最後の将軍の孫として生まれ、慶喜公の思い出の残る小石川第六天町の三千坪のお屋敷で少女時代を送った著者の回想録。
高松宮妃となる姉の盛大な婚儀、夏休みの葉山や軽井沢へのお転地四季折々の行事や毎日の暮らしなど、
日記をもとに多感な青春の日々をつづる。戦前の華族階級の暮らしの貴重な記録。
大河ドラマ「青天を衝け」を観ている。大河ドラマを観るのはほんとに久しぶり。
そりゃあもちろん草彅剛さんの演じる徳川慶喜が観たかったからね。
そこから、恥ずかしながら歴史に疎い私は徳川慶喜のことが気になりはじめた。
まずは司馬遼太郎さんの「最後の将軍」を読み、次に手に取ったのが本書。
全くかけ離れた世界が私の生まれるずっと以前にあったのかと。
まるで想像がつかないから、ひとつの小説を読むような感覚で読み終えた。
三千坪の敷地に建坪一千坪の日本屋敷、常時50人の人が働いていた敷地内に
その人たちの長屋が建っていたというのだから、なんともかんとも。
掲載されていた見取り図と見比べながら、皮廊下はどこ畳廊下ってとお二方の部屋って
など探していたが、あまりに広くて探すも大変ですぐに止めた。まあすごい。
その暮らしぶりの象徴と思えるエピソード。
「自分のことは自分でしなさい」
学校ではそう言われていたのに、このころの私たちは自分のことを自分でしなかった。
母は「自分でお召をたたむような家には、嫁にやらないよ」と常々言われていたし、
お付きの人は黙っていても何でもしてくれたし、私たちは、「そういうものだ」と思い込んでいたのだ。
おたた様とよんでいたお母さまは有栖川宮家から嫁いできた方。
「自分でお召をたたむような家には、嫁にやらないよ」
ご自分も幼少のころからそのような生活をしてきたのでしょうね、きっと。雲の上の話。
(慶喜公と姉喜久子さま webより拝借)
他にも
姉喜久子は高松宮妃に嫁ぐことが決まっていたので、母は、
「喜久さんは雲の上にお上がりあそばす方なのだから」
と姉のことには特別のご配慮がおありだったし、母が病気になって、
姉がお見舞いにいらっしゃったとき、母はハッとお目覚めになり、上げられないおつむを
無理に上げて起き上がろうとされ、
「君様がおいであそばしたのに眠って下りまして」とお詫びになったという。
ドラマがひとつ書けそうなエピソードだ。
ご主人に「昔をとる」ように言われた結婚生活や戦後の暮らしについても書かれているが、
やはり生き生きと書かれた少女時代の話が興味深かった。
祖父慶喜公については作者の生まれる8年前に亡くなられているので、
幼児の頃から祖父にお小姓として仕え、蟄居の頃もおそばにいた古沢から聞いた話が。
明治天皇が京都へ行幸になられるの知ると祖父は、静岡御通過の時刻に合わせて紋付羽織袴に威儀を正して
紺屋町の家の門に立ち、お召列車の音が聞こえなくなるまで門からは出ずに遥拝しておられたという。
小石川の邸に移った当時は、徳川宗家からの月々のお仕向けだけで暮らしを立てていた。
身辺も実につつましく、その暮らしぶりを知る人は「これが元将軍のお暮しか、おいたわしい」と嘆いたという。
この苦しい切り盛りを陰で支え、お家の基礎を作ったのが、一ツ橋家家臣でもあった実業家渋沢栄一翁だった。
「渋沢のご恩をお忘れになってはいけません」と古沢は常々言っていたそうだ。
外を歩かれるときは、どんな服装でも道の真ん中をまっすぐ歩かれ、たとえ水たまりがあっても
避けて通られることはなかったという。
夜、床に就くときは、「武士は右下の片寝をするもの」と幼少の頃の教えを守り、
晩年までずっと右を下にして休まれたそうだ。
これは完全に「最後の将軍」の慶喜像とダブる。
「これからの世に生きるには、女といえども手に職をつけたほうがいい」
慶喜公の言葉。当時にあってはずいぶん進歩的な考えの持ち主だったのね。
他にも作者の姉妹が書かれた本もあるようだから、今度はそちらも読んでみたい。