「産業革命」とは、そもそも何だろうか? 英語では、“Industrial Revolution”である。もともと18世紀から19世紀にかけてイギリスで起こったものだから、英語を知っておくのも大切だ。アメリカ独立やフランス革命などの「市民革命」とともに、人類史をそれ以前と以後に画するような重大な出来事だった。内容を簡単に言えば、大量生産を可能にする工場制機械工業や動力革命による工業、交通の大変革である。そこから起こった社会的な変動全体を指すこともある。
(イギリスの産業革命)
歴史の教科書にはおよそ二つの分野のことが書いてある。一つは紡績業における織機、紡績機の改良である。ジョン・ケイの「飛び杼(ひ)」の発明、ハーグリーヴスの「ジェニー紡績機」の発明からアークライト、クロンプトンときて、1785年にカートライトによる蒸気機関による力織機の発明で一段落する。紡績業の生産性は格段に上昇したが、紡績業自体をよく知らないから説明は難しい。生徒の多くも、そもそも「紡績」と言われても死語だし、原料の「綿花」も知らない。そっちの説明が先である。
もう一つが動力の革命で、ジェームズ・ワットによる1785年の「蒸気機関の改良」である。(改良であって、発明ではない。)この「ワット」という人名は必ず覚えておくべき人名だ。火力発電や原子力発電さえ、基本的には「蒸気機関」なんだから。19世紀になって、フルトンの蒸気船の実用化、スティーヴンソンによる蒸気機関車の改良も起こる。その輸送力のアップは驚くべき社会変化をもたらした。このように、産業革命はどの国でも、軽工業(特にせんい工業)が先行して起こり、続いて交通機関の革命が起き、重工業の発展が起きる。
「常識」の説明は前置き。今回の「明治日本の産業革命遺産」を見ると、この産業革命の常識からすると、非常に不思議な構成になっている。韮山反射炉、萩反射炉、鹿児島の集成館、佐賀の海軍所跡などは、いずれも幕末の対外的危機感を背景に、「開明的藩主」(あるいは「開明的幕臣」)が海防力を高める目的で作ったものだ。大規模な工場ともいえず、動力革命が起きたとも言えない。アヘン戦争(清国敗北)、ペリー来航という衝撃を受けて、大砲を自国で鋳造するため鉄を製錬する施設である。韮山反射炉は実際に大砲を鋳造したから、なかなか立派なものである。だけど、これらは江川英龍、島津斉彬、鍋島直正などのリーダーシップで作られた「上からの国防強化策」であって、その地域は特に工業地帯として発展していない。そもそも「産業革命遺産」とは呼べないのである。
明治維新以後、政府の殖産興業政策で工業が発展した。日本でも軽工業、特に製糸業、紡績業の発展から始まった。軽工業の産業革命は1890年代、重工業の産業革命は1900年代以降に起こったというのが通説だ。今回の登録は重工業に特化しているが、それも疑問がある。明治時代の日本は日清、日露戦争を戦い、勝利し、植民地を獲得し、アジアでただ一国「帝国主義国」となった。評価はともかく、「世界史的事件」であることは間違いない。だが、この段階では日本は戦艦を自分で作れる国ではなかった。「日本海大海戦」で東郷平八郎が乗っていた旗艦「三笠」は横須賀市に保存・公開されているが、イギリスで製造されたものである。
貧しかった日本がどうして、何隻もの戦艦を持てたのか。それは「絹を売って軍艦を買う」とまで言われた製糸業あってこそである。「明治日本の産業革命」と言うなら、製糸業抜きに語れない。そうしてみると、2014年にすでに登録された「富岡製糸場」こそ、本来の「産業革命遺産」だったのである。ワットやスティーヴンソンに並ぶ発明家は日本にはいなかった。欧米で発展した技術を政府主導で(官営工場やお雇い外国人を通して)受け入れ、財閥に払下げて工業化を進めたからだ。第一次世界大戦をきっかけに、日本の工業は発展し、農業生産頼より工業生産額の方が上回った。
第二次世界大戦時に作られた「戦艦武蔵」は今回候補にある三菱重工業長崎造船所で作られた。あるいは「ゼロ戦」も三菱重工で作られた。それらを自国で作れるようになったのだから、すごいには違いない。だけど、「1850年から1910年」で切ってしまったら、日本の重工業の産業革命の全体像が見えなくなる。少なくとも大正時代まで含めないといけない。そもそも「産業革命遺産」は残りにくい。工場はどんどん機械が入れ替えられていく。歴史的価値があるからと言って、創業当初のまま保存しておくような会社はない。さらに戦災、震災があって、昔のままの工場はほとんど残っていない。残りやすいのは、企業経営者がたてた大規模な洋館とか、従業員慰安のために作った施設である。
秋田県小坂町の劇場「康楽館」とか、長野県諏訪市の温泉施設「片倉館」などは世界遺産レベルではないか。日本の資本主義発展史を考えると、三菱、三井は含まれているが、渋沢栄一関連の資産がないのも問題。1901年に作られた官営八幡製鉄所は、その後北九州工業地帯として発展していくから、重工業の産業革命に欠かせない。だが、そこもなかなか厳しい道のりを経て、明治末から大正、昭和と発展していった。明治期だけ取り上げて「世界遺産」と言えるわけではない。
(官営八幡製鉄所旧本館事務所)
今回の「産業革命遺産」を政府は「1850年から1910年」として構成している。それは完全にフィクションであって、間違った歴史認識を日本人に与えてしまうのではないか。工業化、産業化は必ず「負の側面」を持つはずである。日本に限らず、どの国の工業化においても、負の側面を持っていた。近隣諸国から戦時下の事を突き付けられたから、という問題ではない。自国の歴史を振り返れば、富国強兵、殖産興業の裏で苦しんできた民衆の姿が浮かび上がる。そして、そこも含んでこそ、「今、アジアで最初に近代化をなしとげた」世界史的な意味が明らかになるはずだ。
