木金の2日間、中学生の息子が、職場体験で、地域の植物園に働きに行かせていただきました。剪定をしたり、運んだり、売り場に立ったり「ずっと、立ったまんまやった。疲れた~。」と、帰ったらすぐ眠ってしまいました。
お邪魔だったでしょうに、働いた御礼にと、小さな苗をいただきました。
「なんていう名前?どうやって育てるの?」
「なんかわからん、あそこにいっぱいあって、なんか名前、書いてあった。」うーん。息子は植物園ではまだ、務まりそうにないです。…ベンジャミン・スターライト。地域人の子どもを見守る暖かいまなざしを感じました。
今日は、自分で鉢に植え替えて水をやって。
息子が「大丈夫、大丈夫。」というのを、気になって、私がネットで調べたら、「しまった!」8℃以下になったら部屋の中に入れなければいけないらしい。
すると、夫が「温室をつくってやる。」・・・夫婦そろって親バカ。
秋雨の街路。雨が冷たくなってきました。
TV版、北京ヴァイオリンで、サラサーテの「カルメン幻想曲」を主人公がコンクールで弾いていましたが、ボルンの「カルメン幻想曲」は紛れもなくフルートの名曲です。
作曲者フランソワ・ボルンは、フルーティストですが『ボルン=ジュリオ』と呼ばれる新しいベーム式フルートを改良しました。この曲は新しい楽器のために作曲した作品の一つです。
ビゼーの歌劇「カルメン」の中から、「カルメン登場の音楽」~ 「カルメン、まだお前が好きだ」~.「運命の動機」~ 「行ってきておくれ、セビリアの街へ」 ~「ハバネラ」~ 「ジプシーの歌」 ~「闘牛士の歌 」
ベーム式以降のフルートの特徴を、最大限にアピールしようよしたこの曲は、超絶技巧。クロマティック、スケールを高音から低音まで短いセンテンスでこれでもかと盛り込んでいます。
こういう曲に挑む時は、ソノリテやクロマティックなど基礎練習が欠かせないとともに、ゆっくりと、聞かせたいテーマとなる音を超テヌートで伸ばしてさらっておきます。そしてどんなに早くなって、テーマ音が響くように演奏することが大切です。アンブシャーはいつも柔らかく。軽々と演奏できると○。
ビゼーは35歳と言う若さで亡くなりましたが、夭折の天才とちょっと呼べないくらい作品が老成しています。グノーのお弟子と聴いて、納得の美しいメロディーラインです。
ohshiさんが行けなくなったチケットをゆずってくれました。おかげで京都府民ホールアルティへ行ってきました。
お久しぶりの京都市営地下鉄電車大好きだった幼い息子が懐かしい。レゴブロックの電車で一日中遊んでいました。おかげで私もいろんな電車を覚えました。この線は色違いの駅の扉がおしゃれです。
演目は寺岡勝己さんの「チェンバロコンサート」16-18世紀のスペイン音楽とJ.S.バッハのシリーズⅢ
京都のお客様は年配の方が多く、じっくりと深く楽しまれているような気がします。文化の懐が深いという感じがして好きです。
チェンバロを久しぶりに聴いたら、今やっているヘルマンハープとの特徴の違いに目が行って仕方ありませんでした。チェンバロはハープと同じでペダルは無いですが、指を離したら音が消える様にできています。なので細かい動きでも音がにごりません。その代わり、早く指を離しすぎると、音が切れたように聴こえてそれが、効果的に使われたり、もうちょっと欲しいと思ったり。また、残響の無い和音を続けて移動して演奏すると、あまりにも短く同時に指をおろしすぎるせいで、「ボッ」とつまった音に聴こえます。それを効果的に使えば、太鼓のような表現になります。
ヘルマンハープは自分で消音しない限り音が残ります。長い残響のせいで和音がにごりがちで、早いパッセージはいつもウワアーンと音が残ってしまいます。しかしそれを効果的に使えば、ゆったりとメロディを歌わせることができます。
1685年生まれの3人の偉大な作曲家バッハ、ヘンデル、スカルラッティはほとんどの曲をチェンバロで作曲しています。特にスカルラッティはチェンバロのために555曲も書いたそうです。
まあ、すごい!・・・ヘルマンハープのためにももう少し曲が欲しいです。
プログラムは1557年の楽譜より、カルロス1世の宮廷音楽3つとカベソン(1510-1566)の5つの宮廷音楽。スカルラッティのソナタ3つとバッハの3曲。
カベソンはスペインのバッハと呼ばれているそうですが、当時はスペインの方が先進国。寺岡さんはバッハよりも高尚である。と書いておられました。高尚かどうかはともかく、装飾的で美しい曲でした。
スカルラッティは、ソナタK.491 Ddur K.492Ddur K.87Amoll
Ddur二つは、美しく、雅やかですが、野趣豊かというか、素朴で力強いところもあり、和歌で言うと「万葉集」っポイなぁと思っていたら、Amollは、本当に雅びで繊細。こっちは、もうちょっと時代が下るのかなぁと思って、プログラムをみると寺岡さんが新古今和歌集有名な花の色はうつりにけりな(小野小町)を引用されていてびっくり。気は通ずる。万葉集が古代なら、新古今はやっぱり日本の純宮廷音楽。
おもしろいなぁ。
