リスク社会という言葉は、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件から2001年の同時多発テロあたりを境にして、21世紀になってますますこの世を賑わしている言葉です。
このリスク社会とは一体どういう社会なのでしょうか?
リスク社会とは、現代のリスク問題、例えば環境問題や格差問題が、科学技術の進展や近代化の歴史的な流れから引き起こされたものと見なし、リスクをどのようにして、社会の誰に押しつけるかという「リスクの分配」の問題としてウルリヒ・ベックによって提唱され、第3の道のアンソニー・ギデンズやアフォーダンスの理論を提唱したニコラス・ルーマンに引き継がれた概念です。
なぜ、20世紀の末から21世紀になって現れたのかを理解するためには、とりわけルーマンによって強調されているように、リスクは自らが何かを選択し決定したことに伴う不確実性に関連し、それによって生じているということを理解する必要がありそうです。
昔からあった大きな自然災害に遭遇することの「リスク」は、これは自らが選択し決定した結果引き起こされたものではありませんから、危険(Danger)ではありますが、リスクではありません。
現在引き起こされている金融危機も、後で述べるように、このリスク社会のリスクの分配と不確実性が絡んだ問題と捉えることができそうです。
アダム・スミスの「神の見えざる手」や、ヘーゲルの「理性の狡知」といった言葉をお聞きになったことがあるかと思います。このイデオロギーは、マックス・ヴェーバーが言う資本主義を支える精神、つまりプロテスタンティズムの倫理に行き着きます。
誰が救済され、誰が救済されないのかは、全知全能の神が存在して、既に結論を出している、しかし、自分自身が救済されるのかどうかは、この世を生きる個人ははかり知ることができないため、結局は自らの自由な意志で個々の行為を選択していく以外にはない、これがリスク社会以前において、近代資本主義社会の勃興と隆盛を後押しした強力な思想でした。
しかしここには、まだ神の意志が見えざる手として働いており、神が実存していることが含意されております。
ところが、この神の実存が虚構化しそれを喪失した、まさに後期近代期になって初めてリスク社会が到来しました。つまり、近代社会を支えていたいわば「超越的存在」が不在のまま現出したのが、ここ10年あまりのリスク社会という訳です。
このリスク社会においては、特にグローバリズムが提唱される中で、真の意味での自己選択、自己責任が求められております。自分が自由であること、好きなこと、快楽を追求することがいわば強制され、規範にまでなっている社会と言えます。しかも、その規範のレベルが高いのです。
ギデンズは「再帰性」という、近代社会を理解する上での重要な概念を提起しましたが、これは近代社会ではどのような行為もその社会の規範を前提としており、その規範を絶えず反省し乗り越えようとすることが常態化しており、その結果、それまでの規範が不断に参照されつつ修正がなされる社会を意味します。
ところが、社会全体を構成するシステムの再帰性の水準が大きく上昇しているため、リスクの低減のために、そのシステムを変えようとする人間の自由な決定や選択それ自体が、新たなリスクの原因を作り込んでいくのが、現下のリスク社会の特徴と言えます。
「自分にあった好きな仕事で楽しく暮らしたい」、といった強迫観念とも言える考え方が、若者の間で流布しているのも、リスク社会がもたらした現象の1つです。そうは言っても、20歳やそこらの学校を出たての若者が、いきなり自分にあった仕事など見つけられる訳もありません。しかし、リスク社会からのそうした強制は強い。その結果、仕事も恋愛も何もかも、(規範レベルが高い)自分に合った最適の解を見つけようとするあまり、結局はそれが見つからずに大量のモラトリアム人間たるフリーターや未婚者を生み出しているという現実を招いており、それ自体が社会全体の将来リスクを増幅しております。
冒頭に、リスク社会とは「リスクの分配」の問題として、ウルリヒ・ベックによって提唱されていると書きました。これは例えば、環境問題というリスクの解決のために、原発の推進という別のリスクに分配されているという状況を見るとよく理解できます。
