音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ドリー

2022-11-10 08:42:00 | ロマン派
火曜日の朝は子育てサロン。
今日は、Y Y さん、SYさんがパネルシアターをしてくれました。

どんぐりころころのパネルをずっと以前に作っていましたが、一年にいい季節を選ぶと10月と11月くらいですが、10月の運動会は決まっているので今月しかありません。

歌いながらするだけではすぐに終わってしまうのですが、お話しと歌というふうにいい具合に膨らませてやってくれました。

子どもたちは繰り返しが大好きなのでどんぐりころころのお話し、喜んでくれていました。

最近入ってくれたSさんは、自作の絵本を読んでくれて、なかなか充実のサロンでした。

組曲「ドリー」はガブリエル フォーレがドビュッシー


の妻エンマ バルダック

の娘エレーヌ
が誕生した時に作った曲を中心にした組曲です。

1892年3歳のエレーヌに贈られています。

エンマ バルダックはユダヤ系の家庭に生まれ、銀行家のシジスモン バルダックと結婚。
ラウルとエレーヌという子どもを生みます。

フォーレとドビュッシーに求婚され、エンマは、シジスモンと別れます。

フォーレとの愛人関係を終えてから、長男ラウルがドビュッシーにピアノを
習います。

これが元でドビュッシーとエンマは愛人関係になり再婚します。

ドビュッシーの元妻が自殺未遂をしたり、紆余曲折ありましたが、エンマとドビュッシーの間にはその後、クロード エンマ(シュシュ)が生まれ、ドビュッシーは彼女を溺愛し、落ち着きます。

エンマの連れ子のエレーヌは、「ドリー」という愛称でフォーレにこの曲を贈られました。

第1曲『子守唄』はエレーヌ(愛称ドリー)を描写しています。

第2曲『ミアウー』は本来エレーヌが兄ラウルのことを「ムッシュー・ラウル Monsieur Raoull (ラウルお兄様)」と敬称を付けて言うはずが、幼い口で上手く言えずにメシュー・アウー Messieu Aoul!になってしまうことを描写した題名でした。
出版社の判断で猫の鳴き声に改められてしまいました。

フォーレは1883年画家の娘マリー フルミエと結婚。二人の男の子がいます。
1892年頃からエンマと浮名を流した後作曲家のアディーラ マディソンと親密になり1900年にはピアニストのマルグリット・アッセルマンとの出会い、これはフォーレが没するまで続く関係となっていきます。
彼はアッセルマンにパリのマンションを用意し、彼女は公然と彼の同伴者として行動しました。

マリーはこれを嫌がり、家に籠もり夫と行動をともにしませんでした。

二人の子どもたちは、生物学者、作家にそれぞれなり、活躍しました。

エレーヌはフォーレのこどもではないのか?という噂がありますが、決定的証拠はありません。




ポロネーズ

2022-11-09 08:20:00 | リズム
昨日は京都の後ら渡辺橋サロンドプリンシパルでフルートアンサンブルでした。

ダイビルはクリスマスイルミネーションできれいでした。

筑前橋からは6時前でもうこの通り。

この日は体験の方が二人来られて、久しぶりに五重奏。
実はいつもの処で会った今川さんをお誘いしました。
男性の加入希望者も来られてにぎやかになりました。

カーペンターズのトップ・オブ・ザ・ワールドを練習したあと、ボワモルティエのフルート五重奏を練習しました。
楽しかった〜!榎田先生も嬉しそうでした。

「ポロネーズ」は、フランス語でポーランド風という意味です。
「マズルカ」と並んで有名なポーランド由来の踊りのリズムのことです。
ゆっくりした4分の3拍子。

典型的な「ポロネーズ」は荘重でゆっくりしたリズムで、第1拍が16分音符で分割されています。

初期のものは二拍子のものもあります。

ポーランドの貴族の行列から始まったとされています。
16世紀後半ヨーロッパの他の宮廷で広まりました。

バッハ、ベートーヴェン、クサヴァーモーツァルト、ウェーバー、シューベルトも書いています。


ドイツの古都

2022-11-08 08:28:00 | 古典
F先生のレッスンに京都出町柳から、


バスに乗って今出川大宮へ。
レッスンが終わったら
出町柳商店街で

銀鮭ランチ。
ふたばは
行列この反対側もいっばい。
当分食べられません。

世界にも古都と呼ばれる場所があります。
ドイツではドレスデンが有名です。
7世紀にはスラブ人が住んでいました。
929年マイセン辺境伯爵領に入り、神聖ローマ帝国から通じるフランケン街道で商業が栄えました。
エルベ橋
がかけられ、辺境伯ハインリヒ貴顕公が居住したりしました。フランシスコ会の教会も建てられました。
1485年ザクセン選帝侯フリードリヒ二世の息子エルンストとアルブレヒトが領土を分割。
ドレスデンを与えられたアルブレヒトはザクセン選帝侯となり、宮廷都市として栄えることになります。

