まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第25回中国四十九薬師めぐり~第42番「大日寺」(伯耆の里山にて)

2023年05月04日 | 中国四十九薬師

鳥取県中部を回る中国四十九薬師めぐり。4月22日は琴浦町の「サンシャインとうはく」で宿泊。日本海の波の音を聴きながらの1泊となった。

翌23日の5時過ぎ、部屋からの景色はすでに明るくなっていた。日の出は5時24分、せっかくなので日の出を見ようとホテルからすぐの海岸に出る。

海岸に着くとちょうど太陽が顔を出したところで、常に打ち寄せる波の音を聞きつつ、ゆっくりのぼるのを遠く眺める。今日もいい1日になることを期待する。

部屋でもう少しゆっくりした後、朝食である。一通りのバイキングメニューが揃い、家庭的な味である。大山の白バラ牛乳のパックもある。普段牛乳は飲まないのだが、せっかくなので1本いただく。この白バラ牛乳を製造する大山乳業も琴浦町にある。

さてこの日の行程だが、琴浦町から倉吉市に入り、第42番・大日寺に参詣。その後、関金地区をたどることもあり、旧国鉄倉吉線の廃線跡に立ち寄る。そして三朝町に入って第43番の皆成院に行くが、この皆成院、三徳山三佛寺の塔頭寺院である。

三佛寺といえば国宝の投入堂で有名なところ。投入堂にたどり着くには修行用の山道を進む必要があるが、危険防止のため1人での参詣はお断りとある。前回、中国観音霊場めぐりで三佛寺を訪ねた時も、同じバスに乗って来た個人客どうしで声をかけ合えば一緒に上ることができたかもしれないが、断念している。今回も一人旅だが、投入堂まではまあいいかなという思いもあるし、上れるなら上ろうという気もある。現地に行ってからのことにしよう。

8時前にホテルをチェックアウト。地図を見ると大日寺はちょうど南の方角にある。道順を考えても、前日倉吉まで行って戻るより、琴浦町に泊まったのは正解だったようだ。琴浦町役場の横を過ぎ、右手には大山の北壁から船上山にかけての景色も見ることができる。船上山は、隠岐に流された後醍醐天皇が名和長年の手引きにより迎えられたところで、倒幕の狼煙を挙げたところである。

その大山の手前に風力発電設備が10基ほど建っている。鳥取県内にも複数の風力発電所が存在しているが、琴浦町の風力発電所では2020年にブレードの折損事故があったそうである。風の力を利用して電力を起こすのに、風が強すぎてもいけないというから難しいものだ。

倉吉市に入り、集落の細道を通って大日寺に到着する。石州瓦の建物で、里山の素朴な寺院の佇まいである。

こちらも最近建て替えられたのか、本堂も新しい。

大日寺が開かれたのは平安時代、慈覚大師円仁によるとも、恵信僧都源信によるともされる。古くは、高野山に則り上院・中院・安養院にわかれて300あまりの坊を擁する大伽藍があったそうだ。これだけの規模となると大山寺に匹敵するのではないだろうか。しかし戦国の兵火により荒廃し、その後は小さな一つの寺として現在にいたる。

本堂の前でお勤めとして、箱に入った書き置きの朱印をいただく。

寺の奥には収蔵庫がある。四十九薬師の本尊である平安時代作の薬師如来像のほか、鎌倉時代作の阿弥陀如来像、石造の大日如来像などが祀られているとある。また他に、日本最古とされる瓦経も多数出土しているそうだ。こんな里山に、と思うところだが、歴史をさかのぼれば伯耆の国府は現在の倉吉にあり、また大山信仰の文化、大陸に近いということもあり、文化的に進んでいたところだったのだろう。収蔵庫の見学(拝観)もできるが事前予約が必要のようだ。

先ほど見た船上山に後醍醐天皇が迎えられたのも、別にどこの山でもよいことではなく、熊野権現を祀る山岳修行の場であり、多くの僧兵も抱える要塞だったことによるそうだ。

もし、後醍醐天皇が隠岐ではなく別の地に流されていたら、倒幕もまた違った形になったのかな。

これで大山の東西の札所を回り、三佛寺に向かう。その前に、旧国鉄倉吉線の廃線跡である・・・。

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第25回中国四十九薬師めぐり~琴浦の鳴り石の浜、海岸沿いのホテルで癒される

