近江富士が真正面に見えます。
ロシア帝国ソンツォフカ生まれ、ソビエト連邦モスクワ没。
セルゲイ セルゲーヴィチ プロコフィエフ(1891-1953年)
ロシア帝国ソンツォフカ生まれ、ソビエト連邦モスクワ没。
ソンツォフカは現在ウクライナ、ドネツィク州ソンツォフカのことです。
貴族に雇われた農業技術者の父と農奴の母のもとに生まれ、領主の庇護で音楽教育を受けます。
帝政ロシアのサンクトペテルブルク音楽院
でグラズノフの後押しで、作曲、ピアノを学び、ピアニストとして名を上げます。
第一次世界大戦のときは、オルガンを学ぶことで徴兵を免れ、2月革命の騒乱の時は(今は音楽を必要としていない。)とアメリカ合衆国へ出国、ヨーロッパなどで活躍しました。
モスクワとパリを仕事で往復した後1936年モスクワに帰りました。
1941年独ソ戦が勃発。
モスクワの前まで攻め込まれましたが、西側連合国と共闘し、ナチスドイツを敗北させました。
このときソ連の死亡者は2000〜3000万人、ドイツは600〜1000万人民間人含む。
ソ連は第2次大戦の交戦国の中で最も多い死亡者を出しました。
プロコフィエフは、当時初めの妻リーナと喧嘩別れしていたものの、一緒にモスクワから避難しようと説得しています。
聞き入れられず、息子とリーナはモスクワに残ります。
プロコフィエフは避難先のコーカサスでレフ トルストイの「戦争と平和」をオペラにしています。
ナポレオンのロシア侵攻と独ソ戦を重ね合わたようです。
何度も書き直されました。
第1稿は、芸術問題委員会による審査で英雄的側面を強調するようにと歌を抒情的にするようにと言われ改訂しましたが、第2稿は演奏直前で指揮者が辞職、上演中止。
第3稿は1946年作品が大きすぎたため、2つに分けて上演する予定でした。第1部は大成功。1947年に105回上演されたものの、第2部はドレスリハーサルに進んだところで「歴史認識の誤り」のため上演中止になりました。
第4稿は検閲で問題になった第9場11場、エピグラフと第7場を削除。
1953年上演され西側で人気を博すも、完全版ではありませんでした。
第5稿で全ての削除部分を復活。新しい部分を加えて1959年ようやく完全版が上演されました。
しかしすでにプロコフィエフは1953年3月5日亡くなっていました。
奇しくも検閲で彼を阻んたスターリンが亡くなったのも同じ日でした。