1711-1728年フリードリヒ アウグスト一世
が王になると、ツヴィンガー宮殿、


聖母教会
を建て、ピルニッツ宮殿


も増築するなど、後期バロック様式の建築を建て栄えました。

第二次世界大戦で爆撃により中心部はほぼ灰燼に帰しました。

バッハはドレスデンのザクセン選帝侯に音楽を捧げ、モーツァルトはピアノ協奏曲第26番「戴冠式」を自ら演奏し披露。
ウェーバーやワーグナーを生み、シューマンはこの地で傑作を何作も書きました。
 

ウォルガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)
神聖ローマ帝国ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没
ピアノ協奏曲第26番は1788年に完成しました。
大衆のための音楽を書けずに、予約可能演奏会が開けなくなっていました。

会員が集まらず、1789年ドレスデンのザクセン選帝侯フリードリヒ アウグスト3世

の后アマーリエ

の前でこの曲を披露しました。

1790年にフランクフルト アン マインの神聖ローマ帝国皇帝レオポルド二世


の戴冠式の祭典でフランクフルト市立大劇場、
続いてマインツ劇場で披露したため、「戴冠式」という名前で呼ばれるようになりました。

しかし、書いていて涙が出るほど借金を増やし、不首尾に終わったそうです。

しかも、ピアノパートをモーツァルトはあまり書いていず、出版者のヨハン アンドレによる補筆部分が多いそうです。







ブラームスの子守唄

2022-11-07 09:10:00 | ロマン派
レッスンで母の家に行くと母の弟が来るというので、そのまま待っているとやってきておしゃべり。
夕飯も一緒に食べました。
クラリネットを演奏し、中学生に音楽を長く教えていました。
ブラスバンドを指揮し、退職してからは市民ブラスバンドや、信愛大学の吹奏楽部を指導していました。

音楽をやり始めたのもこの叔父の影響かも。
楽しい時間を過ごしました。

ヨハネス・ブラームス(1833-1897年)自由ハンザ都市ハンブルク生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

の子守唄。
1868年ボンで友人のベルタ ファーバーの次男が生まれたときに作曲しました。
ベルタはブラームスが指導していた女性合唱団のメンバーで特に親しかったといいます。

クララ シューマンのピアノによって初演されました。

昨日、ご紹介した「少年の魔法の笛」の中の詩に音楽をつけました。

人気のために出版直後から多数の編曲が出されました。

民謡の一つと思っている人も多く、
ブラームスは出版社ジムロックに「病気の子供や悪ガキ用に、短調に書き直してみたらどうでしょう? それも版を増やす手段ですよ」と皮肉っぽく書き送っています。


子どもの不思議な角笛

2022-11-06 11:17:00 | ロマン派
夙川公民館で来週末の西宮ギター練習会コンサートのリハーサルでした。

11月12日(土)第19回夙川公民館ホール 13:00開演

ピアソラの「タンゴ組曲」の二人。

2つのギターのためのE.Fシュビドルのパストレルの二人。

それを見て指揮棒を振り出す本庄さん。
フルートのわたしとソルのファンタジーop54を合奏します。
他に私と岡山さんと、ドボルザークのソナチネop100。こちらは時間が取れなくてリハ無し。

広い会場で演奏するのは気持ちいい。

夙川公民館の前の川も紅葉が始まっていました。

ロマン派というのは、音楽だけの潮流ではありませんでした。
それまでの古典的、教条主義(独断や、教義を無批判に盲従する知的怠惰)に対し、
感情、不安、憂鬱、動揺、苦悩、個人的愛情を大きく扱いました。

キリスト教的なものから離れ、エキゾチズム、オリエンタリズム、神秘主義、自然主義な題材が好まれました。

語源はローマ帝国時代の貴族のローマ語に対しての庶民のローマ語、ロマンス語によります。
ギリシャ、ローマの古典に対しての庶民的なロマンス語を語源としています。

ドイツではゲーテに端を発しています。(ゲーテはロマン派に批判的でしたが)

