音楽の喜び フルートとともに

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ロマン派

2022-08-21 21:42:40 | ロマン派
今日は、ギターの川原さん


と8月27日のギター練習会の合わせをしました。
シューベルトの「セレナーデ」と「おやすみなさい」
9月にする「漁師の娘」を合わせて、
10月4日の光明寺 お寺ライブの選曲をしました。

北海道じゃがいもコロコロ持ってきてくれました。
じゃがいもとバターの風味たっぷりで昆布入でおいしかったです。
練習した後は、樟葉モールのパン屋さんで

ランチ。

帰ろうと思ったらシルバニアファミリーのイベントやってました。
可愛いもの好きな川原さんと写真撮ってしまいました。

ロマン派の作曲家にロベルト シューマン(1810-1856年)プロイセン王国ツヴィッカウ生まれ、プロイセン王国エンデニヒ没

がいます。
彼の父は出版業を営んでいて、文筆も行っていました。中世の騎士や修道士を題材にした物語を書き、論文や雑誌の編集もしていました。

法律の勉強をし、母からは法律家になることを期待されて、葛藤がありました。

最後には認めましたが。

ロマン派の音楽を一言で言うのは難しいですが、 
当時の流行した
ロマン主義文学は、感情表現を押し広げ、より深層に隠れたこれらの真実を抉り出す運動でした。

一方、ロマン派音楽は、オーケストラの規模を拡大したとはいえ、古典派音楽から受け継がれた楽式の構造は維持しました。

それまでの理性偏重、合理主義などに対し感受性や主観に重きをおいた一連の運動であり、古典主義

恋愛賛美、民族意識の高揚、中世への憧憬といった特徴をもち、近代国民国家形成を促進しました。

その動きは文芸、美術、音楽、演劇などさまざまな芸術分野に及びました。

シューマンはギムナジウムでは15歳で「ドイツ文学」サークルに入り、リーダー的存在となっていました。

このサークルを通じてシューマンはシラー、ゲーテ、クロプシュトック、ヘルダーリン、ホフマンらの作品に親しみ、とくにシラーとゲーテは彼にとって偶像的存在となりました。

とりわけ、ドイツロマン派文学のジャン パウルはかれのアイドルでした。

大学に入ってパウルの未亡人を訪ね、彼女からパウルの肖像画をもらっています。

この頃ハインリヒ・ハイネにも出会っています。







モーツァルト初めての交響曲

2022-08-20 19:43:00 | 古典
昨日は、子育てサポートのためのチャイルドカーシートを枚方市ファミリーポートに借りに行きました。
緑に囲まれて
幼稚園の跡地利用でなんだか和みます。


ムクゲが咲いていました。
シートは、二人分。
一つは大丈夫でしたが、もう一つは一歳用で小さすぎました。
一歳ですが、もう歩いていてサイズがどう見てもダメ。
もう一度来ることになりました。
他の公立機関をあたってくれるそうです。

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

8歳、初めて上演された交響曲第一番変ホ長調K16は、ロンドン滞在の時に作曲されました。

神童として人気が出て、ヨーロッパ中を旅行しているときでした。

1765年ヘイマーケットの小劇場で初演されました。

父のレオポルドや、クリスティアン バッハの影響が色濃く、神童としてヨーロッパ中に名をはせていましたが、作曲は始めたばかりでした。

第2楽章には交響曲第41番ジュピターの終楽章の伴奏形と同じ形が出てくるため「ジュピター音形」と呼ばれるようになりました。

ジュピター音形
  E♭-F-A♭-G

難しい話しはともかく、やっぱりモーツァルト天才!