バッハは、フルートとチェンバロの曲がたくさんあるけれど、実際にはピアノとフルートで演奏し、合奏する機会にはめぐまれません。が、こういう原点を知って演奏することって大切だなぁと改めておもいました。ソナタを吹くときに大きな音量でビブラートをかけたりして演奏したくなりますが、こんなに残響がない相手とは、それは無理。やっぱり奏法をかなり変えないといけないんだということを痛感しました。
最後に、トッカータとフーガをなんとチェンバロで演奏されましたが、パイプオルガンほどのダイナミズムの無い楽器で、よくここまでと思うほど多彩な表現をされていました。細かいフーガの部分などは、チェンバロの方が動きがでていいんじゃないかな?と思うほど。寺岡さんのチャレンジ精神の勝利でした。
本当におもしろかった。ohshlさん、ありがとうございました。何よりの癒しになりました
我が家の紅葉第2号は、南天。この枝だけ、色づいています。実のほうは、豊作。
昨夜、衛星放送で映画「北京ヴァイオリン」を13時からやっていて、思わず最後まで見てしまいました。3時・・・疲れた。公開されて何年かたちます。TV版は、BS2で週1で昨年放映されていて、全部見ました。
クラッシックを使った映画はヨーロッパが多いですが、中国の映画と言うところが珍しいです。今の、中国の人たちへのクラッシックや、西洋へのあこがれを感じました。
TV版は、父の人生が丹念に描かれた前半に力を感じたものの、後半、出生の秘密や、裁判、逃走など盛り込みすぎでテーマが見えなくなってしまったぁと思ったのですが、映画版はあくまで父と子の強い絆というテーマが貫かれていてわかりやすかったです。それにしても、結末は、TVと映画は真逆でびっくりしました。(明かすわけにはいきませんが)
曲も、TVはサラサーテのカルメン幻想曲が要所で使われていましたが、映画はチャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルト。オーケストラを使っていました。この辺が予算の関係でしょうか?サラサーテならピアノ一台でおさまります。それに映画は音楽が流れるところがたっぷり聴いた感がありましたが、TVはあっさり。ドラマの方に力点を置いていたみたいです。(TVドラマで長々、音楽を流したらチャンネルを変えられる?)
でも、映画は音楽が第3の主役のようで、音楽に偏っている私には満足感が高かったです。
中国は「孝」を大切にする国です。それは、経済大国になりつつある今も変わりないようです。
「孝と母性のメカニズム-中国母性の視座」下見隆雄 研文出版によると、昔は、「割股」と言って、親の病に己の肉をそいですすめる習慣があったそうです。もちろん子は落命する。これを美徳とされたそうです。魯迅は狂人日記でそういう風土を憂えて「書物いっぱいに「人を食う」という字が書いてあった。」と書いています。
この映画では、子どもに尽くす父親の姿が描かれていますが、最後に自分の成長より、父親をとってしまう子どもって…???中国も変りつつあるようですが、これを美徳と言いたくない私がいて。音楽はよかったけれど、最後に来て素直に酔えませんでした。コンクールと言う競争の世界よりも人間をとったと読み取れないこともないですが、私がひねくれているのかな?ちょっと最後まで酔えないところがありました。
アイビーの実が青黒く変化し、紅葉がはじまりました。
まだ、先端の方だけ。今日は、少し寒い、夜になってストーブを入れました。季節は確実に変化しているようです。
アメリカで黒人の大統領が誕生しました。オバマさんの演説はまだ聴いていないけれど、マケインさんの敗戦演説をTVでみました。「歴史的な日、230年前の人権宣言が本物になった素晴らしい日。彼を選んだアメリカ国民を誇りに思う。」と言うくだりには本当に感動しました。
アメリカで黒人がしめるのは13%。そう思うと、女性大統領の方が遅いのは、女性差別はそれだけ、根深く、見えにくく、女性は分断されているからだと思います。
それでも、人権から見ると、一歩進んだ。ということは、確か。アメリカの公民権運動も黒人が先だった。それから女性。良くも悪しくもアメリカが変ると、世界は変ると思います。
フルートの世界では、セシル・シャミナード(1857年~1944年)が経済的に自立した最初の女性作曲家といわれています。
先進国では法律や、男女の機会は均等になってきたといわれていますが、実際にはまだまだだと思います。女性の人口は半分なのに、女性がもっている世界の資産は10%。男性用に作られた、社会、経済、学問、言葉、仕事、音楽、なかなか、手ごわいです。
シャミナードは、たくさんの曲を残しました。「小組曲」(コンチェルティーノ)は、フルートの名曲の一つですが、その曲つくりは女性らしさよりも、男性の文脈を理解し、使いこなそうとしていると言う感じが私にはします。がんばって鼓舞する感じとでもいうような。その頃活躍していた作曲家が、どんどん、枠を壊し、性的にも放埓な曲を目指していていたのとは対極にあるような曲作りと言う感じがします。