2023年05月03日 | 中国四十九薬師

大山の北側の麓へと一気に下る。この日(4月22日)に宿泊するのは琴浦町で、山陰線の浦安駅近くである。この辺りまで来れば宿泊施設の多い倉吉に泊まればよさそうなものだが、倉吉には以前も宿泊しているし、日本海に近いところということで琴浦での宿泊としている。

国道9号線に出る。ちょうど「鳴り石の浜」が近く、立ち寄ることにした。「鳴り砂(鳴き砂)」というのは他で見たことがあるが、石が鳴るというのも珍しいところだろう。少し前にテレビで紹介されていたのを見て、近くを通るなら行ってみようということで。

海岸には楕円形の石が無数に転がっている。各地で護岸工事が進む中、数少ない自然のままの礫石の海岸である。波が打ち寄せるたびに石どうしがぶつかってコロコロと音を立てる。地元では、この「よく鳴る」を「良くなる」として、縁起のよいパワースポットとしてPRしている。石に水性マジックで願いごとを書いて海に投げ入れ、その石が波の動きに合わせて鳴れば叶うという仕掛けもある。

風は強いが海が荒れているということもなく、波もほどよい高さのようである。そして波が寄せ、引く時にカラコロと音がする。これらの石は大山の火山活動でできた花崗岩質だが、ここまで丸くなるまでにどのくらいの年月がかかったことだろうか。しばらく音に耳を傾ける。

また、先ほどの賽の河原ではないが、これらの楕円形の石があちこちに積まれている。丸くて滑らかな石をいかに積み上げるかのテクニックを競っているかのようで、初級、中級、上級のサンプルのパネルもかかげられている。上級など、物理的に可能なのかと思わせるほどだ。

この「鳴り石の浜」がパワースポットとして知られるようになるには、地元の人たちの地道な活動によるところも大きいそうだ。ボランティアで清掃活動をしたり、海岸にひまわり畑を作るなどして美しい景観を維持しているそうだ。

そのまま国道9号線を東に向かい、浦安駅近くの交差点で駅とは反対の海側に折れる。着いたのは「サンジャインとうはく」。3階建ての小ぢんまりしたホテルだが、玄関前には結構な数のクルマが停まっている。

通されたのは3階の部屋。窓の向こう、50メートルほど先、いくつかの建物と墓地のはもうは海岸である。部屋の窓が二重になっている。防寒対策もあるのだろうが、ずっと波の音が響いており、防音の役目を果たしているようだ。

その海べりに行ってみる。防波堤はあるが、その向こうは先ほどの「鳴り石の浜」と同じように花崗岩質の丸い礫石が無数に転がっている。波打ち際に近づくとこちらでもコロコロという音がする。「鳴り石の浜」は何も1ヶ所だけではないようだ。

ただ、先ほどの海岸と違うのは、海岸がありのままの姿をしているところだ。ありのままとはオブラートに包んだ言い方のようだが、要は海からの流木、ゴミなどが流れ着くままに海岸に打ち上げられているのだ。漂着物の中にはこうしたハングルや簡体字のものもあり、環境面ではあまりよろしくない事象だが、こういうのを見ると日本海に来たと実感するところでもある。南の海から伊良湖岬にたどり着いた椰子の実なら歌にもなるが、日本海を漂流して山陰にたどり着いたペットボトルとは・・。

もっとも、ビン・缶・ペットボトルくらいならかわいいものだが、ハングルが書かれた浮き輪がある小舟については、どう説明すればいいだろうか。まさか北の国からの流れ者・・・?

確かにいろんなものが打ち上げられてはいるが、波の景色というのは見ていて飽きない。冬の荒れた天候でもなく、よい時季に来たなと思う。

さて夕方の一献だが、事前の情報ではこの辺りでふらっと一見で入れそうな店はなかなかないようで(ホテルにはイタリア料理店が併設されているし、現地に来てみるとすぐ裏の海べりに個人経営の居酒屋もあったのだが)、最初から部屋でのんびりするつもりで、近くのディスカウントスーパー「トライアル」で飲食物をいろいろ購入した。海べりということで、刺身の盛り合わせや総菜、にぎり寿司もしっかり揃っていた。

鳥取名物の牛骨ラーメンはカップ麺で済ませよう(結局この夜はいただかず、そのまま自宅に持ち帰ったが)。

図らずも、部屋から海を眺めながらの一献となった。多少風が入るのは我慢して、二重窓を両党とも開けてみる。こうしたひと時を楽しめただけでも、このホテルを選んで正解だと思った(部屋が反対側だったら残念だっただろうが・・)。

