第63回ピースボート・地球一周の船旅6
マッサワ=エリトリア編
10/5
13:30
マッサワ港に着岸した。
昨今、ソマリア沖で海賊が出没しているので陸地に近い北より航路を選んだため少し遅れた。
インド洋からアデン湾に入るとアラビア半島が見えて来た。
砂漠を見るのは初めてだ。
緑色のない、薄褐色=クリーム色の大地が低く延々と続いている。
所々水平線が白くなっている。そこは島で、波が打ち寄せて白いらしい。
イルカ・鯨と時々遭遇する。
海にたくさんの水があり、どんどん蒸発しているのだろうに、この地には雨の恵みが少ない。
14:30分過ぎにオプションツアー『港町マッサワ巡りと機関車乗車体験』に出かけた。
この鉄道は、かつての宗主国イタリアが港町マッサワの桟橋近くから
高地の首都アスマラまでを敷設したそうだ。
現在は道路が作られ、道路の方が早いので、鉄道は使われていないそうで、
我々のために蒸気機関車を走らせたそうだ。
しかし、十分なメンテナンスが行われていないためかは不明だが、
機関車の水や十分な空気が不足したために、途中で何度もストップして、
当初45分の予定が2時間以上もかかってしまった。
【問題は、ジャパングレースの危機意識のなさだ。
高地に入り携帯は通じない、炎天下、水分の補給が不十分、高齢者も多い、
しかし、事故が起き無かったから良かったものの何の対応もしないのである、
ピ-スボート・ジャパングレースは、このクルーズ全般にいえることだが、
危機管理能力、アクシデントに対する応用能力がほとんど希薄なのである】
線路は砂漠地帯の真ん中を進み、だんだん高地に入っていく。
砂漠と言ってもサハラなどの砂漠と違って所々ブッシュが繁り、樹木も生えている。
住宅も点在する。
ブロックで作られたもの、木ぎれだけのもの、トタンで屋根・壁を作ってあるものなど。
山羊を牛やロバなどの家畜も飼っている。
放たれているらくだは野生なのか家畜なのかはわからない。
ワジ[雨が降ったときにできる川]の後と思われるものがあった。
それは所々わずかに水たまりを作り、ワジの幅はかなり広かった。
ここは、全くの無水地帯ではなく、雨が降ると大雨で濁流となって川となるのだろう。
汽車が通ると人々、特に子どもが手を振って寄ってきた。
汽車のスピードは20~30キロぐらいだろう。
途中らくだの死骸がいくつかあった。どうして死んだのかはわからない。
また、ソマリア難民のキャンプ地もあった。
屋根のビニール状のものには国連の名前があった。
線路はどんどん高地へと入るが、前方・四方には遙か遠くに山々・台地が横たわっていた。
あたかもアメリカの西部劇に出てくるような風景だ。
大気の温度は38度位らしい、日射しは刺すように強い。
私は特に目が痛かった。
それは紫外線の影響もあるだろうが、汽車に乗っていて乾いた空気が目に当たるためではないかと思った。
やっとの事で、汽車の終着点につき、帰りはバスで高速ユーターンだ。
新市街地のレストランで、エリトリアの食事とコーヒーを味わう。
夕方の5時近くになっていたので、慌ただしい食事であった。
エリトリアの主食はインジャラと言ってゴマに似た植物の種をひいて粉にしたものを薄く焼いたものだが、
発酵させてあり独特の酸味がある。
インドのようにいろいろなカレーをこのインジャラに包んで食べる。
現地の人は手で食べていた。
ツアリーダーは事前に、インジャラはおいしくないと言っていた。
だが食べてみると、非常においしいとは言えないが食べられないほどまずいものではなく、
汗をかいて疲れた体には、この酸味とカレーのスパイスは私には食せる味であった。
私にはインドのカレーよりは洗練されていておいしく感じた。
牛肉や魚などが入っているのでコクが出ているからではないかと思う。
コーヒーは、客をもてなすためのもので、入れ方には独特の作法があるそうだ。
