京津線のレトロな運転席。
鉄オタではありませんが、撮らずにはいられません。
アルカンのエラール製グランドペダルピアノ。現在はパリの音楽博物館(フランス語版)に収められています。
鉄オタではありませんが、撮らずにはいられません。
鉄オタの作曲家といえば、以前ご紹介したドボルザーク、それからオネゲル。まだまだ、いますよ。
シャルル ヴァランタン アルカン(1813-1888年)フランス帝国パリ生まれ、フランス共和国パリ没
本名はシャルル ヴァランタン モランジュでユダヤ系の家庭に生まれます。
父はアルカン モランジュ 母はジュリー。
6人姉弟の2番目で姉と4人の弟がいました。
アルカンは音楽家の父の名前で、兄弟全員が音楽家としてアルカンを名乗りました。
パリのユダヤ人居住区マレ地区の自宅はパリ音楽院を目指す子どもたちが通う音楽予備校になっていました。
姉のセレストはピアニスト、弟のナポレオンは音楽院でソルフェージュの教授になり、マクシムはパリの劇場の軽音楽を作曲する仕事につきました。
6歳でパリ音楽院に入学、ジメルマンのピアノクラスに学びます。
7歳でソルフェージュ、ピアノ、伴奏、作曲、オルガンでプルミエ ブリ(一等賞)を取ります。
7歳半で公開演奏会を行いますが、この時はヴァイオリンで出演します。
ピアニストとしてのデビューは12歳。自作の曲を披露もしました。
1828年、14歳で作品番号第1番を作曲しました。
1829年、トリオを結成しました。
アルカンは二十代で演奏会をし、リスト、サンド、ヴィクトル ユーゴーと知り合います。
1838年25歳でショパンと共演したり、ヴィルトゥオーゾと呼ばれ、リストは「最も優れたピアノ技巧を有している」と、称賛しています。
この後6年間は私的なレッスンと作曲に専念します。
1842年ショパンが、サンドと隣に引っ越してきて、1849年ショパンの死後、弟子を引き取っています。
1844年に演奏に復帰します。
1848年ジメルマンの後継者争いに破れ、親友のショパンが亡くなったことで落込み、公衆の面前で演奏できなくなってしまいます。
「私は日ごとに人間嫌い、女性嫌いになってきています・・・行動に移す価値のあること、良いこと、役に立つことなどなにもありません・・・私自身を捧げるに足る人物などいないのです。私は自分の置かれた状況をどうしようもなく悲しく、惨めに感じています。私は音楽を作ることにすら意味や目的を見出せなくなり、魅力を感じられなくなっています。」とヒラーへの手紙に書いています。
1853年2回の演奏会を開くと25年間の隠居生活に入ります。
アルカンのエラール製グランドペダルピアノ。現在はパリの音楽博物館(フランス語版)に収められています。
1873年からはエラールのピアノ展示場で年6回の演奏会を開いていて、自作の曲も披露しています。
生涯独身でしたが、エミール ドゥラポルドが実子だと言われています。
1844年作曲した練習曲「鉄道」op27bは当時の最先端技術の蒸気機関車を描写した作品でアルカンは「機械のスピードと詩情への賛美を表明した最初の作曲家」(ジョージ ベック)と評されました。
今、9回表で4-2で阪神リードしています。久米さんの周りにも阪神ファンは多いのでは。
今頃、天国で「ビールがうまい!」なんて上機嫌でやってるんじゃないでしょうか…。