夕方からテレビをつけており、ローカル番組も流れる。山陰といえばテレビの民放は3局でテレビ朝日系列はないのだが、こちらのホテルではケーブルテレビに加入しているようで、テレビ朝日系列の瀬戸内海放送、さらにテレビ東京系列のテレビせとうちも映る(ただし、設備がないためBSは映らず)。これで全国5局をカバーしているのだが、それぞれの本局の所在地が日本海テレビ(鳥取)、山陰放送(米子)、さんいん中央テレビ(松江)、瀬戸内海放送(高松)、テレビせとうち(岡山)とバラバラなのが面白い。かえって、広島よりも幅広いネットワークではないかと思う。山陰にいながら瀬戸内、四国の情報も得られるわけだ。

先ほどは海べりでの一献を楽しんだが、その一方、夜になると人通りもほとんどなく、街灯もほとんどない。そのため、夜中に窓の外を見て、あえて部屋の照明を消して目を凝らしていると、満天とはいかないがいくつもの星を見ることができる。さすがは「星取県」である。

ここも札所めぐりだからこそ訪ねることができたとして、翌日のコースも楽しみに眠ることにする。ちなみに、翌朝の琴浦町の日の出時刻は5時24分頃とある。せっかくなので見に行くとしようか・・・。

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第25回中国四十九薬師めぐり~大山寺、大神山神社奥宮に参詣

2023年05月02日 | 中国四十九薬師

伯耆溝口から長昌寺、枡水高原を経て大山寺に向かう。中国観音霊場めぐりで訪れ、その時は大山寺にほど近いリゾートホテルで1泊した。季節は3月中旬。下界は春の様相だったが大山寺近辺は日陰にはまだまだ雪が積もっていた。

中国四十九薬師霊場めぐりとは言いつつも、それ以外の寺社でもぜひこの機に訪ねてみたいところがあるもので、大山寺も正にその一つである。

ナショナルパークセンター近くの大駐車場に軽自動車を停める。ナショナルパークセンターは大山寺のバス停でもあり、登山客向けの情報提供や休憩室・シャワー室を持つ。登山客らしい人、大山一帯を自転車で回ろうという人の姿も見える。大山寺方面からもぞろぞろと下山する姿も目立つ。早朝から上り、昼過ぎはちょうど戻って来る時間帯なのかな。この日は稜線の姿をはっきり捉えることができる。

それではお参りとしよう。まずは寺に続く参道の坂を上る。

山門に到着する。中国観音霊場めぐりで訪ねた時は、3月ということで納経所が閉まっており、山門のところに書き置きの朱印が収められたケースが置かれていた。中国観音霊場めぐりの時は墨書式の納経帳で回っており、住職不在で墨書ができないと言われ、後日改めて出直した札所もあった。しかしコロナ禍以降、ちょうど島根県から鳥取県に差し掛かる中で、コロナを理由に頑として納経帳を預かろうとしなかった札所に遭遇し、その時点で書き置きもやむなしとなった。そこに来て、大山寺は冬季休業・・。

そんなことも思いつつ、春の装いの境内を歩く。中国観音霊場の本尊である下山観音堂に立ち寄り、その後に本堂に向かう。寺としての本尊は地蔵菩薩だ。

薬師霊場めぐりとか、このお堂の本尊は何々だと言っているが、大山そのものが古くから山岳信仰の対象であり、さまざまな言い伝えも残されている。大山寺が開かれたのは奈良時代、金蓮という人物によるとされる。元々は出雲の玉造の人だったが、ある日、金色の狼を追って山に入り、矢を射かけるとその前方に地蔵菩薩が現れ、信心の心が起こり矢を捨てた。そして出家して大山に入ったという。

また別の言い伝えでは、天空のかなたから兜率天の角が地上に落ちてきて、3つに割れたという。その一つが熊野山、もう一つが金峯山、そして最後の一つが大山になったと言われている。

平安時代に神仏習合の考えが広まると、大山地蔵権現を大智明菩薩とする勅命が出て、本尊は大神山神社に祀られ、現在の大山寺はその別当の役割を果たしていた。しかし明治の神仏分離により地蔵菩薩は大山寺に戻り、そして現在に至る。