ロマン派の中で芸術性を持った民衆詩を取り上げる流れがありました。

その中でルートヴィヒ アヒム フォン アルニムとクレメンス ブレンターノが収集した「少年の魔法の角笛」は3巻からなる民衆詩です。

1806-1808年に出版されました。

この詩集はドイツの「マザー・グース」と呼ばれています。

人気が沸騰し、音楽家たちがこの詩に音楽をつけました。

メンデルスゾーン、シューマン、カール・レーヴェ、ブラームス、ツェムリンスキー、ユリウス・ヴァイスマンが詩に作曲しました

特に多いのはグスタフ・マーラー(1860-1911年)オーストリア帝国ボヘミア王国 カリシュト生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

1892-1901年に作曲した「子どもの不思議な角笛」オーケストラ伴奏の歌曲集で

  • 番兵の夜の歌
  • 無駄な骨折り
  • 不幸な時のなぐさめ
  • この歌を作ったのは誰?
  • この世の営み
  • 死んだ鼓手(後に追加された)
  • 魚に説教するバドヴァの聖アントニウス
  • ラインの伝説
  • 塔の中の囚人の歌
  • トランペットが美しく鳴り響くところ
  • 高き知性への賛歌
  • 少年鼓手(後に追加された)

他にも「若き日の歌」の第二集、第三集
交響曲第2番、第3番、第4番がこの詩が使われていて「角笛交響曲」とも呼ばれています。

音楽だけにとどまらず文学、絵画など芸術全般に渡ったドイツロマン派の潮流の1つでした。


フルートオーケストラの愉しみ

2022-11-05 08:59:00 | 楽器
昨日はフルートアンサンブル エスカル11月13日(日)15:00開演
サロン ディ オルフェオ



の練習日。
私が参加できる最後の合わせでした。
2回目。

曲ごとにパートが変わり、席を変わるのですが、マ・メール・ロワの時に吹き出したら、どうも左右と違う音が…。
大失敗!違う場所に座っていたのでした。ありゃりゃ!
手を上げて「すみません。席を間違えました。」と自白。
一番前の2番目は、別の人が座っています。
席が1つ足りなかったのでした。
みんなが、慌てて席を足すやら、大移動になってしまいました。
大丈夫かなぁ?本番!
リハもあるから、まあ、なんとかなるさ。と自分を落ち着かせました。

低音フルートの写真を撮りました。

コンサートフルートと隣の少し長めのアルトフルート4度下

バスフルート 1オクターブ下

コントラバスフルート もう1オクターブ下まで使います。

他にもはファゴット、ドラ、ピアノ。

フルートオーケストラについては以前もご紹介しましたが、最近ではもっとたくさんの合奏が上がっているように思います。
今回は無いですが、まだこの下のサブコントラバスフルートもあります。

今回はこれで
モーツァルトの交響曲40番や、シュトラウスの「芸術家の生涯」、ドビュッシーの「マ・メール・ロワ」などなど演奏します。

私たちからすれば、低音は鳴っていますが旋律ではないので、どんな音なのか?わかりにくいとよく言われます。
クラッシック音楽ではないですが、わかりやすい動画見つけました。
初めのソロはバスフルートです。
その後ろにコントラバスフルートがサブコントラバスフルートが並んでいます。
わかるかな?






柿くへば

2022-11-04 09:04:00 | ロマン派
ご近所の友だちから、大量の熟し柿を頂きました。

「これでもまだ少しなのよ。
いっぱいもらったから、冷凍すると保つよ〜。」
「大丈夫、レシピだいぶ増えたから!」という訳でありがたい!
昨夜は柿ポタージュスープでした。

柿を実だけにして、手でとれました。
お湯にコンソメキューブを溶かし、じゃがいもをレンチンして、フードプロセッサーでマッシュにして、

鍋に柿とじゃがいもマッシュ投入。
塩コショウで味を整えたら出来上がり。
美味しいし、ビタミンもとれて身体に
いいらしい。

柿と言えば、
英語で、perssimon。
ちなみのクラッシック音楽は無いです。
中国原産、日本固有種もあり、東南アジアに広く分布しています。
意外にもスペインでよく消費されていて、今はヨーロッパの人たちも食べていますが、1800年代はまだ。


柿売り 武内桂舟1902年

柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺

有名な俳句に正岡子規(1867-1902年)日本伊予国温泉郡藤原新町生まれ、東京市下谷区上根岸没


が書いたものがあります。

情景描写の俳句かと思いきや、明治18年(1885年)、松山でお金に困っていた子規に夏目漱石が10円を貸します。 

ところが子規は東京にまっすぐ帰らずに関西で遊んで使い切ってしまいます。
子規は「人物見立帳」という本で漱石のことを「柿」と呼んでいます。

漱石から借りたお金を、松山から東京まで保たずに、奈良で使い切ってしまいましたよ。

という俳句だそうです。(半藤一利)

もう子規ったら〜!

