苔テラリウムを母に紹介すると、「創りたい。」というので、苔を用意しました。
買いに来ました。
母、散々見て、「家にあった。」…
あぐり道の駅まで行ってお昼ごはんを食べて
お茶して、帰って苔テラリウムを作りました。
後は容れ物。
小さなガラスの容れ物ではなく、もっと大きな物でやりたいというので、
買いに来ました。
母、散々見て、「家にあった。」…
「えっ!?」
あぐり道の駅まで行ってお昼ごはんを食べて
大津パーキングエリアで
お茶して、帰って苔テラリウムを作りました。
フランツ レハール(1870〜1948年)オーストリア=ハンガリー帝国コマーロン生まれ、オーストリア パート・イシュル没
ドイツ人の両親のもとにハンガリーのコマーロムに生まれました。
父のフランツはスロバキアへの植民者でしたが、軍楽隊として帝国内に転勤しました。母クリスティーネはハンガリーへの植民者でした。
プラハ音楽院でドヴォルザークに学び軍楽隊長を経て、ウィーンでオペラッタ作曲家としてデビューしました。
1905年「メリーウィドウ」で一躍人気作曲家となりました。
様々な喜劇を書きましたが、特に1925年初演の「パガニーニ」1927年「ロシアの皇太子」、そして1929年の「微笑みの国」はこれまでのオペレッタにはない悲劇的結末が用意されています。
これらはレハールの独特のウィンナ・オペレッタ路線を象徴する傑作です。
しかし、この路線はウィーンでは必ずしも歓迎されず、上演拠点はベルリンに移されました。
1938年にナチス党率いるドイツがオーストリアを統合しました。
レハールの妻ゾフィーがユダヤ人の生まれであったにも関わらず、ナチス政権からの庇護を受けましたが、その後新作を発表することはありませんでした。
1945年に第2次戦世界大戦が終結し、オーストリアが復活して3年後の1948年に亡くなりました。
レハールがドイツのナチス党の庇護を受けたのは、ヒトラーが「メリーウィドウ」を好きだったからです。
レハールはメリーウィドウのスコアをヒトラーに送っていて、その関係が伺われます。
「微笑みの国」の台本を担当し「君こそわが心のすべて」を作詞したユダヤ人作家フリッツ レーナー=ベーダはナチスと親しいレハールを頼って強制収容所送りを免れようとしました。
しかし、彼はナチスに妻のことを持ち出されて、この件に口出しすることを禁じられ、結果レーナー=ベーダは強制収容所に送られて、1944年に死亡しました。
以降、レハールは終戦まで沈黙を余儀なくされました。
彼は政治に関してはほとんど無関心であったにも関わらず、戦後もこの一件によって「ナチスの協力者」としてオーストリア及び西ドイツで非難され続けることとなりました。
1929年作曲オペレッタ「微笑みの国」
その頃、西洋を席巻していたオリエンタリズムを背景に作曲されました。
現実の東洋ではなく、大雑把な東洋イメージによるものをもとに創作されました。
台本はヴィクトール レオンの「黄色いジャケット」新台本の詞の改作はルードヴィヒ ヘルツァとフリッツ レーナー=ベーダでした。
ほほえみの国
第1幕
リヒテンヘルス伯爵令嬢リーザは美しく活発で多くの崇拝者に囲まれる人気者です。
実は中国の外交官スー チョン殿下に思いを寄せていました。
しかし、殿下は東洋人のたしなみで感情を表に出さず、常に「微笑むのみ」でした。
パーティーの途中電報が入り、殿下は本国で首相に指名されたため、急遽本国に帰ることになりました。
別れの間際リーザと殿下はお互いの思いを告白し、リーザは殿下について中国に行くことを決心しました。
第2幕
中国に着いたリーザを待っていたのは、殿下の叔父チャンに体現される中国のしきたりです。
リーザの味方は殿下の妹ミィーでした。しきたりで、夫の首相就任式に出られないと悲しむリーザを慰めます。
そこへウィーンからグスタフが宮殿にやってきます。リーザに中国のしきたりによって殿下は4人の女性と結婚すると知らせに来たのです。
動揺するリーザは殿下を問い詰め、形式上の結婚だという殿下に対して、私は裏切られたといって逃げようとしますが、リーザは軟禁されてしまいます。
第3幕
後宮に軟禁されたリーザは、もはや殿下を愛することができなくなりました。
ミィーが兄との関係修復を進めても首を縦に振りませんでした。そこで、ミィーはグスタフを後宮に招き入れ、リーザを脱出させようとします。
そこを殿下に見つかり引き止められますが、彼女は「この環境に我慢できない。国に帰ることを許して」と言います。
殿下はグスタフにリーザを故郷に連れて行くように頼み、涙を流すミィーを慰めながら「悲しみも微笑みの下に隠すのだ。」と言ってリーザを見送るのでした。