尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

第3次ベビーブームは起きなかったー「現在史」の起点1995年③

2025年01月03日 22時14分18秒 | 社会(世の中の出来事)

 「1995年」を「現在史」の起点と考えて、今の日本を理解しようというシリーズ。基本的には「1995年に起こったこと」を基にするわけだが、ここで一回「1995年前後に起こらなかったこと」を取り上げたい。それは「ベビーブーム」「第二次ベビーブーム」に続く「第三次ベビーブームは起きなかった」という厳然たる事実である。それは以下に示す1960年から2023年までの出生数推移グラフを見れば一目瞭然である。それはなぜだったのだろうか。

(出生数)

 戦争が終わって兵士たちが長い戦争から帰還してきて、1947年から空前のベビーブームが始まった。その年が267万9千、翌48年が268万2千、49年が269万7千と最高を記録し、以後233万8千、218万8千、200万5千と1952年まで年間200万を超えていた。これは第二次大戦を経験した諸国に共通した現象だったが、日本では後になって「団塊の世代」と呼ばれるようになった。その後、漸減するけれど150万~170万程度で推移し、有名な1966年の「ひのえうま」の136万1千を例外として、翌年から再び増えていく。そして、1971年から74年まで4年連続で200万を超える出生数があり「第二次ベビーブーム」と呼ばれた。

(平均初婚年齢の推移)

 当時の平均初婚年齢を調べてみると、女性の場合は23、4歳だった。1947年生まれの女性は、1971年に24歳となる。平均だからもっと早い人も遅い人もいるわけだが、第一次ベビーブーム世代が結婚する時期を迎えて、出生数も増えたわけである。(なお、この頃に生まれた子どもたちは、1980年代半ば以後中学、高校に進学する時期を迎える。その時期に教師をしていたので、進路決定や学級増などの対応が大変だったことをよく覚えている。)1971年生まれの女性は1995年に24歳となる。当時の平均初婚年齢は26歳ほどだが、早く結婚する人もいるわけだから1995年ぐらいから出生数が増加に転じてもおかしくない

(婚姻数)

 そして実際に1994年は前年よりも出生数が多かった。しかし、上記グラフを見れば判るように、その後減る一方だったのである。婚姻数を調べてみれば、90年代前半にやはり増えているのである。出生数と婚姻数のグラフを見比べて見れば、よく判るだろう。出生数はほぼなだらかに減り続けているのに対し、婚姻数は一端増加する時期があった後で減少に転じている。それは何故だったのだろうか。よく言われたのは「女性の高学歴化」「女性の結婚年齢の上昇」ということで、高卒で就職していた女性も4年制大学や専門学校に進学する人が増えた。社会に出る年齢が高くなるに連れ、結婚・出産も遅れ気味になったので、「第三次ベビーブーム」は少し遅れてやってくるという観測も多かった。だけど結局それは起こらなかったのである。

 そこで「バブル崩壊」「就職氷河期」に直面下世代だったということが指摘された。1986年に「労働者派遣法」が成立して、派遣労働者が増えた。当時の家族意識は、子どもは2人(あるいは1人か3人)、出来れば大学に進学させたい、家の祭祀継続のため男子をどうしても望むという人は少なくなっていた。だから、それなりの安定した収入がなければ子どもを持つことをためらう意識が強くなっていただろう。それでも、ベビーブーム世代は安定した職に就いていたから結婚したわけではない。むしろ安定した職にない人でも、かえって周囲が面倒を見て結婚したケースが多いのではないか。

(コンビニ店数の推移1983~2008)

 その頃高度成長が一段落して、「日本的」な生活様式が整備されていく。「一人でも生きていける社会インフラ」が成立したことが大きいのかも知れない。「コンビニ」はその象徴である。60年代から70年代に「電化社会」が完成して冷蔵庫洗濯機がどの家庭にもあるようになった。もし冷蔵、冷凍製品を家で保管出来なければ、「一人暮らし」はとても大変だったはずだ。そして80年代以後にコンビニが増加する。一人でも十分暮らしていけるのだから、結婚や出産は「もっと理想的な出会い」のために待てるようになった。シングルの人生というのは決して珍しいものではなくなったし、不幸せを意味するものではなくなった。