実は、環境問題が真に人類を危機に陥れるかどうかに関しては、未だに科学的に厳密な論証はありません。環境問題など存在しないと主張する学派も存在するくらいです。しかしこれまでの世界中での多くの議論を経て、概ね地球温暖化がもたらす災厄は将来あり得るとの認識に至っております。この環境問題の解決を、従来の近代社会型の民主主義的ルールで行うことは、実は、全くの無効となります。何故なら、環境問題が真に存在するなら、そのための解決策を「多数決」により中庸なものを実行しても効果はありません。もし存在しないなら、ましてやそのような中途半端な対策を行うのは無駄になります。
そこで、環境問題は概ね存在するという立場にたって、地球環境の壊滅的な悪化を防ぐために、例えば純粋に科学的な見地から、原子力による解決を図るという処方箋が採られたとすると、地球環境問題が、今度は原子力の安全性確保という面での新たなリスクに「分配」(=分散)されたことになります。風力発電の場合は、アメリカの1つの州に相当するほどの土地が、アメリカ1国のために必要となるリスクに分配(分散)されたことになります。更に、これにより食糧生産のための耕地が少なくなるという連鎖リスクにも分配(分散)されていきます。
今回のアメリカ発の金融危機のやっかいなところは、まさにこのようなリスク社会に潜む真のリスクを乗り越える「超越的存在者」が不在のところに、規範レベルを必要以上に上げてリスクを分配=分散してしまったことで、今のリスク社会のリスクそのものを図らずも正確に体現してしまったところにあります。
神の見えざる手や理性の狡知が不在であることを逆手に取って、金融テクノロジーや格付の神話に依拠し、実態経済規模を無視してレバレッジを上げて、10%を超えるような高いリターン(規範)を証券化手法で「リスクを分散=分配しながら、全ての金融世界の参加者が利益を追い求めた結果、それらの手法が本来は虚構であったが故に、そのリターン(規範)を乗り越え続けることが出来なくなったという現実に直面し、そのあまりに強い現実からのしっぺ返しを受けつつあるのが、今の世界の金融危機の実態だと思うのです。
このように後期近代社会に初めて登場したリスク社会の申し子である金融危機、超越的存在が不在の今、そうした認識がない(であろう)虚構の裏側のリアリティが見えないバーナンキやポールソンの手に負えるものとはとても思えません。
もしこうしたリアリティが見えていれば、そしていくばくかの「倫理」を未だ持っていたとすれば、ここまで住宅公社問題を意図的に放置できた筈はありません。
このリスク社会とは一体どういう社会なのでしょうか?
リスク社会とは、現代のリスク問題、例えば環境問題や格差問題が、科学技術の進展や近代化の歴史的な流れから引き起こされたものと見なし、リスクをどのようにして、社会の誰に押しつけるかという「リスクの分配」の問題としてウルリヒ・ベックによって提唱され、第3の道のアンソニー・ギデンズやアフォーダンスの理論を提唱したニコラス・ルーマンに引き継がれた概念です。
なぜ、20世紀の末から21世紀になって現れたのかを理解するためには、とりわけルーマンによって強調されているように、リスクは自らが何かを選択し決定したことに伴う不確実性に関連し、それによって生じているということを理解する必要がありそうです。
昔からあった大きな自然災害に遭遇することの「リスク」は、これは自らが選択し決定した結果引き起こされたものではありませんから、危険(Danger)ではありますが、リスクではありません。
現在引き起こされている金融危機も、後で述べるように、このリスク社会のリスクの分配と不確実性が絡んだ問題と捉えることができそうです。
アダム・スミスの「神の見えざる手」や、ヘーゲルの「理性の狡知」といった言葉をお聞きになったことがあるかと思います。このイデオロギーは、マックス・ヴェーバーが言う資本主義を支える精神、つまりプロテスタンティズムの倫理に行き着きます。
誰が救済され、誰が救済されないのかは、全知全能の神が存在して、既に結論を出している、しかし、自分自身が救済されるのかどうかは、この世を生きる個人ははかり知ることができないため、結局は自らの自由な意志で個々の行為を選択していく以外にはない、これがリスク社会以前において、近代資本主義社会の勃興と隆盛を後押しした強力な思想でした。
しかしここには、まだ神の意志が見えざる手として働いており、神が実存していることが含意されております。
ところが、この神の実存が虚構化しそれを喪失した、まさに後期近代期になって初めてリスク社会が到来しました。つまり、近代社会を支えていたいわば「超越的存在」が不在のまま現出したのが、ここ10年あまりのリスク社会という訳です。
