音楽の喜び フルートとともに

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右手の故障から生まれた曲

2023-12-23 21:01:00 | 近代
今日は第7回聴き合い会でした。
牧野生涯学習センターの音楽室で演奏を聴き合ってお互いに励まし合いましょう。ということで、開催しています。
今回はギターにビウエラに
ヴァイオリン
ピアノ
フルート五重奏
デュオや
ソロ

一通り発表した後、飛び込み演奏や合奏、みんなでヴィヴァルディや、クリスマスソングの合奏もしました。

打上げも盛り上がりました。
ここでは書けない不思議なお話も飛び出し、続きが聞きたい…。
来月は来られないので2月に来ると言いおいて帰られました。

ギターでスクリャービンの「前奏曲」を弾いた人がいました。

アレクサンドル スクリャービン(1872-1915年)ロシア帝国モスクワ生没

モスクワの軍人貴族の家系に生まれ、タタール族(日本や中国では韃靼と言われるモンゴル、シベリア、カザフスタン、リトアニアで活動したチュルク系民族、遊牧民族)を祖先に持ちます。

タタール族の女性

モスクワ音楽院に学んだ将来を嘱望されたピアニストだった母は、スクリャービンを産んだあと産褥熱で亡くなります。

幼児期からピアノを学び、10歳で自ら陸軍兵学校に入りますが、小柄で虚弱、楽才が高かったため、モスクワ音楽院への、通学を認められ、
タネーエフに音楽理論をズヴェーレフにピアノを師事しました。

1888年から周囲の進めで正式にモスクワ音楽院に転学、ピアノ科でサフォーノフに作曲科でアレンスキーに師事します。
同級生にラフマニノフがいました。

1880年頃のズヴェーレフと学生達。左から2番目(手前の一番左に座っている人物)がスクリャービン。右から4番目(奥の右から2番目に立っている人物)がラフマニノフです。

気難しく扱いにくい彼にアレンスキーは手を焼きました。
スクリャービンは結局作曲科を終了することができず、ピアノ科のみで単位を取得しました。

卒業試験ではラフマニノフが1位、スクリャービンが2位でした。

背の小さい彼は熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障しました。

回復するまでの間に左手を特訓するとともに、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぐようになります。

「左手のコサック」と呼ばれる独自のピアノ奏法を編み出します。

「左手のための2つの小品」作品9、「前奏曲」と「夜想曲」は当時を代表する作品となりました。