夕べ遅くから雪が降っていましたが、朝見ると積もっていました。
ロシア帝国サンクトペテルブルク生まれ、フランス共和国パリ没
枚方市では今年初かも
わくわくして何枚も庭の写真を撮りました。
わくわくして何枚も庭の写真を撮りました。
アレクサンドル グラズノフ(1899-1900年)
ロシア帝国サンクトペテルブルク生まれ、フランス共和国パリ没
父は富裕な出版事業者(プーシキンの『エフゲニー オネーギン』の版元)で13歳で作曲し、ロシア五人組の一人バラキレフが15歳のグラズノフの作品をリムスキー=コルサコフに紹介し、彼の個人教授が始まりました。
1884年になるとミトロファン ベリャーエフ(1836-1904年)
ロシア帝国サンクトペテルブルク生没
が賛美者となり、西欧旅行に連れ出されヴァイマルでフランツ リストに引き合わされ、交響曲第1番を上演してもらっています。
その後も、ベリャーエフに音楽ホールを借りきって管弦楽曲を上演するなど、支援を受けます。
国際的に名声を博し、1890年代には交響曲、二つの弦楽四重奏曲、バレエ音楽『ライモンダ』、『四季』を完成、ペテルブルグ音楽院の教授になり国際的な名声も高まりました。
指揮者とのしての活動もあり、教授としては苦学生たちの暮らしにまで心を配り、時には巨額な収入を分け与え、ソ連政府に掛け合い、ユダヤ人音楽家をかくまい育てました。
ショスタコーヴィチも彼の庇護を受けて育ちました。
1917年ソ連がボリシェヴィキ体制になると、政府と学生たちの軋轢に悩むようになり、
1928年、ウィーンのシューベルト没後100周年記念行事に出席すると、死ぬまで帰りませんでした。
ヨーロッパとアメリカ合衆国を巡り、パリに滞在しましたが、問われると亡命とは言わず、体調不良のせいだといいつづけたそうです。
1929年65歳で、10歳下のオリガ ニコライェヴナと結婚。連れ子のエレーナを養子にしました。
『四季』は1899年マリウス プティパの依頼で作曲しました。
1900年サンクトペテルブルクのエルミタージュ劇場で初演されました。
- 前奏曲
- 冬
- 情景
- ヴァリアシオン:霜
- ヴァリアシオン:氷
- ヴァリアシオン:霰
- ヴァリアシオン:雪
- 終曲
- 春
- 情景
- バラの踊り
- 小鳥の踊り
- 夏
- 情景
- 矢車菊とケシのワルツ
- 舟唄
- ヴァリアシオン:トウモロコシの精の踊り
- 終曲
- 秋
- バッカナール
- 小さなアダージョ
- バッカスの礼賛
- アポテオーズ
冬の情景は本当に雪景色を思い起こさせます。