音楽の喜び フルートとともに

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序曲1812年

2022-02-12 21:07:02 | ロマン派
今日は東近江に住んでいる長男が牧野来て、近所に買い物に出かけたら、幻日が見えました。


虹か彩雲かと思って調べたら幻日というそう。
太陽の左右の外暈に見えるのが特徴だそう。
吉兆なら、ウィルスの終わりであってほしいと祈らずにはいられませんでした。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)
ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没
作曲の序曲「1812年」変ホ長調作品49
1880年5月
楽譜出版のユルゲンソーン
からの3つの依頼をもらいます。ニコライ ルビンシテインが産業博覧会の音楽部長に任命され、チャイコフスキーを引き立てたい。ついては次の3つの題材のうち1つにもとづいた曲を書いてほしいというものでした。

1.産業博覧会のための序曲

2.ツァーリ(ロシア皇帝)即位25周年のための序曲

3.正教会の雰囲気をもった救世主ハリストス大聖堂開基のためのカンタータ

当時チャイコフスキーは白鳥の湖、エフゲニー オネーギンを書いた後で、乗り気ではありませんでした。

1ヵ月以上放置し、「収入を指定すること」「期限を定めること」「声楽曲なら背景をはっきりすること」とユルゲンソーンに返信。

さらに「自分自身が感動しないと手をつけられない。」と10日後に書き送っています。

しかし、ニコライから直接依頼されると、「ニコライからの頼みが重荷になっていますが責任は果たさねばならない。」「この作品は騒々しいものになるだろう。」「いいものか、悪いものかと言われたら後者になるだろう。」と文句を言いながらも、11月7日に書き終えます。

ところが博覧会は中止。
ニコライは1881年3月に亡くなります。

様々、演奏依頼したり、広報しますが、1882年8月になり、救世主ハリストス大聖堂


で開かれたモスクワ芸術産業博覧会主催コンサートでイッポリート アリターニ指揮で初演されます。
この時点で、新聞批評では凡作と評されます。

結局1887年サンクトペテルブルクでチャイコフスキー自身の指揮で上演されたときに、「完全な成功、大満足。」と日記に書くほど成功しました。

1812年、ナポレオンのロシア侵攻を描いていて、
フランス国歌「ラ マルセイエーズ」とロシア帝国国歌「神よツァーリを守りたまえ」が、分かりやすく曲の中で対峙されています。

1963年のロンドン、クリスタルパレスでの演奏で大砲が使われてから、大砲を使われることが多くなりました。

花火を打ち上げたり、合唱を入れたり、確かに騒々しい…チャイコフスキーが思っていた以上に。
思った通りなることなんて、ほとんど無いのがこの世の常。
ロシア愛国の曲が、ロンドンでも、アメリカでもイスラエルでも演奏され、多数の国籍の人々を楽しませていることは、なかなか愉快なことだと思います。