クラッシック音楽家でも借金踏み倒した人は様々います。
しかし、何と言っても1番は
リヒャルト・ワーグナー(1813-1883年)ザクセン王国ライプツィヒ生まれ、イタリア王国ヴェネツィア没
哲学と音楽を学ぶつもりで入ったライプツィヒ大学で酒場に入り浸り、ギャンブルにはまります。
23歳で結婚した女優のミンナ プラーナ

と、贅沢に暮らし、職を失い、
膨れ上がった借金を踏み倒して夜逃げ。

ロンドンに密航しましたが、悪天候で3週間海の上でさまよいます。
この体験をもとに書かれたのが「さまよえるオランダ人」
です。

その上演に協力したジャコモ マイアベーア(1791-1864年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領ベルリン生まれ、フランス帝国パリ没。

裕福なユダヤ人の銀行家の息子だった彼はワーグナーに資金援助も惜しみませんでした。
ワーグナーはオぺラ座に推薦を頼みます。マイアベーアは快く引き受けますが、うまく行きませんでした。
すると、手のひらを返してワーグナーは手紙で彼を「計算ずくのペテン師」と呼び、ユダヤ人、銀行家、マイアベーア嫌いになりました。

後には、ルートヴィヒ王に作品を愛され、オペラ上演のためのお城や舞台、資金を湯水のように使わせ、国を傾けました。

オペラ「さまよえるオランダ人」

ノルウェーのフィヨルドに現れた幽霊船の船長のオランダ人は
「呪いを受け7年に一度上陸できるが、乙女の愛を受けなければ呪いは解かれず、死ぬことも許されずに永遠に海をさまよわなければならぬ」と言います。

居合わせたゼラントは娘を引き合わせることを約束します。

ゼンタはエリックという青年に愛されているのにも関わらず、オランダ人の不幸を聴き、肖像画を見て思いを募らせます。

ゼンタがオランダ人と会おうとすると、エリックが来て止めようとします。
それを見て、オランダ人は裏切られたと思い去ろうとします。

するとゼンタは岩の上から自分の彼への愛を叫び、海に身を投げます。



ゼンタの純愛を受け、呪いがとけ、幽霊船は沈没し、二人の魂は浄化し、昇天します。


イギリスの戴冠式で演奏される曲

2022-11-03 09:04:00 | バロック
刈り入れも終わって、稲の切株が剥き出しです。

里山も寂しくなって来ました。

ゲオルク フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領ハレ生まれ、グレートブリテン王国イングランド ロンドン没

ハレの大聖堂のオルガニスト(1年契約)としてキャリアをスタートさせました。
ハレ大学ではテレマン


に出会い、終生つきあいがありました。

ハンブルクに出て、早やオペラを成功させました。3つのオペラを作曲しました。

1706年イタリアを旅行。
4年の間にフェレンツェ、ローマ、ヴェネツィア、ナポリを訪れました。

ナポリでオペラを書き、コレッリ


スカルラッティ


に会っています。

スカルラッティとはオルガンとチェンバロを競演し、オルガンの演奏では彼を圧倒し、チェンバロは評価がわかれました。

ヴェネツィアでもオペラを上演しています。

帰国し、25歳でハノーファー公の宮廷オルガニストになります。

翌年ロンドンを訪れ、オペラを大成功させて、一度ハノーファーに戻りますが、契約を無視して、翌年ロンドンに移住。

1714年アン女王が亡くなり、ハノーファー公がジョージ2世として王位に付きます。

契約違反を咎められることもなく、友好な関係を築きます。

ロンドンでオペラを上演するなど成功し、1723年王室礼拝堂つき作曲家に任じられます。
1727年イギリス国籍を取得し、ジョージ2世

の戴冠式に「戴冠式アンセム」を上演しました。
「戴冠式アンセム」とは、ロンドンのウェストミンスター教会

で行われた戴冠式のための曲で

1.『司祭ザドク』HWV 258
2.『汝の御手は強くあれ』HWV 259
3.『主よ、王はあなたの力に喜びたり』HWV 260
4.『わが心は麗しい言葉にあふれ』HWV 261