それが1800年代に生まれた女性の限界だったのかもしれません。さて、150年ほどたった今、自由で、民主主義政権で、どれほど、女性作曲家が増えたでしょうか?楽器屋さんの楽譜棚にどれだけ女性がならんでいるでしょう?・・・やっぱり、10%も無いです。発言と表現においてまだ平等は実現していないと思います。それでも、今日世界が、対立の構図から、共同へと動くとマケインさんの演説から希望を感じた日でした。
今日は、生徒さんたちがフルート三重奏に挑戦しました。
ショパンの「別れの曲」と、映画スティングのテーマ「ザ・エンターティナー」。フルート3本でふけるように、うまくアレンジされています。
ショパンは、ピアノだと左手にあたる16分音符の伴奏の部分の演奏が難しいです。フルートは低音のタンギングが難しい楽器です。下のEから始まった場合、注意しないと、後打ちのGの方が目立ってしまいます。小節のはじめの音を、テヌートで吹き、次の3つの音はごく小さな音で演奏することで、旋律を生かした演奏をすることができます。
「ザ・エンターティナー」の方は、表打ちの人と、裏打ちの人が別れていますが、一人で演奏しているように聞こえるように連携しなくてはいけません。他にも、これは連携が大切な曲で、はじめは同じフレーズをソロで次の人へと受け渡していきます。その時、よく聴かないといけないのですが、逆説めいていますが、聴いてから演奏していては遅いのです。自分の前に演奏している人と、一緒にフレーズを演奏しているつもりでいると、「ここに音が欲しい。」という場所がわかります。そこへ音を置くのです。
そして、みんなでアクセント「さあ、行くよ。」という1stの合図で一斉に同じ場所に音を出します。
アンサンブルって不思議です。同じ性格、同じ特徴を持った人が3人で演奏するよりも、違う特徴を持った人が集まったほうが、なんだか魅力的な演奏になります。
そしてその特徴の違う人が、心から協力しあって作り出した演奏は、技術や演奏能力のレベルを上回る。と私は思います。
今日も、初めに来た時はバラバラだった3人がちょっとした気持ちの合わせ方次第で、どんどん変っていきました。楽器もパウエル、YAMAHA、パールと3人3様なのに最後はちっとも気になりませんでした。
考えたらどんな共同作業もおなじかもしれませんね。考え方も意見も能力も同じ、なんてことは、万に一つもありえない。それでも、それぞれが自分のできるベストをグループのために提供できたら、いいものができないわけがない。
今日は、いいものを聞かせていただきました。私も心して演奏したいと思います。それにしてもこれからが楽しみです。
連休が終わりました。先週の土日に続いて、今週も土日はSTEPセミナーに参加。9時~18時まで缶詰。2日間は終わってから9時まではCAPの練習。帰って楽譜の作成。その楽譜を持って、今日は、朝からヘルマンハープとフルートの練習。「よく勉強したね。」と自分を褒めたい気分です。
STEPはアドラー心理学を元に考えられた民主的な子育てのためのプログラムです。これに初めて参加したのは10年前、10章のプログラムはフロムのいう「愛するということ」の具体的なレッスンです。
何度も読み返している本。
「愛するということ」の中で、エーリッヒ・フロムは、花を愛しているといいながら、水をやらないでいると、花枯れてしまう。これで愛しているなど誰も信じない。愛するということは、「配慮、責任、尊敬、知識」が必要な要素なのだ。
愛は愛するものの生命と成長に積極的に関係すること。何かのために「働き」「何かを育てること」それは「配慮」と「尊敬」を含んでいる。
「責任」とは外から課せられたものではなく、自発的行為。相手の精神的な欲求に応える(応答する)準備ができている。親ならば子どもの身体的欲求への注意のようなこと。
「尊敬」は人をあるがままに見、その個性を知る能力。相手がその人自身としてありのままに成長し、発達すべきであると言う関心を意味している。
「知識」とは、私が私自身の関心を超越し、他の人を彼自らの価値においてみることができるときのみ可能となる。
つまり、愛するには、配慮と観察、受容能力、知識が必要で、レッスンが必要だと、フロムはいっているのだと私は思います。
何かを教えたり、伝えたりする職業は、何も教職だけではありません。子育てもそうですが、仕事でも、後輩を持ったり、育てたりすることなど、誰でも結構経験があります。それは、すべて「愛する」場であるのだと思います。それは伝統的に考えられたきた「愛」と言うものではなく、フロムの言うような「愛」のことです。「愛する」ということなしに、教育したり、伝えたりすることは、ほとんど不可能なのだと読んでいて思いました。
どうしたら、子ども達を、怒鳴ったり、怒ったりせずに、信頼と尊敬をもってしつけ、教育することができるのか?それは、とても簡単なことですが、難しいことでもあります。時間がかかるし、私自身が逆に問われることになるからです。子どもの信頼に値する態度や、対応をとれているかどうか?