(今後の人口予測)

 「一人でも生きていける社会」の成立は、社会の進歩であって元に戻せるものではない。社会を維持する人口確保という意味での「少子化対策」の時期はもう通り過ぎたと思う。もはや人口増加社会はやって来ないので、何らかの対策を取れば人口が増加するというような幻想は持つべきではない。むしろ「いまを生きる人々がもっと幸せになれる社会システムの構築」という意味で、「結婚の多様化」を進めていくべきだと思う。「夫婦別姓」や「同性婚」は当然だが、相続などに関わらない「相互扶助システム」を作っていく必要がある。厚労省による人口予測(上記グラフ)を越えて出生数減少が進んでいるのだから。

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「大地動乱の時代」始まるー「現在史」の起点1995年②

2025年01月02日 22時22分25秒 | 社会(世の中の出来事)

 「1995年」はどういう年だったか。最も重大なものは「大地動乱の時代」が始まったことだと思う。1995年1月17日午前5時46分、淡路島北方の明石海峡を震源とする大地震が起きた。気象庁は「兵庫県南部地震」と命名したが、一般的には阪神・淡路大震災として知られている。犠牲者は6434人にのぼり戦後最悪(当時)の大被害を出した。2025年に地震発生30年を迎えるので、様々な振り返りが行われると思う。だから、ここで震災被害のことは細かく書かないことにする。

(倒壊したマンション)

 震災当時、東京ではなかなか情報がつかめなかった。これほど大きな被害になっているとは想像出来なかったのである。1948年の福井地震をきっかけにして1949年に「震度7」という揺れの基準が作られた。しかし、以後50年近く一度も震度7が適用された地震はなかった。ところが、その後2004年の新潟県中越地震、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震(2度)、2018年の北海道胆振東部地震、2024年の能登半島地震と、この30年間に7度も震度7を記録しているのである。

 これはまさに「異常」というべき事態ではないのか。人間世界の感覚からすれば非常に長い時間をかけて動いていくのが地球の地質年代だろう。それなのに一人の人間が生きている間にこれほど大地震が起こるものなのか。ところが、このような大地震発生を警告した本がある。それが地震学者石橋克彦氏(1944~、当時建設省建築研究所)による『大地動乱の時代ー地震学者の警告』(岩波新書、1994)である。当時読んで、そんなことがあるのかと思ったけど、まさに翌年大震災が起きた。

(『大地動乱の時代』)

 僕は当時神戸に行って震災を見た思い出がある。2月初めの連休(建国記念の日が土曜日だった。当時土曜はまだ学校の授業があった)を利用して行ったのである。少しボランティアをしても良かったんだけど、行った段階ではもう人手も足りていたので日帰りで帰ってきた。前から関わってきたFIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会が灘区の避難所でボランティアを始めていて、そこに卒業生も行ってたので顔を出しに行ったわけである。当時生徒文集に書いた記録があるので読み返してみた。

 新大阪止まりの新幹線、普通電車で住吉まで。そこから代替バスに乗り換え。そういう風に行ったと出ている。尼崎あたりはまだ屋根のビニールシートが目立つ程度だが、次第に倒壊した建物が多くなる。それも全部じゃなくて、古い家などが倒壊しているのに、隣の新築マンションはちゃんと建っている。町のあちこちにピサの斜塔みたいなビルがある。実に不思議というか、異世界に紛れ込んだような感覚。避難所は養護学校だったので、キレイな教室が並んでいて、駅にも近く「もう物は持ってこないで」と告知していた。ボランティアも子どもやお年寄りの相手が中心だった感じ。時期的に一番大変な時期は過ぎていたと思った。

(水道蛇口のレバーも変わった?)

