学の目指すものだったと思う。僕もそのような大江健三郎の生き方には大きな影響を受けてきた。

 先に読み直して感じたところでは、残された論点として「60年代と朝鮮」があると思う。『われらの時代』『遅れてきた青年』『叫び声』『万延元年のフットボール』と続く作品群では、作中で在日コリアンが大きな意味を持っている。実際に愛媛県にどの程度の朝鮮人が徴用(強制連行)されたのか確認していないが、実証的な検討が必要だろう。同時代では60年代の大島渚監督の映画にも、朝鮮人が出て来ることが多かった。比較検討されるべき論点だろう。
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