このリスク社会においては、特にグローバリズムが提唱される中で、真の意味での自己選択、自己責任が求められております。自分が自由であること、好きなこと、快楽を追求することがいわば強制され、規範にまでなっている社会と言えます。しかも、その規範のレベルが高いのです。
ギデンズは「再帰性」という、近代社会を理解する上での重要な概念を提起しましたが、これは近代社会ではどのような行為もその社会の規範を前提としており、その規範を絶えず反省し乗り越えようとすることが常態化しており、その結果、それまでの規範が不断に参照されつつ修正がなされる社会を意味します。
ところが、社会全体を構成するシステムの再帰性の水準が大きく上昇しているため、リスクの低減のために、そのシステムを変えようとする人間の自由な決定や選択それ自体が、新たなリスクの原因を作り込んでいくのが、現下のリスク社会の特徴と言えます。
「自分にあった好きな仕事で楽しく暮らしたい」、といった強迫観念とも言える考え方が、若者の間で流布しているのも、リスク社会がもたらした現象の1つです。そうは言っても、20歳やそこらの学校を出たての若者が、いきなり自分にあった仕事など見つけられる訳もありません。しかし、リスク社会からのそうした強制は強い。その結果、仕事も恋愛も何もかも、(規範レベルが高い)自分に合った最適の解を見つけようとするあまり、結局はそれが見つからずに大量のモラトリアム人間たるフリーターや未婚者を生み出しているという現実を招いており、それ自体が社会全体の将来リスクを増幅しております。
冒頭に、リスク社会とは「リスクの分配」の問題として、ウルリヒ・ベックによって提唱されていると書きました。これは例えば、環境問題というリスクの解決のために、原発の推進という別のリスクに分配されているという状況を見るとよく理解できます。
実は、環境問題が真に人類を危機に陥れるかどうかに関しては、未だに科学的に厳密な論証はありません。環境問題など存在しないと主張する学派も存在するくらいです。しかしこれまでの世界中での多くの議論を経て、概ね地球温暖化がもたらす災厄は将来あり得るとの認識に至っております。この環境問題の解決を、従来の近代社会型の民主主義的ルールで行うことは、実は、全くの無効となります。何故なら、環境問題が真に存在するなら、そのための解決策を「多数決」により中庸なものを実行しても効果はありません。もし存在しないなら、ましてやそのような中途半端な対策を行うのは無駄になります。
そこで、環境問題は概ね存在するという立場にたって、地球環境の壊滅的な悪化を防ぐために、例えば純粋に科学的な見地から、原子力による解決を図るという処方箋が採られたとすると、地球環境問題が、今度は原子力の安全性確保という面での新たなリスクに「分配」(=分散)されたことになります。風力発電の場合は、アメリカの1つの州に相当するほどの土地が、アメリカ1国のために必要となるリスクに分配(分散)されたことになります。更に、これにより食糧生産のための耕地が少なくなるという連鎖リスクにも分配(分散)されていきます。
今回のアメリカ発の金融危機のやっかいなところは、まさにこのようなリスク社会に潜む真のリスクを乗り越える「超越的存在者」が不在のところに、規範レベルを必要以上に上げてリスクを分配=分散してしまったことで、今のリスク社会のリスクそのものを図らずも正確に体現してしまったところにあります。
神の見えざる手や理性の狡知が不在であることを逆手に取って、金融テクノロジーや格付の神話に依拠し、実態経済規模を無視してレバレッジを上げて、10%を超えるような高いリターン(規範)を証券化手法で「リスクを分散=分配しながら、全ての金融世界の参加者が利益を追い求めた結果、それらの手法が本来は虚構であったが故に、そのリターン(規範)を乗り越え続けることが出来なくなったという現実に直面し、そのあまりに強い現実からのしっぺ返しを受けつつあるのが、今の世界の金融危機の実態だと思うのです。
このように後期近代社会に初めて登場したリスク社会の申し子である金融危機、超越的存在が不在の今、そうした認識がない(であろう)虚構の裏側のリアリティが見えないバーナンキやポールソンの手に負えるものとはとても思えません。
もしこうしたリアリティが見えていれば、そしていくばくかの「倫理」を未だ持っていたとすれば、ここまで住宅公社問題を意図的に放置できた筈はありません。