 阪神淡路大震災は当時非常に大きな衝撃を与えた。今になると東日本大震災という大災害に記憶が「上書き」された感もあるが、当時は経験のない大災害だったのである。よく「水道蛇口のレバー」が上に上げると水が出る方式になったのは阪神淡路大震災がきっかけと言われている。テレビ番組で池上彰氏もそう解説していたが、調べてみるとそう簡単なものではないようだ。それ以前から議論されていて、欧米の方式に統一したというのが正しいらしい。ただ当時の議論の中で、震災時に物が落ちて蛇口が出っぱなしになった事例もあったとも言われている。わが家など未だに混在していて、うっかり間違ってしまう。

 ところで、石橋克彦氏は1997年10月号の雑誌「科学」に「原発震災―破滅を避けるために」という論文を発表した。大地震によって原発メルトダウンが起き、震災被害と放射能汚染が複合的に絡み合う災害を「原発震災」と名付けて警告したのである。そして何と14年後に石橋氏の警告はまたしても的中したのである。学問的予知能力に驚くしかない。2024年1月1日に発生した能登半島地震では、実は動いた断層のほぼ直下に「珠洲原発」を建設する計画があったのである。長い反対運動があり最終的に2003年に計画は凍結されたが、下の地図を見れば判るようにまさに恐るべき事態になっていた可能性がある。

(珠洲原発予定地)

 このような「大地動乱の時代」に原発の新増設を主張し、首相官邸に石破首相を訪ねて(2024年11月27日)「原発新増設」を求める要望書を提出したのが国民民主党である。僕はこの政策はまったく支持できないが、最近国民民主党の支持率が上昇しているのは国民の多くもまた原発新増設に賛成なんだろうか。それともあまり知らずに「手取りを増やす」ことに賛同しているのか。ところで、石橋氏は次に『リニア中央新幹線と南海トラフ巨大地震 「超広域大震災」にどう備えるか』(2021,集英社新書)を書き、リニア新幹線に警鐘を鳴らしている。(リニア新幹線建設は中止すべきである参照)「二度あることは…」にならないか。

(石破首相に原発新増設を要望する国民民主党)

 最後に紹介だけしておくが、Wikipediaの阪神・淡路大震災に関する文学の項を見ても、神戸在住だった詩人安水稔和(やすみず・としかず)氏が出ていない。もし図書館に入っていれば、今年の機会に是非探して読んでみて欲しい。またどこかの文庫に是非収録して欲しいと思っている。(神戸の詩人、安水稔和の逝去を悼む

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「男はつらいよ」が終わり、野茂はメジャーで活躍したー「現在史」の起点1995年①

2025年01月01日 22時34分24秒 | 社会(世の中の出来事)

 2025年という年は、1995年から30年であり「昭和100年」に当たる。1995年は当時を生きていた人にとって、驚天動地の出来事が相次いだ「災厄の年」だった。日本で生きていた人には、1995年(とその周囲の数年)が時代の変わり目だったことが実感出来るはずだ。「1995年」を我々が今生きている「現在」の起点として考え、その意味を数回にわたって考えてみたい。

 かつて社会学者の見田宗介氏は「戦後日本」を3期に分けて、「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」と呼んだ。(生と死と愛と孤独の社会学参照。)第1期と第2期の境目は1960年頃で、高度成長時代が始まった。第2期と第三期の境目が1970年代前半で、高度成長時代が終わった。それ以後が「虚構の時代」だが、それも1995年頃に終わったと思う。「犯罪」を指標にすれば、「連合赤軍事件」と「オウム真理教事件」があり、多くの人の実感に合うだろう。

時代区分」というものは、今まさに歴史の現場で生きている我々にはなかなかつかめない。政治経済の場合は、一応はっきりとした指標がつかみやすいが、社会全般や文化などはゆっくりと変わっていく。それでも1990年代後半から21世紀に掛けて、携帯電話インターネットが一般的になった。「Windows95」が発売された1995年が指標の年となるだろう。

 政治では1993年細川護熙内閣が誕生したときから、政党の組み合わせは変わったとしても「連立内閣」が常態となった。現在も自民党と公明党の連立である。1995年は前年の1994年に成立した村山富市内閣だった。社会党、新党さきがけが擁立した村山社会党委員長に、当時野党だった自民党が相乗りした変則的な連立である。1995年は「戦後50年」に当たり、「村山談話」が出されたのは非常に象徴的だった。しかし、この社会党首相の誕生は「社会党(的なもの)の消滅」をもたらした。