・・まあ、長々書いたが、大山寺まで来たならその先の大神山神社奥宮まではお参りしようということだ。本堂の横から奥宮への参道に出る。江戸時代に整備されたという自然石の道である。こうした参道の脇にも石仏があるし、岩に彫られた地蔵菩薩もある。こうしたところも神仏習合の名残である。

銅の鳥居を抜けたところに御神水がある。先ほどまで奥大山の天然水が入っていたサントリーのペットボトルに入れさせていただく。これぞまさに大山のめぐみ・・。

奥宮の境内に入る。石段の向こうに立派な建物が見えるが、足場材で覆われている。昨年から社殿の修復工事を行っているとのことだ。そして御祭神は隣接する下山神社にいったん遷宮して祀られているとのことで、改めてそちらにて手を合わせる。

ここで折り返し、帰りは「賽の河原」がある金門に向かう。前回来た時は途中の雪道に阻まれてたどり着くことができなかったところ。ちょうど大山の北壁を仰ぐポイントである。

その北壁からくずれた石が無数に堆積している。いつの頃からか、河原のあちこちで石が積まれているのを、「賽の河原」として地獄の責め苦の一つとされているが、明るい青空の下で見る限りでは心霊スポットとも、おどろおどろしいスポットとも感じない。

いつしか、こういう怪獣を思わせるような形に積まれた石もある。そこに私も一つ置いてみよう。

順序が逆になったが、大神山神社の鳥居に着く。右に山門、左に鳥居というのも神仏習合の名残である。中国四十九薬師めぐり(直接薬師如来は祀っていないが)にも一つアクセントがついた。

これで大山の西から北へと回る形になり、続きは翌日にするとして宿泊の琴浦町に向かうことにする・・・。

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第25回中国四十九薬師めぐり~第41番「長昌寺」(伯耆富士と巨大バーガー)

2023年04月29日 | 中国四十九薬師

今回の中国四十九薬師めぐりは自宅から軽自動車で大山の西から東へと回るルートである。快晴の下、伯耆富士の姿が少しずつ大きくなる。

金屋谷という集落に入ったところに、第41番・長昌寺がある。駐車場から改めて正面に回る。山門はなく、石標と石段が出迎える。

長昌寺が開かれたのは江戸時代の前期で、大山寺領内の減罪道場である。天台宗に属する。正面の本堂はまだ新しい感じで、検索すると2014年再建とある。

薬師如来はこちらの本堂かと思いきや、その左手前にあるお堂が札所だという。こちらに中国四十九薬師霊場の札がかかり、窓からのぞくと薬師如来が祀られている。扉が開いており、中におじゃましてこちらでのお勤めとする。ちなみに本堂の本尊は阿弥陀如来だそうだ。

朱印ということで、先ほどの本堂の右側の扉に「納経所」とあるのでそちらを開ける。玄関に書き置きの朱印が入った箱が置かれ、そちらから1枚いただく。他に人の姿もなく、静かなひと時が過ぎる。

時刻は昼を過ぎたところ。ここからだが、次の第42番・大日寺にそのまま向かうこともできるが、その前に大山の西麓を通って大山寺に参詣する。そして北から下り、海岸に近い琴浦町で1泊する予定である。

このままさらに坂を上って行く。周囲の高原、森林の景色も濃くなってきた。

そして枡水高原に到着。ちょっと立ち寄ってみよう。この辺りは「天空のリゾート」として四季の自然を楽しむことができる。冬のスキー場のイメージも強いが、春以降も「天空リフト」として動いているし、夜には星空も楽しめる。鳥取県も「星取県」としてPRしているほどだ。

枡水フィールドステーションに立ち寄る。マウンテンバイクの貸し出しも行っているようだ。せっかくなので昼食(旅先では昼食を取りはぐれることが多いのだが)をいただくことにしよう。表の看板に「ミスターバーガー」の文字が見え、たまにはハンバーガーもいいか。

メニューを見ると、一口にハンバーガーといっても、世界的なM社のようなお手軽なものではなく結構手が込んでいるようだ。その中でどうせならと、もっとも大きな「ミスタービッグ」。大山にかけたわけではないだろうが・・。