ヴェニスの謝肉祭

2022-08-19 20:35:00 | ロマン派
ボルトヨーロッパって何かな?と調べもせずに行ったけど、

ヨーロッパ風?の建物が建てられていて、素材は樹脂?のようですが、のりものに乗ったり、アトラクションがあったりするようてす。


このたくさんのドアはフェイクで中は入れません。

それでも昔行った、イタリアのヴェニスや南仏ニースの旧市街のようで懐かしい感じがしました。

ジュリオ ブリジアルデイ(1818-1881年)イタリア教皇領 テルニ生まれ、イタリアフィレンツェ没
14歳で父を亡くし、ローマに出てアカデミア セント チェチーリア



作曲を学び、神職につくべきだという家族の圧力を退けました。

1835年卒業と同時にそこで教え始めます。
その後ナポリに移り、王室のフルート教師を務めました。
ミラノと往復し国王の兄弟を教えます。
1841年にはアメリカに旅行し、翌年しばらくロンドンに移り定住しました。
その時、楽器製造会社ルーダル アンド ローズのディレクターを務めました。

そこでブリチヤルデイキー他、今でも使われているメカニズムのいくつかの改良をしました。

1870年フィレンツェの音楽院の教授に任命され、そこで亡くなるまで務めます。

多くのフルート曲を作曲しました。

「ヴェニスの謝肉祭op78」は管弦楽とフルートソロのために作曲されました。
ヴェニスの謝肉祭は、イースター復活祭まで断食をするまで断食して、節制するため、その前に馬鹿騒ぎして肉食し、肉に感謝するお祭りとして始まりました。






馬鹿騒ぎ…でもないけれど、おもしろい動画見つけました。




霧の中で

2022-08-18 21:15:00 | 国民楽派
和歌山に行った帰りに雑賀崎灯台に寄りました。
昭和35年に建てられた小さな灯台です。






レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928年)は、オーストリア帝国モラヴィア生まれ、チェコスロバキア オラトゥヴア没

モラヴィアの民族音楽を研究し、民族音楽学者が作曲しているという捉え方をされていました。

モラヴィア プルノ
モラヴィアはチェコスロバキアの東側、西側はボヘミアで、
ボヘミアはスメタナやドボルザークに代表され、西ヨーロッパの一部で都会風であるのに比べ、モラヴィアはスラブ系特有の東洋との同一性を持ち、本質的に農村と言われています。


チェコスロバキア、緑がモラヴィア
ヤナーチェクはモラヴィアの言語、規則性の少ないリズム、自由な旋律にこだわりました。

言語による自然に現れる旋律を発話旋律を「魂を覗き見るための窓」といい、追求し続けました。

ヤナーチェク最後のピアノ曲集の中の一曲「霧の中で」

ズデンカとヤナーチェク
ズデンカとの間に生まれたオルガが
オルガ
1912年に亡くなり、妻ズデンカとも不仲で、オペラも上演されず、苦境にいた頃の作曲です。


トリスタンとイゾルデ

2022-08-17 20:46:00 | ロマン派
京都、今出川大宮、F先生のレッスンでした。
出町柳で降りたら、すごい雨!
バス停まで傘をさして歩きましたが、全く用をなしませんでした。

シューベルトのベーム編曲のセレナーデ、おやすみなさい、漁師の娘、クーラウのイントロダクションとロンド。
今日も充実したレッスンでした。

帰りは雨上がっていました。
今出川大宮のバス停の前には

本家玉壽軒
いい感じ。
調べたら1865年創業のお菓子屋さん。
井筒屋嘉兵衛という屋号で西陣織のかたわらお菓子を売り、大正5年現在の位置に移転したそうです。

買えると思わず、毎回通り過ぎていました。ネットには雅なお菓子がたくさん出ていました。



リヒャルト・ワーグナー(1813-1883年)ザクセン王国ライプツィヒ生まれ、イタリア王国ヴェネツィア没

1865年楽劇「トリスタンとイゾルデ」がハンス フォン ビューロー指揮によりバイロイト宮廷歌劇場で初演されています。


1849年革命運動に参加して、ドイツを政治犯として追放され、スイスに亡命したワーグナーは「ニーベルングの指環」を作曲しますが、大きな作品で上演の見込みが無く、小さめの作品なら上演できるだろうと作ったのが楽劇「トリスタンとイゾルデ」です。

当時、豪商オットー ヴェーゼンドンクの提供する家に妻のミンナと住んでいましたが、オットーの妻マティルデ

と、恋に落ちます。
妻のミンナとは別居。
この不倫の恋は実らず、ワーグナーはチューリヒにいられなくなり、ヴェネツィア、ルツェルン、パリを転々とします。
1862年恩赦によりザクセン入国も可能になり、妻のミンナと再会しましたが、二人は以後会うことはありませんでした。