(イギリスの産業革命)
歴史の教科書にはおよそ二つの分野のことが書いてある。一つは紡績業における織機、紡績機の改良である。ジョン・ケイの「飛び杼(ひ)」の発明、ハーグリーヴスの「ジェニー紡績機」の発明からアークライト、クロンプトンときて、1785年にカートライトによる蒸気機関による力織機の発明で一段落する。紡績業の生産性は格段に上昇したが、紡績業自体をよく知らないから説明は難しい。生徒の多くも、そもそも「紡績」と言われても死語だし、原料の「綿花」も知らない。そっちの説明が先である。
もう一つが動力の革命で、ジェームズ・ワットによる1785年の「蒸気機関の改良」である。(改良であって、発明ではない。)この「ワット」という人名は必ず覚えておくべき人名だ。火力発電や原子力発電さえ、基本的には「蒸気機関」なんだから。19世紀になって、フルトンの蒸気船の実用化、スティーヴンソンによる蒸気機関車の改良も起こる。その輸送力のアップは驚くべき社会変化をもたらした。このように、産業革命はどの国でも、軽工業(特にせんい工業)が先行して起こり、続いて交通機関の革命が起き、重工業の発展が起きる。
「常識」の説明は前置き。今回の「明治日本の産業革命遺産」を見ると、この産業革命の常識からすると、非常に不思議な構成になっている。韮山反射炉、萩反射炉、鹿児島の集成館、佐賀の海軍所跡などは、いずれも幕末の対外的危機感を背景に、「開明的藩主」(あるいは「開明的幕臣」)が海防力を高める目的で作ったものだ。大規模な工場ともいえず、動力革命が起きたとも言えない。アヘン戦争(清国敗北)、ペリー来航という衝撃を受けて、大砲を自国で鋳造するため鉄を製錬する施設である。韮山反射炉は実際に大砲を鋳造したから、なかなか立派なものである。だけど、これらは江川英龍、島津斉彬、鍋島直正などのリーダーシップで作られた「上からの国防強化策」であって、その地域は特に工業地帯として発展していない。そもそも「産業革命遺産」とは呼べないのである。
明治維新以後、政府の殖産興業政策で工業が発展した。日本でも軽工業、特に製糸業、紡績業の発展から始まった。軽工業の産業革命は1890年代、重工業の産業革命は1900年代以降に起こったというのが通説だ。今回の登録は重工業に特化しているが、それも疑問がある。明治時代の日本は日清、日露戦争を戦い、勝利し、植民地を獲得し、アジアでただ一国「帝国主義国」となった。評価はともかく、「世界史的事件」であることは間違いない。だが、この段階では日本は戦艦を自分で作れる国ではなかった。「日本海大海戦」で東郷平八郎が乗っていた旗艦「三笠」は横須賀市に保存・公開されているが、イギリスで製造されたものである。
貧しかった日本がどうして、何隻もの戦艦を持てたのか。それは「絹を売って軍艦を買う」とまで言われた製糸業あってこそである。「明治日本の産業革命」と言うなら、製糸業抜きに語れない。そうしてみると、2014年にすでに登録された「富岡製糸場」こそ、本来の「産業革命遺産」だったのである。ワットやスティーヴンソンに並ぶ発明家は日本にはいなかった。欧米で発展した技術を政府主導で(官営工場やお雇い外国人を通して)受け入れ、財閥に払下げて工業化を進めたからだ。第一次世界大戦をきっかけに、日本の工業は発展し、農業生産頼より工業生産額の方が上回った。
第二次世界大戦時に作られた「戦艦武蔵」は今回候補にある三菱重工業長崎造船所で作られた。あるいは「ゼロ戦」も三菱重工で作られた。それらを自国で作れるようになったのだから、すごいには違いない。だけど、「1850年から1910年」で切ってしまったら、日本の重工業の産業革命の全体像が見えなくなる。少なくとも大正時代まで含めないといけない。そもそも「産業革命遺産」は残りにくい。工場はどんどん機械が入れ替えられていく。歴史的価値があるからと言って、創業当初のまま保存しておくような会社はない。さらに戦災、震災があって、昔のままの工場はほとんど残っていない。残りやすいのは、企業経営者がたてた大規模な洋館とか、従業員慰安のために作った施設である。
秋田県小坂町の劇場「康楽館」とか、長野県諏訪市の温泉施設「片倉館」などは世界遺産レベルではないか。日本の資本主義発展史を考えると、三菱、三井は含まれているが、渋沢栄一関連の資産がないのも問題。1901年に作られた官営八幡製鉄所は、その後北九州工業地帯として発展していくから、重工業の産業革命に欠かせない。だが、そこもなかなか厳しい道のりを経て、明治末から大正、昭和と発展していった。明治期だけ取り上げて「世界遺産」と言えるわけではない。
(官営八幡製鉄所旧本館事務所)
今回の「産業革命遺産」を政府は「1850年から1910年」として構成している。それは完全にフィクションであって、間違った歴史認識を日本人に与えてしまうのではないか。工業化、産業化は必ず「負の側面」を持つはずである。日本に限らず、どの国の工業化においても、負の側面を持っていた。近隣諸国から戦時下の事を突き付けられたから、という問題ではない。自国の歴史を振り返れば、富国強兵、殖産興業の裏で苦しんできた民衆の姿が浮かび上がる。そして、そこも含んでこそ、「今、アジアで最初に近代化をなしとげた」世界史的な意味が明らかになるはずだ。