からなる式典用の曲です。
戴冠式の式次第により演奏されました。
今では全曲は演奏されませんが、以来歴代から現代に連なるイギリス王室で、戴冠式には必ずこの中の「司祭ザドク」が演奏されます。

司祭ザドクは旧約聖書に出てくる人物で、ソロモン王に香油を注いだと言われています。

歌詞は、

司祭ザドクと預言者ナタンはソロモン王を聖別せり。
諸人すべてこれを祝賀して曰く、
神よ王を護り給へ!王に長寿あれ!
王の末永からむことを、
アーメン、アレルヤ。

ヘンデルは、「マカベウスのユダ」の中の「見よ!勇者の帰還」が運動会の授与式に使われたり、「水上の音楽」「王宮の花火の音楽」
「メサイア」から「ハレルヤ」など現代でも身近で知られている曲が多くあります。

この「司祭ザドク」は王室だけでなくロンドンオリンピックの開会式や、UAEAサッカーチャンピオンズリーグの入場曲にもなっています。


四季 11月の曲

2022-11-02 09:14:00 | ロマン派
11月になって、さすがに肌寒くなってきました。


桜の並木も寒そうと、思ったら、花が所々に咲いています。

もちろん多くはないです。



一本にニつか三つ。

撮影会になりました。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

「四季」の11月。
サンクトペテルブルクの音楽雑誌月刊誌「ヌーヴェリスト」に連載されたチャイコフスキーのピアノ曲と詩のコラボの中の一曲。

11月は「トロイカ」です。

詩はニコライ ネクラーソフ(1812-1878年)

ウクライナの落ちぶれた貴族の息子として生まれ、父の遺志に背き軍隊ではなく、ペテルブルク大学の文科の聴講生になりました。
仕送りを断たれ文筆の仕事を探しました。プーシキンの雑誌の発刊者になるなど成功していきました。

ロシアの、農民の苦しみに共感する作品を書いています。

ボロディンや、ムソルグスキーが彼の詩に曲をつけています。

「トロイカ」は、3頭立ての馬車のことです。郵便馬車や、荷役に使われました。


「トロイカ」

遥かな道を眺めて憂うな

トロイカの後を追うな

胸の内の哀しい予感は

かき消してしまいなさい



「月への旅行」その収益は?

2022-11-01 09:05:00 | 古典
昨日、1902年製作の「月世界旅行」の動画を上げて、続いてオッフェンバックの音楽を投稿しようとしたらできなかったので、今日は、オッフェンバック音楽の一部を上げました。

昨日は混乱された方も多かったのではないでしょうか。
ごめんなさい。

全体の構成は下記の通り
なかなかの大作です。

Le Canon (カノン) – この作品のシーンを示す 12 枚のステレオ カードのセットの 1 つ (1885 年頃)

「月への旅」
序曲
第1幕
第1場 カプリス王子
第2場 天文台にて
第3場 鍛冶場で
第4場 出発

第2幕
第5場 月
第6場 到着
第7場 ガラスの宮殿  
第8場 螺旋
第9場 公園にて
第10場 徘徊
第11場 コスモスの庭

第3幕
第12場 相談
第13場 市場
第14場 太鼓腹の国
第15場 零下50度

第4幕
第16場 りんご持ちの投獄
第17場 氷河
第18場 クレーター
第19場 火山の内部
第20場  噴火
第21場 灰の雨
第22場 噴火後の火山の中心
第23場 地球の光 フィナーレ 
地球よあなたに敬意を表します。

劇場の収入は 7 回目の公演で 10,018 フランを超えました。
1875 年から 1876 年にかけての 7 つのパリの冬のレビューは、
「 月の旅行者 、 月を見に行きましょう! パリの月!」というものでした。

オッフェンバックはその年のうちに4曲を書き足しました。 

1876 年 4 月 15 日にロンドンのアルハンブラ劇場で、1876年 4 月 16 日にウィーンのアン デア ウィーン劇場でも上演されました。

ゲテ劇場での公演は、1876 年 4 月 25 日に185 回の公演とチケットの領収書で 965,000 フランが支払われました。

諸説ありますが、18世紀1フラン1000円位らしいので9億6500万円。

1877 年 3 月 31 日からシャトレ劇場で 1 年以内に復活し、元のキャストの多くが出演しました。

2 か月後、226,457 フラン(2億26457円)のチケット収入を得て、1877 年 5 月 31 日が 247 回目、最後の公演となりました。

大成功ではないでしょうか。
当時としては一大ムーブメントになりました。

序曲 ブラスバンドで演奏されています。