そしてやって来たのがこちら。黒毛和牛と国産豚肉を使ったパティ、自家製燻製ベーコンがそれぞれダブルで入っていて、チーズ、タルタルソース、バーゲキューソースもたっぷりかかっている。こんなん、口に入るんかいなと笑ってしまう。また、ハンバーガーにはもれなくポテトがつくということで、さつまいもにじゃがいものフライも。こんなの手で持てるのかと思いつつ、まず串を引き抜き、紙で包むようにして持ち、上からつぶすようにする。それからがっつりいただく。様々な味が口の中でミックスされ、包み紙がなければ手はソース類でべちゃべちゃになるところ。それでも何とも贅沢な味わいだ。

もちろん、他にもレギュラーサイズのハンバーガーや、大山どりと地元野菜を使ったバーガーもあり、いろいろ楽しむことができる。

薬師如来からハンバーガーとは対照的な展開だが、お腹もできたことで大山寺エリアに向かう・・・。

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第25回中国四十九薬師めぐり~舞台は伯耆・大山へ

2023年04月28日 | 中国四十九薬師

中国四十九薬師めぐりは最後の県である鳥取に入り、米子の市街地にある第40番・安国寺まで回っている。結願まで残り9ヶ所、鳥取県内を横断することになる。

4月に入り、続きを行うことにする。次のエリアは鳥取県、いや西日本を代表する名峰の大山をめぐることになり、第41番が大山の西にある伯耆溝口の長昌寺、そして第42番は大山の東にある大日寺となる。さらに足を延ばすと、第43番は三徳山三佛寺の塔頭寺院の一つ、皆成院である。

広島から鳥取県までは結構時間がかかる。米子近辺ならともかく、倉吉や鳥取となると新幹線と在来線の乗り継ぎでも時間・費用がかかるところ。軽自動車で行くと片道4~5時間は見る必要がある。最初は広島を早朝に出発すればこのうち2つ、あるいは3つとも1日で回れるかと思ったが、それも慌ただしく、甘い考えのようだ。結局、4月22日~23日の2日間を確保し、軽自動車利用にて、鳥取県内で宿泊する無理のない行程で回ることにした。

さて22日、朝は少しゆったりした後、8時30分頃に出発。まずは山陽道の五日市インターから乗車し、山陽道~広島道~中国道と進む。順調に進む。

七塚原サービスエリアで小休止の後、庄原インターで下車。広島から鳥取県に最短距離で入ることを選択し、そのまま国道183号線を進む。

国道183号線をそのまま走ると、備後落合駅の横を通る。立ち寄って構内の様子を見ようかと思ったが、駅の周囲には結構な人だかり。見物客というわけでもなさそうだ。後で知ったところでは、地元の人たちがボランティアで駅の清掃を行っていたとのこと。4月29日から大型連休に入り、今季で運行を終える「奥出雲おろち号」で駅を訪ねる客も増えるのに備えてのようだ。

「奥出雲おろち号」か・・・昨年乗車したので最後にしたつもりだったが、廃止となる前にやはりもう一度乗ってみたいという気にもなっている。ただ、いよいよ指定券が取れない模様で・・・。

備後落合駅はそのまま通過し、次の道後山に続く小鳥原川橋梁に差し掛かる。土砂崩れの影響で備後落合~東城間は5月まで運休中なのだが、その間の代行輸送の利用次第では、芸備線の存続論議にも影響するかもしれない。

そのまま鍵掛峠に出て、鳥取県との県境に出る。天気は良いが風が結構強く、4月下旬だが羽織るものがほしいところである。

このまま日南町を走り、これまで気づかずに通過していた松本清張の記念碑に立ち寄る。矢戸という集落なのだが、松本清張の父親の出身地である。記念碑には「幼き日 夜ごと父の手枕で聞きしその郷里 矢戸 いまわが目の前に在り」と記されている。父親が終生慕い、息子にも聞かせていた景色である。今はその当時と比べれば様子は変わっているのかもしれないが、自然と緑豊かな場所には変わりないようである。

国道181号線に入り、伯備線、そして日野川沿いに走る。すると正面遠くに大山の頂上が顔をのぞかせるのが見える。そろそろ近づいてきた。

とっとり花回廊に近い伯耆溝口駅辺りで国道に別れ、伯耆街道に入る。ちょうど大山を西から見るが、伯耆富士と呼ばれるその形が少しずつ大きくなるのにうなる。大山はこの先少しずつ姿を変えていくのだが、それは後の楽しみ。

これから目指す第41番・長昌寺は大山の西麓の金屋谷という集落にある。案内板もあり、その先にクルマを進めることに・・・。

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第24回中国四十九薬師めぐり~「スーパーやくも」にて「吾左衛門鮓」の丸かじり

