今週は子どもへの暴力について、社会的に大きな変化となるだろう事件が2件ありました。
4年の女の子の虐待死で、私が一番ショックを受けるのは、周りの大人たちが気づいていながら、通告を行っていなかったこと。確証がなかった。親に聞いたら、親が否定した。しつけだと言われた。
双子の片方の子どもは実父の下へ逃げ、残った子どもがやられたこと。
確証を求めているうちに、虐待を止める機会はどんどん失われていったこと。
アメリカの虐待防止法では、通報はあらゆる大人の義務で、専門職が、通告を怠れば、罰則規定があります。そして通告は虐待件数の何倍もの誤りがあるそうです。しかし、子どもを救うことが優先されているので、過誤は問われないそうです。
もう一つは体罰の判決。 日本国憲法は非暴力の一つのよりどころでしたが、大変難しいところに来たというのが私の感想です。
教育基本法は、懲戒権を歌ってはいませんが、民法の規定を根拠に教師が子どもの胸倉をつかんで、壁に押し付け、怒鳴るということが、体罰ではなく、指導の一環であると認められました。
体罰かどうかは客観的に判断する。というのですが、判断するのは誰でしょうか?
大人が判断するのではないでしょうか?子どもが暴力を奮いそれをやめさせるために、胸倉をつかみ壁に押し付けて怒鳴った。子どもはその夜からPTSDを発症した。それは体罰でなく指導である。
それでは、子どもが、大人の不当に怒り、胸倉をつかみ、壁に押し付けた場合、客観的に判断し、指導と認められることがあるのでしょうか?あり得ないと私は思います。こういう力や立場の格差によって支えられた判断は、客観的判断ではなく、ある立場を代表する一つの価値観にしか過ぎないと私は思います。先生がそれによって職を奪われることが妥当かどうか?という話をしているのではなく、暴力かどうかの判断を本人の心ではなく、他の基準を用いることが、妥当かどうか?という話をしているのです。
私は、子どもが「怖い」といったり、暗い顔を見せたら、すぐにやめて「ごめんなさい。」といえる大人でありたいし、地位や立場によって二重の基準を持つより、全ての人を対等に尊重する人でありたい。そして教育基本法や、基本的人権はそのことを明確に歌っていると私は信じてきました。
正直言って、がっかりする判決でした。「体罰ではあるけれど、補償の対象とするほどではない。」という判決ならまだ理解できますが、これほどのことを司法を扱う人たちが「体罰ではない」と言い切ってしまうとは。
裁判官が、「しつけです」「あの子は素行が悪くて」という親の話を鵜呑みにした先生と同じに見えてしまいます。本当にショックです。