 自社さ連立政権は、1995年の統一地方選で思わぬ結果をもたらす。国政主要政党が相乗りした候補を擁立したため、それに反発した「タレント候補」が出馬したのである。1968年の参院選全国区で当選して元祖タレント候補と呼ばれていた青島幸男が東京都知事、横山ノックが大阪府知事に当選した。これは誰も想定しなかった「無党派の反乱」と受け取られ、大きな衝撃を与えた。結果的に青島は一期で引退、横山は二期目に当選したが選挙運動期間中にわいせつ事件を起こし有罪となった。

(都知事に青島幸男氏が当選)

 1995年は結果的に『男はつらいよ』シリーズの最終作が公開された年になった。1995年12月23日に公開された第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』は、毎年1~2作作られてきたシリーズの実質的な最終作となった。それは主演俳優の渥美清の体調という個人的な要因によるものだけど、95年が寅さんシリーズの終わりだったということは「時代の変わり目」を象徴する感じがする。1969年から続いてきた映画シリーズは、2年後に特別編が作られたが、それはもはや渥美清の新作ではなかった。

(男はつらいよ 寅次郎紅の花)

 この映画を撮るとき、すでに渥美清は肝臓ガンが肺に転移して主治医は出演不可能と言ったという。山田監督も渥美の体調を案じて最終作になるかもと考え、マドンナに最多となる4度目の浅丘ルリ子リリーを登場させた。浅丘もこれが最後と覚悟し、監督に「寅さんとリリーを結婚させて欲しい」と直訴したという。山田監督は50作まで作ることを予定し、すでに次作を書き出していた。だから結婚まではしないのだが、リリーと寅さんは奄美諸島の加計呂麻(かけろま)島で一緒に住んでいた。

 そして寅さんは映画の最後に、震災に見舞われた神戸に現れる。1995年は阪神淡路大震災が起こり、全く想定されていなかった大被害をもたらした。史上初めて「震度7」が記録されたのである。そして被災地の熱い要望に応えて、病身の渥美清はその長い芸歴の最後に「震災ボランティア」を演じた。たまたまふらっと神戸に現れたという設定の寅さんは、「本当に皆さんご苦労様でした」が最後のセリフとなった。その後多くの災害を体験した日本人に遺した予言のような言葉じゃないだろうか。

 1995年にはもう一つ全く予期されていなかったことが起きた。それは野茂英雄がアメリカの大リーグで活躍したことだ。近鉄バファローズにいた野茂投手は望まれて温かいムードで大リーグに渡ったのではない。1990年に入団し、その年から4年連続最多投手となった野茂は、94年シーズンは8勝7敗と低迷した。鈴木監督との折り合いも悪く、契約更改でもめて自由契約となり、ドジャーズとマイナー契約を結んだのである。これは村上雅則以来32年ぶりのことだった。

(アメリカで活躍した野茂英雄投手)

 誰も日本人野球選手がアメリカで通用するなどと考えてはいなかった。だから移籍に関するルールもはっきりとしていなかった。結果的には6月2日に初勝利を挙げ、13勝6敗で新人王となった。「トルネード投法」が流行語となり、その後2度のノーヒットノーランを記録した。アメリカで2008年まで活躍し、123勝109敗。日本時代の78勝と併せて、日米通算201勝となっている。今テレビを付ければ、シーズン中は毎日大谷翔平のニュースを大きく報じている。野茂に続きイチローや松井秀喜のように野手もメジャーに渡った。サッカー、バスケ、バレーなど他競技でも多くの日本人選手が外国で活躍している。野茂が切り開いた道だ。

 1995年の「新語・流行語大賞」の年間大賞は「無党派」「NOMO」「がんばろうKOBE」の3つだった。トップテンには「ライフライン」「安全神話」「官官接待」「インターネット」などが選ばれている。無党派やインターネットも「新語」だったのである。そこから30年経った。この30年は一体どんな変化を日本に及ぼしたのか、数回考えてみたい。

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