この時の経験が「トリスタンとイゾルデ」の楽劇になったと言われています。

ケルトの古代トリスタン伝説により、ゴットフリート フォン シュトラスブルクの叙事詩をもとにしています。

ワーグナーはこの作品を「あらゆる夢の中で最も麗しい夢への記念碑」と呼んでいます。
「無限旋律」旋律が終わる前に次の旋律が始まる技法
「移行の技法」半音階の上行形と下降形て緊張を高め、和声で解決せず、連続していく。
これらの技法を用いて作られています。


トリスタンとイゾルデ 
ジョン ウィリアム ウォーターハウス作
伝説上の中世 マルケ王の統治するコーンウォール
アイルランドとの戦争で破れ、トリスタンはイゾルデの許嫁の騎士モロルトを決闘で殺しますが、負傷します。
死を覚悟して海に出ますが、アイルランドに漂着し、イゾルデに治療されます。

ここから楽劇が始まります。
イゾルデはアイルランドの女王で、マルケ王に嫁ぐために船に乗っています。偶然舵を取っているのはマルケ王の甥トリスタンです。

イゾルデは婚約者の敵を取ろうとしましたが、トリスタンの傷をおった姿をみて哀れみ、治療してしてしまったことを思い出しています。

マルケ王とうまくいくようにイゾルデの母から調合を頼まれているというブランゲーネに、トリスタンを殺す毒薬を調合させます。

毒を飲むイゾルデ ビアズレー

トリスタンはイゾルデとふたりきりになった時に剣を渡し、これで敵を取るようにいいます。
イゾルデは手を下すことができず、祝杯をあげようと毒杯を渡しますが、トリスタンが半分飲んだところで、盃を取り上げ飲み干します。

毒薬と思った中身は、媚薬で二人は抱擁します。

コーンウォールに着きますが、二人は会うことをやめられません。
マルケ王の知るところとなり、側近がトリスタンに切りつけますが、避けずに深手を負います。

故郷の城で療養していると、イゾルデがやってきます。
興奮して傷を覆った包帯を外すトリスタン。
イゾルデが着くと、すぐに死んでしまいます。
そこへマルケ王が二人を赦しにやってきますが、イゾルデは「愛の死」を歌い、喜びの中で亡くなります。

イゾルデ愛の死 ロヘリオ デ エクスギザ作








薔薇十字団とサティ

2022-08-16 21:22:00 | 近代
お盆休み最後の日。
息子二人はもう仕事なので、夫とドライブ。
「和歌山ラーメン食べたいだろう?」
「冷麺なら…。」というと行き先も告げず和歌山方面へ。

「どこかな?ポルト ヨーロッパ。」
海南で降りてから、ついに白状。
「え!?」遊園地やアトラクション嫌いな夫。耳を疑いました。
「ホントに行くの?」
「…の隣の黒潮市場。」
「マリーナシティって有料じゃないの?」
「…たぶん無料じゃないなかなぁ?」
慌ててググる私。
結局、無料。
ポルトヨーロッパも入るだけなら無料。
ほっとする私たち。 

新鮮なお魚を選んで丼ぶりに盛ってもらってフードコートで食べるっていうのが魅力的でしたが、あまりの人の多さと行列に怖くなって、奥のレストランで食べました。

鮪御膳
ちらし寿司御膳
和歌山特産みかんのゼリー付き。

和歌山ラーメンはどうなったか?って、「売ってると思って行ったけど、売ってなかった。」ですって!
どうやら前に仕事で来たときに連れて行ってもらったらしいです。
平日だったので空いててよかったらしいです。

お昼前には着きましたが、新鮮なお魚はほぼ売り切れで、干物を買って帰りました。

エリック サティ(1866-1925年)
フランス帝国オンフルール生まれ、フランス共和国パリ没

海運業の父とスコットランド人の母の間に生まれます。
4歳の時に、父が海運業を辞めパリに移住します。
6歳で母が亡くなります。
祖父母に預けられますが、12歳の時に祖母がオンフルールの浜辺で溺死体となって発見されます。
1879年13歳でパリ音楽院に入学します。この頃父が再婚します。
音楽院が退屈過ぎると退学してしまいます。
1889年パリ万博で日本の歌謡に触れます。
1890年薔薇十字団のメンバーに出会います。この頃、「ジュ トウ ドウ」を書きます。