かなり煮詰めたような濃い味・色で、砂糖をたっぷり入れて飲む。
ちょうど日本のぐい飲みカップくらいの大きさの器だ。
飲めないほどまずい訳でもないが、非常においしいと言うわけでもなく、
私にはどことなく煤けたくすんだ感じの味であった。
だが、時間が無かったのでゆっくり食事を楽しんだり、
現地のウエイターなどに聞くゆとりは無かったのが残念だ。
慌ただしく食事を終えて、
殉職者追悼公園[ソ連製の三台の戦車のモニュメント]、
エチオピア皇帝の別荘跡地を見学した。
二つとも港の近くにある。植民地時代の銀行跡は暗くなってしまったのでその前を通っただけであった。
エリトリアは小さな国で、アフリカで一番若い国だ。
隣接するエチオピアは古代より大国だが、海に接していないため、古来より港・海外線を求めてきた。
この両国にはそうした争いがある。
特別な地下資源や産業があるわけでもないので、
大国はこの地に特別の利益がないためエチオピアとの国境紛争について傍観し、紛争が長引いてきた。
取り立てての観光地があるわけでもないので、海外の観光客の来訪も少ないらしい。
外国人は珍しいらしく、汽車の我々に大人も子どももにこやかに手を振ってくれた。
裸足の人が多く、服装はみすぼらしい。
だが、人々の表情はとても明るく、人なつこい。
汽車から見える住居の多くは、掘っ建て小屋、バラックでる。
子どもが多いと感じた。
学校は二部制らしいが、子どもが労働力としてだけ扱われるのは少ないようだ。
もちろん子どもは薪を広い、家畜の世話をしているようではあるが。
中には街を一人で歩いて子どもに囲まれ、お金を要求された人もいたようだがそれは少ないらしい。
また、観光客慣れしていないので、子どもや大人が「ワンダラー」と土産品を売りに来ないのはまことにいい。
エリトリアはまだまだ発展途上の国で、社会的インフラは非常に遅れているし、
産業も十分には発展していないようだし、従って観光業者・ガイドもいないらしい。
我々が訪れたのは日曜日で、英語を話すことのできる比較的エリート層の人たち、
たとえば教師や水道局の人たちがガイド役をやったくれたそうだ。
そんな一人がしきりに言った。
「たった一日の滞在は不満だ、是非首都も見てほしい」と。
私は彼女が、砂漠で決して豊かではないマッサワだけがエリトリアではなく、
豊かな首都アスマラも見てほしい、アスマラは高地にあり、気候もよいし、緑も多い、建物も立派だ、
その両方を見てほしい、と言っているように思えた。
貧しさだけでなく、未来に向かって進んでいるところもしっかりと見てほしいと言っているように感じた。
夜、ピースボートとエリトリア友好イベントがあった。
新市街地のシネマ広場・メインランドで開かれた。
たくさんのエリトリア市民・子どもが三々五々集まった。
ダンスや歌の交換、援助物資の贈呈が行われた。
エリトリアは独特な国造りを進めているらしい。
隣国の大国エチオピアの拝外主義にエリトリアの他民族が団結して抵抗戦争を戦ったと言う。
他のアフリカの多くでは、かつての宗主国は民族同士を分断・抗争させ統治した。
そして、独立を勝ち取った後、利権・権力を巡って同民族・身内だけを優遇したり、分裂し、抗争を激しく繰り返し手来た。
有力な地下資源や利権を持たないエリトリアではそうした争いも少なかった。
さらにエチオピアとの抵抗戦争で女性もともに銃を取って戦ったと言う。
このことは解放後も女性の発言権・活動を持続させ、民族間の分裂等防ぐのに良く作用したという。
エチオピアと戦争・緊張状態が続いているということから、
一党独裁・政治的民主主義が存在しない・報道の自由が無いなどの状態が続いている。
また、軍事力に多くの予算と人材を割かざるを得ないなどの困難にも直面していると言う。
中国の社会主義を参考にしているらしい。
いずれにしても国の舵取りは簡単ではない、と私は感じた。
我々は、紅海を北上し、スエズ運河に向かう。
