中日新聞の日曜版「おじさん図鑑」に「雑談の楽しみ」というタイトルで、飛島圭介さんがエッセーを投稿されていました。
雑談は人の大きな楽しみの一つだ。
家でもどこでも、人が寄れば雑談が始まる。
考えてみれば、真剣な議論や政治会談、仕事の会議などを除いて、この世の会話はほとんどが雑談といえるのではないか。
新型コロナウィルスの感染予防のため、人が寄り集まるのを自粛(事実上の禁止)せよとのことだったから、長い間、人々は雑談ができなかった。
電子機器を使ったオンライン何とかで、画面を通して語り合う仕組みが普及したようだが、あれでも雑談はできる。
しかし、おじさんにとって画面上の人は現実感が乏しく、気持ちが解け合うことはない。
やはり同じ場所に寄り集い、その場の空気を共にしないと「談論風発」というわけにはとてもいかない。
約二年に及ぶ自粛生活に飽きて路上飲みに走った若い人たちは、雑談に飢えていたのだと思う。
酒はたんなる雑談の触媒にすぎない。
感染の危険を冒してまで人は雑談したいのだ。
日常生活とは雑談生活のこと。
雑談はその場で消費され、会話の詳細は記憶に残らない。
楽しかったという思いだけが記憶される。
だから雑談は生きていくために必要不可欠で、けして無駄話などではない。
以上です。
>雑談はその場で消費され、会話の詳細は記憶に残らない。
楽しかったという思いだけが記憶される。
だから雑談は生きていくために必要不可欠で、けして無駄話などではない。
私も雑談は楽しいと思います。
ただ私は人見知りが激しいので、なかなか雑談ができるような仲間を作る事が出来ません。
学生時代もすぐに雑談ができるような友達は出来ませんでした。
雑談できるような友が出来たと思ったら学年が変わり、また新しい環境に慣れるまで雑談する相手が出来ませんでした。
仕事を辞めてからは雑談する相手は、家族や親戚を除いて皆無です。
まぁ私は孤独に慣れていますので、それほど雑談相手が欲しいとは思っていません。
今はブロ友さんとネットフリックスに癒されています。☺️
Dio, come ti amo