風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

パッチギ

2006年01月18日 | 映画
1/17『パッチギ!』を見た。有楽町シネキャノン。

諸賞受賞記念と言うことでチケットは1000円。観客数は、15:50からといえ15名。

第79回キネマ旬報ベスト・テンで、▽日本映画ベスト・ワン「パッチギ!」▽監督賞 井筒和幸「パッチギ!」▽新人女優賞 沢尻エリカ「パッチギ!」などを受賞。
映画はおもしろかった。
しかしケンカが嘘っぽい。
映画にはリアリズムだけ求めはしないが、ブロック・鉄下駄・金属バットで殴り合ったら死んでしまうし、ひん死と思われる大けがをしても、次の画面では、絆創膏だけで登場、では興ざめ。
1960年代後半[この映画の時代]は、世界が大きく変動していた。
ベトナム反戦、パリ5月革命、中国プロ文革、そして朝鮮南北統一。
特に、朝鮮問題は日本人のありようを問うていた。
南北とも軍事独裁体制であったが、北朝鮮・共和国は世界の“悪”=アメリカと戦っている。他方韓国はそのアメリカのいわば属国、ということで、共和国の方に歩があり、“希望”の国であった。
在日朝鮮人は祖国共和国への財政支援と将来の帰国を夢みていた。
在日の人々も総連、民団と分裂・対立していたが、双方とも日々失われかねない在日3世・4世のアイデンティティ確立のために民族教育に熱心であった。

しかし、日本の右翼・保守(自民党)は、台湾・韓国派であって、共和国はいわば「敵」であり、ことあるごとに抑圧した。
東京でも、医学部ができる前の帝京高校は、とても評判の悪い高校で、近くにある朝鮮高校生徒への暴力事件を起こしていた。
帝京側が初めは悪いのだが、朝高も自己防衛を始め、暴力事件が日常化していく。
ケンカ両成敗と言うことにはならない。
なぜって、警察は日本人の見方だし、マスコミも正しくは報道しない。
いつしか、朝高は怖いというイメージが作られていった。
「イムジン河」の歌が放送禁止になる時代であった。
フォーク・クルセダーズのこの哀愁を帯びた歌は、当時多くの人に口ずさまれた。

時代は変わったと言うが、果たしてそう、いえるか?
北朝鮮の拉致事件が明らかになった時、在日朝鮮女子学生のチマチョゴリが切られ、汚された。

私が、一番印象に残ったのは、三人の朝鮮悪高校生の一人が日本人の暴力で殺され(直接の死因は交通事故だが)棺が彼の家に運ばれるシーンだ。
横のままの棺では、軒先がくぐらない。
縦にして軒先をくぐると、今度は入り口が狭くて棺が入らない。
掛け矢でドアを壊して入る。
このシーンには在日のそうした貧しい家に住まざるを得なかったこと、その悲しみ、それを強制した日本と日本社会への怒りへの象徴的表現、と私は思った。

下ネタはかまわないが、多すぎるとかえって興ざめになる。
セックスシーンも一カ所あったが、パンツ・オッパイなど見せる必要は全くない。

タイトルの“パッチギ”とは、「突き破る、乗り越える」という意味を持つハングル語で、「頭突き」の意味でもあるそうだ。
看護婦が主人公の彼女の出産の時、ケンカ中の彼を呼びに行く時に見せる華麗で、すごい“飛び蹴り”も“パッチギ”と言うのだろうか。
オダギリジョー、ハウンド・ドッグの大友康平、光 石研、笹野高司、余貴美子、前田吟、ぼんちなどお馴染みの顔が顔を出している。

崔洋一監督『血と骨』も在日を扱ったが、両方とも暴力シーンが激しく、これがかえって映画のシツを落としていると私は思うのだが、私としては『パッチギ』の方を押す。
『血と骨』の冒頭・最後のシーンは『ギャング・オブ・ニューヨーク』のパクリそのものだし、『血と骨』には何よりユーモアがない。
『パッチギ』の最後=後日談は必要なかった。
一人は朝鮮大学校に通学するが、一人は良きパパ、日本人の主人公は実家の坊さんをを継ぎ朝鮮人の彼女と恋人様、の映像は必要ない。
それがかつての日本の全共闘世代の今日の実像だとしても。
彼らのその後は、観客の創造力に任せた方が良い。

蛇足だが、女主人公・キョンジャの沢尻エリカが初々しくかわいい。


〇【男たちの大和】を昨年末見た。
試写券をもらったので見た。
映画としてはおもしろいが、全てが薄っぺらで、こんなモンだろうなと言う予想通りであった。
全編CGが多用されすぎで、映像に迫力=奥行きが無く、実物大で作ったと言われる大和もボール紙みたいな感じ。
ストーリーはありふれている。
息子を亡くした貧農の母親に、生き残った若者が戦士の報告に行く。
母親は「あなただけ生き残って」と彼を責める。
このセリフはリアリティなのだろうか。
私は、嘘っぽいな、と感じた。
違うセリフ、映像があったのではないか。



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