マッサワ=エリトリア編
10/5
13:30
マッサワ港に着岸した。
昨今、ソマリア沖で海賊が出没しているので陸地に近い北より航路を選んだため少し遅れた。
インド洋からアデン湾に入るとアラビア半島が見えて来た。
砂漠を見るのは初めてだ。
緑色のない、薄褐色=クリーム色の大地が低く延々と続いている。
所々水平線が白くなっている。そこは島で、波が打ち寄せて白いらしい。
イルカ・鯨と時々遭遇する。
海にたくさんの水があり、どんどん蒸発しているのだろうに、この地には雨の恵みが少ない。
14:30分過ぎにオプションツアー『港町マッサワ巡りと機関車乗車体験』に出かけた。
この鉄道は、かつての宗主国イタリアが港町マッサワの桟橋近くから
高地の首都アスマラまでを敷設したそうだ。
現在は道路が作られ、道路の方が早いので、鉄道は使われていないそうで、
我々のために蒸気機関車を走らせたそうだ。
しかし、十分なメンテナンスが行われていないためかは不明だが、
機関車の水や十分な空気が不足したために、途中で何度もストップして、
当初45分の予定が2時間以上もかかってしまった。
【問題は、ジャパングレースの危機意識のなさだ。
高地に入り携帯は通じない、炎天下、水分の補給が不十分、高齢者も多い、
しかし、事故が起き無かったから良かったものの何の対応もしないのである、
ピ-スボート・ジャパングレースは、このクルーズ全般にいえることだが、
危機管理能力、アクシデントに対する応用能力がほとんど希薄なのである】
線路は砂漠地帯の真ん中を進み、だんだん高地に入っていく。
砂漠と言ってもサハラなどの砂漠と違って所々ブッシュが繁り、樹木も生えている。
住宅も点在する。
ブロックで作られたもの、木ぎれだけのもの、トタンで屋根・壁を作ってあるものなど。
山羊を牛やロバなどの家畜も飼っている。
放たれているらくだは野生なのか家畜なのかはわからない。
ワジ[雨が降ったときにできる川]の後と思われるものがあった。
それは所々わずかに水たまりを作り、ワジの幅はかなり広かった。
ここは、全くの無水地帯ではなく、雨が降ると大雨で濁流となって川となるのだろう。
汽車が通ると人々、特に子どもが手を振って寄ってきた。
汽車のスピードは20~30キロぐらいだろう。
途中らくだの死骸がいくつかあった。どうして死んだのかはわからない。
また、ソマリア難民のキャンプ地もあった。
屋根のビニール状のものには国連の名前があった。
線路はどんどん高地へと入るが、前方・四方には遙か遠くに山々・台地が横たわっていた。
あたかもアメリカの西部劇に出てくるような風景だ。
大気の温度は38度位らしい、日射しは刺すように強い。
私は特に目が痛かった。
それは紫外線の影響もあるだろうが、汽車に乗っていて乾いた空気が目に当たるためではないかと思った。
やっとの事で、汽車の終着点につき、帰りはバスで高速ユーターンだ。
新市街地のレストランで、エリトリアの食事とコーヒーを味わう。
夕方の5時近くになっていたので、慌ただしい食事であった。
エリトリアの主食はインジャラと言ってゴマに似た植物の種をひいて粉にしたものを薄く焼いたものだが、
発酵させてあり独特の酸味がある。
インドのようにいろいろなカレーをこのインジャラに包んで食べる。
現地の人は手で食べていた。
ツアリーダーは事前に、インジャラはおいしくないと言っていた。
だが食べてみると、非常においしいとは言えないが食べられないほどまずいものではなく、
汗をかいて疲れた体には、この酸味とカレーのスパイスは私には食せる味であった。
私にはインドのカレーよりは洗練されていておいしく感じた。
牛肉や魚などが入っているのでコクが出ているからではないかと思う。
コーヒーは、客をもてなすためのもので、入れ方には独特の作法があるそうだ。
かなり煮詰めたような濃い味・色で、砂糖をたっぷり入れて飲む。
