モラル・ハラスメントと言う言葉を初めて知ったのは、この本によってです。
職場や、地域、家庭で起こる取るに足らない、小さいとみなされる心理的暴力の恐ろしさに目を開かれた一冊です。
「モラル・ハラスメント」人を傷つけずにはいられない
マリー・フランス・イルゴイエンヌ 高野優訳 紀伊国屋書店
モラル・ハラスメントの暴力は相手の心を支配し、自分の思うように操ると言う形で現れる。・・・この種の人々は他人を操ることにたけているので、政界や実業界で幅を利かせることが多い。したがって、普通の人々は羨ましいと思うと同時に、怖れを抱く。こういった人々に逆らうのは得策ではないとし本能的にわかっているからだ。これは強者の論理が支配する世界である。
一番強いものがより多くのものを享受し、苦しみは他人におしつける。その反対に、被害者のことはあまり問題にされない。被害者は弱く、世慣れていない人間だとみなされ、それだけで軽く扱われる…。そうして、他人の自由を尊重するという口実のもとに、状況がいくら深刻でも、社会全体がモラル・ハラスメントに目をつぶってしまうのだ。・・・私達はそれが不愉快で、道徳的に非難すべきことのように思われても、何も言わずにいることが多い。また、私達は権力を握っている人間が嘘をついたり、他人を操っているのを見ても、そのことに対してはびっくりするほど寛容になっている。目的が手段を正当化するのだ。
私達は他人のすることに関して無関心になっている。だがそれによって、モラル・ハラスメントの共犯者になっているのではないか?寛容になるのもよいが、それにはっきりと定められた限度を設定する必要があるのではない?といっても、モラル・ハラスメントの暴力とは、それがいくら恐ろしいものであれ、心の領域でふるわれるものである。また、現在の社会や文化はこのタイプの暴力を多目に見る傾向にあり、その結果、モラル・ハラスメント的な行為は広がりつつある。
私達の時代はそれがどんなものであれ、基準を設けるのを拒否する時代である。そういったなかで、モラル・ハラスメントに対する限度を設定することは、他人の権利に対する侵害だと見なされる。そんなことをしたら、逆に自由を束縛すると思われてしまうのだ。・・・モラル・ハラスメントを抑制するのに、政府や財界などの権力の側にいる人間はあてに出来ない。権力は自らの内部に枠を設けず、指導者やそれに協力している人々の責任を軽減しようとするからだ。