1891年薔薇十字団の聖歌隊の隊長に任命されます。
「夢見る魚」を書きます。
薔薇十字団は神秘主義、錬金術や不老不死を知識によって実現し、人々を人知れず救う友愛組織。
起源は中世ドイツではないかと言われています。
実態ははっきりとは明かされていず、メンバーもはっきりとわかっていません。
秘密組織フリーメイソンとも関わりがあるとされています。

サティはこの後、300通も手紙を書いた相手との恋愛に失敗し、
演奏会では雨傘で決闘して警察に留置され、社会主義に入党。
ダダイズムにも傾倒。
アルコール中毒による肝硬変で亡くなります。

薔薇十字団にいた頃の作品。「夢見る魚」


愛犬ミーナ

2022-08-15 20:25:00 | 近代
昨日祖母のお墓参りの帰りに、妹が飼っていたシーズーのメイのお墓参りも行ってきました。
共同ペット霊園ですが、お花も人もいっぱい。


よしずの向こうに何がいるのか?入れ替わり立ち替わり人が腰をかがめているので行ってみたら、豆柴?でした。
霊園の犬。
犬好きが集まるので、みんなに可愛がられていました。

次男と姪も「かわいい💞」と、相手をしていました。

メイは賢くて大人しく、無駄吠えはしたことがありませんでした。

隣の部屋の水が欲しいときは、ドアの前まで行って「ワン」と小さな声で一声吠えて、開けてくれるまでじっと待っていました。
穏やかで、優しい犬。
私たち家族は本当にメイに癒やされていました。

エドワード エルガー(1857-1934年)
イギリス イングランド ロウアーブロードヒース生まれ、イングランド ウスター没

は、犬好きで有名でした。

身分違いで大反対された末に結婚した愛妻のアリスは、

犬嫌い。
彼女が生きているうちは犬を飼わせてもらえませんでした。

娘のキャリスも結婚して家を出て、
1920年、アリスが亡くなり、エルガーは犬を飼い出しました。

スバニエルのマルコ、テリアのミーナ、メグをかわいがっています。

愛犬が病気になると全ての仕事をキャンセルして看病し、

70歳のお誕生日記念でラジオ番組にでたときにはミーナにラジオから「Good night」と呼びかけました。

そして、1933年作曲 エルガー最後の作品は「ミーナ」
犬好き過ぎでしょう!



王宮の花火の音楽

2022-08-14 20:28:00 | バロック
今日は、母と姪を連れて祖母の墓にお参りしました。

お久しぶり。
昨日は父をお参りしました。
お盆らしいお盆です。

中国で狼煙として使われていた花火が日本に伝わり、1447年最古の記録は
京都の浄華院の法事で「薄 桔梗 仙翁花 水車」など風流ことを行った。とあるそうです。
「鼠」や「流星」のようなものが披露されました。
足利義教による日明貿易により持ち込まれました。

キリスト教の大分県の聖堂で1582年花火が催されました。
戦国時代は火薬の大量生産が行われ、戦争に利用され、江戸時代になるとあちらこちらで花火が上げられ、事故も多く幕府に禁止されるほどでした。

西洋では13世紀に伝わり、イタリアで生産されました。
16世紀になるとイングランドで花火の技術が大きく進歩します。1532年ヘンリー8世は王室軍隊の花火師を徴用するための規則を定め、戴冠式や王室の結婚式、誕生日などでテムズ川で水上花火を楽しみました。

1748年オーストリア継承戦争の終結のために開かれたアーヘンの和議を祝う祝典のために

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク侯領ハレ生まれ、グレートブリテン王国イングランド ロンドン没


によって作曲されたのが「王室の花火の音楽」HWV351です。

リハーサルは
ヴォクスホール ガーデンズ

を建築し、


その中で花火を上げました。
12000人が来場し、ロンドン橋で


未曾有の大渋滞を引き起こしました。
本番は1週間後、グリーンパークで行われましたが、花火がつかなかったり、パビリオンが焼け落ちるなど失敗で終わりました。



ヘンデルは1ヶ月後、孤児養育院の慈善演奏会でも演奏しました。
その時は軍楽隊ではなく、管弦楽版で演奏されました。



英雄の生涯

2022-08-13 21:23:00 | ロマン派
うちのきゅうりは続々できています。
おいしいです。
友だちに蜂蜜を入れて、フードプロセッサーにかけてメロンフレーバーをいれたら、メロンジュースになるよ。と聴いたのですが、まだジュースになるほどは採れていません。
今シーズンで試せるかな?