2023年03月11日 | 中国四十九薬師

今回の中国四十九薬師めぐりを終え、予定より早く、米子14時25分発の「やくも20号」にて出発することにする。

列車の発車まで少し時間があるので、境線ホームに行ってみる。ちょうど境港からの列車が到着したところで、「ゲゲゲの鬼太郎」に登場するキャラクターが描かれた車両が目を引く。境港は「鬼太郎」の作者・水木しげるの出身地で、今や漁港というより妖怪の町として人気を集めており、そのアクセスとなる境線も妖怪を前面に出している。札所めぐりでは境港に行くことはなかったが、また訪ねてみたいところだ。

そうするうちに「やくも20号」が入線。薄紫色の車体に、紫と赤の帯をまとった「スーパーやくも」の復刻塗装である。「スーパーやくも」とは、かつて「やくも」のうち速達列車につけられた名前。また、「やく20号」は6両編成だが、「スーパーやくも」色はそのうち4両だけで、中間の2両は現在の「ゆったりやくも」塗装である。近いうち、この2両も「スーパーやくも」色になるそうだ。

その一方で、2024年からは新型車両への置き換えが始まる。旧国鉄特急色もそうだが、これらに乗っておくのも今のうちである。

さて、米子市街を回る中で昼食がまだだったのだが、特急に乗るということで「飲み鉄」を兼ねて遅い食事とする。駅外の土産物コーナーにてアテとともに購入したのが「吾左衛門鮓」(鯖)。米子の名物駅弁である。江戸時代、廻船問屋を営んでいた米屋吾左衛門が、船子たちの航海の安全を願い、酢飯の握りに鯖の切り身を載せ、ワカメで包んだ弁当として持たせたのが始まりという。後に改良が重ねられ、現在の鯖の押し寿司に昆布を巻いたものになった。米子駅の改装前には1階の待合室とホームとの間に駅そばの店があったが、そこでそばと吾左衛門鮓のセットを食べたのを思い出す。

さて、箱から出してみる。昆布を巻き、さらにラップで包んだ一品が出てくる。イメージ写真のような切り身ではなく丸のまま一本である。こういう場合は、のこぎり型のギザギザがついたプラスチックのナイフで自分の好みの厚さに切って食べることになる。

・・ただ、そのナイフが入っていない。改めて箱の中を見るが、あるのは割りばしとお手拭き、醤油である。まさか入れ忘れがあったとか?

こうなるとどうするか・・・思い切って、そのまま恵方巻みたいに頭からがぶりとやった。丸かぶりした吾左衛門鮓を片手に、缶ビールをグィッとやるのは傍から見るとお行儀のよくない図だが、仕方ない。他の駅弁と一緒に売られていたのだから、「やくも」などの車内で食べることは想定されているはずなのに、ナイフがないとは・・。

後で旅のブログや動画などを見ると、プラスチックの削減のためにあらかじめ箱には入れず、駅弁として車内で食べる場合は店員からナイフをもらう必要があるという解説が出てきた。そうだとすれば、私の場合、他の土産物と一緒に買ったから自宅用と判断されたのかもしれないが、そんなルールは聞いていないぞ。今後は注意が必要だ。今回、「吾左衛門鮓」だからまだ丸かぶりできたが、これが富山の「ますのすし」だったらどうなっていたか。

「吾左衛門鮓」と格闘するうち、左手に大山が見えてきた。朝の「サンライズ出雲」、そして先ほど米子城跡からそのくっきりした稜線を遠くに見たが、この日最後にもう一度眺めておく。改めて、「伯耆富士」の名にふさわしいなと思う。

この後は車窓を楽しむ。日野川沿いに走るが、外もこれから春の訪れである。

岡山県に戻り、新見からは高梁川沿いとなる。

16時39分、終点岡山に到着。改めて、私が乗っていた先頭の6号車から編成を順番に見て、途中の「ゆったりやくも」塗装の車両も見る。塗装の違う車両が混在して走るのも、一昔前ならよくあることだったと思う。最後に展望車タイプのグリーン車に出たが、一度はこの車両にも乗ってみたいものだ。