ちょうど日本のぐい飲みカップくらいの大きさの器だ。
飲めないほどまずい訳でもないが、非常においしいと言うわけでもなく、
私にはどことなく煤けたくすんだ感じの味であった。
だが、時間が無かったのでゆっくり食事を楽しんだり、
現地のウエイターなどに聞くゆとりは無かったのが残念だ。
慌ただしく食事を終えて、
殉職者追悼公園[ソ連製の三台の戦車のモニュメント]、
エチオピア皇帝の別荘跡地を見学した。
二つとも港の近くにある。植民地時代の銀行跡は暗くなってしまったのでその前を通っただけであった。
エリトリアは小さな国で、アフリカで一番若い国だ。
隣接するエチオピアは古代より大国だが、海に接していないため、古来より港・海外線を求めてきた。
この両国にはそうした争いがある。
特別な地下資源や産業があるわけでもないので、
大国はこの地に特別の利益がないためエチオピアとの国境紛争について傍観し、紛争が長引いてきた。
取り立てての観光地があるわけでもないので、海外の観光客の来訪も少ないらしい。
外国人は珍しいらしく、汽車の我々に大人も子どももにこやかに手を振ってくれた。
裸足の人が多く、服装はみすぼらしい。
だが、人々の表情はとても明るく、人なつこい。
汽車から見える住居の多くは、掘っ建て小屋、バラックでる。
子どもが多いと感じた。
学校は二部制らしいが、子どもが労働力としてだけ扱われるのは少ないようだ。
もちろん子どもは薪を広い、家畜の世話をしているようではあるが。
中には街を一人で歩いて子どもに囲まれ、お金を要求された人もいたようだがそれは少ないらしい。
また、観光客慣れしていないので、子どもや大人が「ワンダラー」と土産品を売りに来ないのはまことにいい。
エリトリアはまだまだ発展途上の国で、社会的インフラは非常に遅れているし、
産業も十分には発展していないようだし、従って観光業者・ガイドもいないらしい。
我々が訪れたのは日曜日で、英語を話すことのできる比較的エリート層の人たち、
たとえば教師や水道局の人たちがガイド役をやったくれたそうだ。
そんな一人がしきりに言った。
「たった一日の滞在は不満だ、是非首都も見てほしい」と。
私は彼女が、砂漠で決して豊かではないマッサワだけがエリトリアではなく、
豊かな首都アスマラも見てほしい、アスマラは高地にあり、気候もよいし、緑も多い、建物も立派だ、
その両方を見てほしい、と言っているように思えた。
貧しさだけでなく、未来に向かって進んでいるところもしっかりと見てほしいと言っているように感じた。
夜、ピースボートとエリトリア友好イベントがあった。
新市街地のシネマ広場・メインランドで開かれた。
たくさんのエリトリア市民・子どもが三々五々集まった。
ダンスや歌の交換、援助物資の贈呈が行われた。
エリトリアは独特な国造りを進めているらしい。
隣国の大国エチオピアの拝外主義にエリトリアの他民族が団結して抵抗戦争を戦ったと言う。
他のアフリカの多くでは、かつての宗主国は民族同士を分断・抗争させ統治した。
そして、独立を勝ち取った後、利権・権力を巡って同民族・身内だけを優遇したり、分裂し、抗争を激しく繰り返し手来た。
有力な地下資源や利権を持たないエリトリアではそうした争いも少なかった。
さらにエチオピアとの抵抗戦争で女性もともに銃を取って戦ったと言う。
このことは解放後も女性の発言権・活動を持続させ、民族間の分裂等防ぐのに良く作用したという。
エチオピアと戦争・緊張状態が続いているということから、
一党独裁・政治的民主主義が存在しない・報道の自由が無いなどの状態が続いている。
また、軍事力に多くの予算と人材を割かざるを得ないなどの困難にも直面していると言う。
中国の社会主義を参考にしているらしい。
いずれにしても国の舵取りは簡単ではない、と私は感じた。
我々は、紅海を北上し、スエズ運河に向かう。