また、社会や、家庭で子ども達は、全く違った対応を受けていることもあります。多くあります。
先日も子ども達から、「先生は怒ったらいいのに。」「先生、あんな子、一発殴っといたら、言うこと聞くのに」と言われました。現場は大変です。
「先生は、殴らないの。殴られていい人はどこにもいないと思うわ。」
私は完璧じゃない。へたくそだし、子どもをちゃんと時間に座らせることもできない。でも、これからも勉強して、信頼と期待、尊敬を「愛」をあきらめない。絶対にあきらめない。そんなことを誓った3日間でした。
先週、13号線を走っていて、八幡市辺りで、猿を見ました。淀川かわらから、上がってきて、道路を横切り、男山の方に向かって行きました。一瞬のことで、びっくりしたのだけれど、今日、もう一度走るまですっかり忘れていました。日常とあまりかけ離れたことって、あり得ないような、驚きのあることでも、人ってわすれてしまうものらしいです。
そういえば、母は戦時中、大阪市内に住んでいましたが、巨大な火の玉をみたそうです。8メートル幅の道路の端から端まで、あったそうです。その日のおかげで、昼間のように明るくなって、また消えていったそうです。怖くも、驚きもそうなかったそうです。「なんやろうなぁ?」と思っただけだそうです。
話してくれた時も、ものすごいことが起こった…って感じではなかったです。
こう考えていると、忘れてしまっていることですごいことって、まだまだあるような気がします。
なぜこんなことを書いたか?というと、レッスンを受けて、先生から、フィードバックをうけて『できなかったことが、できた!』と思った瞬間があったのに、家に帰って再現して吹こうとすると、全然できない。
「なぜ?」と思って、いろいろやってみるけれど、やっぱりできない。
それはやっぱり忘れているからだと思うのだけれど、レッスンにいったときに『覚えていよう』と決意しても、やっぱり忘れてしまう。
なぜこんなことが起きるのでしょう?
人が意識できるのは、通常の場合、一瞬で一つのことだけだそうです。
と、いうことは、『できた!』と言う一瞬、たいてい楽譜を見ています。楽譜を読むことと、後一つはできたという感覚しか意識していないので、記憶以前に体や、呼吸や、心の意識が無いことが多いのだと思います。
できたとき、生徒さんに「今、口はどんな感じだった?」もう一回やってみて、「今度は、体のどこに力が入っていますか?」また、「呼吸はどんなだった?」「今、吹いた角度はどうだった?」「気持ちはどう?」
「じゃあ、前に吹いてたやり方はできる?」
「どう違った?」そういう問いかけをいろいろとすると、記憶の定着率が高いと言うのが経験によりわかってきました。
つまり、できたという感覚をいろいろな角度から検証し、分析し、科学することで、意識的に再現できる手がかりを、その場で発見しておくのです。
感覚という、曖昧なものを、言語化することで、手がかりをつくり、できるだけ具体的なものへと、しておくのです。
そうすると家に帰っても、「口をゆるめて、首まわりの力を抜いて、明るい気持ちで吹いてみる」などという言葉を使って、自分を『できた』時の感覚に導くことができます。
また、違う曲の同じようなテクニックを要する場所でも、ここではこの感覚が、あそこには別のものがと切り出して使うこともできやすくなります。
また、こんなことをやっていると私は、興味は尽きず、飽きることがありません。贅沢な楽しみです。