リヒャルト・シュトラウス(1864-1949年)
ドイツ連邦バイエルン王国ミュンヘン生まれ、ドイツ連邦共和国バイエルン州ガルミッシュ・パルテンキルヒェン没

ホルン奏者の父とビール鋳造業者の娘の母の元に育ち、ミュンヘン大学を経て、ハンス フォン ビューローの補助指揮者になり、ビューローが辞任すると後を継ぎます。

ワーグナーの影響を受け交響詩
「ドン・ファン」「ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
「ツァラトゥストラはかく語りき」を作曲します。

1898年最後の交響詩として「英雄の生涯」を書きました。
後はオペラに興味が移りました。

英雄はリヒャルト・シュトラウス本人のことではないか?と言われていますが、本人に聞いたところ「それを知る必要はない。」と言ったそうで、特定されていません。

彼は完成するまでは「英雄」エロイカと呼んでいて、ベートーヴェンの「エロイカ」と同じ変ホ長調で作曲されています。 

手紙で「最近ベートーヴェンのエロイカは人気がなく、演奏機会もへっている。だから自分が代わりになる曲をかいています。」と書いています。

断片的にベートーヴェンの「エロイカ」のフレーズが引用されています。

  1. Der Held (英雄)
  2. Des Helden Widersacher (英雄の敵)
  3. Des Helden Gefährtin (英雄の伴侶)
  4. Des Helden Walstatt (英雄の戦場)
  5. Des Helden Friedenswerke (英雄の業績)
  6. Des Helden Weltflucht und Vollendung der Wissenschaft (英雄の隠遁と完成)



フォーレ小ミサ曲(共作)

2022-08-12 20:43:00 | ロマン派
今日も暑いです。駅前の樹の下の影には鳩が集まっていました。
こう暑いと屋根や樹の上より、涼しいのかも。

川の中にはカラスが数匹いました。
直接水から涼を得る作戦です。

ガブリエル フォーレ(1854-1924年)フランス王国パミエ生まれ、フランス共和国パリ没
教師の息子、5男1女の末っ子に生まれ、リード オルガンにふれているうちに音楽の才能が開花し、9歳で音楽学校に入学、1861年にはそこに赴任したカミーユ サン・サーンスにピアノと作曲を学んでいます。
卒業後はオルガニストとして職を得ますが、1870年普仏戦争が勃発し従軍しています。

オルガニスト、ピアニストを経てフランス国立音楽演劇学校の教師になり、サン・サーンス、フランクとともにフランス音楽協会を設立しています。

青年期に古典的調性の崩壊期を過ごします。

その後に現れる無調性、12音階など新しい音楽との間に位置する作曲家です。

その頃起こったアール・ヌーヴォーとの関係が深く、フォーレ研究家として知られるジャン=ミシェル・ネクトゥーは、著書『ガブリエル・フォーレ』のなかで、同時代の文学者マルセル プルーストがフォーレの音楽に魅了されていたとし、プルーストとフォーレをともにアール・ヌーヴォーに属する芸術家として位置づけた上で、「そのまがりくねり互いに絡み合った長いフレーズと常時現れる花にまつわる主題は、まさに1900年の芸術を象徴するものである。」と述べています。



父を亡くしたあとに書いた「レクイエム」が有名ですが、
小編成の曲にも才能を発揮しています。
1881年ノルマンディー地方のヴィレルヴィル教会のためにつくられました。

ヴィレルヴィル漁夫協会のためのミサ(メサジェとの合作)
・キリエ
・グロリア
・サンクトゥス
・オ・サルタリス
・アニュス・デイ

アンドレ メサジェ(1853-1929年)フランス王国モンリュソン生まれ、フランス共和国パリ没

サン・サーンスに師事し、オルガニスト、作曲家。フォーレとピアノ連弾曲、バイロイトの思い出を共作しています。