この時間、ちょうど大衆酒場「鳥好」は開いている。前日に続けて行こうと思えば行けるが、それはまたのお楽しみとして、この日はこのまま新幹線に乗り継ぎ、広島に戻る。

さて、中国四十九薬師めぐりは今回で40番まで到達し、残りは9ヶ所である。改めて各寺院の紹介を見たが、それぞれに歴史があり、また広島から遠くて交通の便が必ずしも良いとはいえない鳥取県をどう回るかが楽しみである。必然的にクルマ、もしくはレンタカーの登場が多くなりそうな気がするが・・・。

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第24回中国四十九薬師めぐり~第40番「安国寺」(寺町から米子城に向かう)

2023年03月10日 | 中国四十九薬師

中国四十九薬師めぐりはようやく最後の県である鳥取県に入る。鳥取県には10の札所があり、東西に広がっている。広島からもっとも遠い県ということもあり、回るにはそれなりの回数を費やすことになるだろう。

まずは西の米子から始める。山陰線で島根県から鳥取県に入り、米子で下車する。現在、南北自由通路の設置を含めた橋上駅舎の建設工事が進められており、今年の夏に完成予定という。

さてこれから向かうのは、この直前に訪ねたのと同じ名前の安国寺。安国寺は足利尊氏が全国に建立を命じた寺院で、先ほど訪ねたのが出雲の安国寺、そしてこれから訪ねるのが伯耆の安国寺である。米子の街中、寺町エリアにある。歩いて行けないこともないが、ちょうど発車する米子市循環バス「だんだんバス」に揺られることにする。

米子には何度も来ているし、宿泊したこともあるのだが、それは山陰の交通の要衝ということが大きく、米子の街並みというのはそれほど触れたことがない。皆生温泉に行くバスに乗るとか、仕事の関係で米子市内にある高校を訪ねたくらいのものである。近くには皆生温泉、大山、境港と人気の観光スポットは多いが、米子市街となると・・というところだろう。

天神橋で下車。目の前には加茂川、そして白壁の土蔵が並ぶ一角である。米子はかつて尼子氏と毛利氏の間で熾烈な争いが繰り広げられた地で、毛利氏の勝利に終わり、吉川広家が米子城を築いた。関ヶ原の戦いの後、中村一忠が米子藩主となり、その後城主が変わる中で、「山陰の大坂」として商業が盛んになったところである。

こういうスポットがあるのかと感心しながら歩くうち、寺町に入る。城下の一角に寺を集めて寺町を構成するのは城の防衛の一環であり、先般訪ねた松江もそうだった。各宗派の立派な寺が並ぶ。

その一角、というより中心にあるかのように見えるのが安国寺である。元々は足利尊氏により別の地で開創したが、足利氏の勢力が衰えるとともに寺も衰退、後に復興するが尼子氏と毛利氏の兵火の中で焼失し、江戸時代の城下町の整備にともなって現在の地に移されたという。

正面には比較的新しい本堂が建つ。「安国寺」の額もよい。

ただ、その手前の右手にもう一つのお堂があり、ガラス戸から中をのぞくと「瑠璃殿」の額がかかっているのが見える。「瑠璃」という言葉は薬師如来につながるから、中国四十九薬師めぐりとしてはこちらが本尊である。扉は閉まっているので外からのお勤めである。

さて朱印ということだが、瑠璃殿の扉は閉まっているので、間にある庫裏を訪ねる。「全国安国寺会」の札が掲げられている。安国寺、元々は全国六十余州に合計68ヶ所あったが、足利氏の勢力の衰えや戦乱、災害、さらには明治の廃仏毀釈などの影響で、建立当時の姿を残している寺院はごくわずかだという。再興により安国寺の名を受け継ぐ寺院、あるいはその流れを汲むものの別の名前になっている寺院もあるが、それらと合わせても当初の半分程度だそうだ。

インターフォンを押そうとすると、ちょうど犬を連れて境内に入って来た女性が「ご朱印ですか?」と声をかける。寺の方が犬の散歩からちょうど戻って来たようだ。「こちらから」と瑠璃殿の横から入り、正面の扉を開けて中に上げていただく。

国分寺を後にして、もう少し歩く。先ほど少し触れた米子城が市街地の西にある。小高い丘に石垣が見える。

現在の米子城は江戸時代初めに湊山に築かれた城で、米子藩主となった中村一忠による。現在の商都・米子の基礎もこの頃に築かれた。しかし一忠が急死し、後継ぎがいなかったために取り潰しとなり、米子藩も廃藩となった。後に池田氏の鳥取藩に吸収され、米子城は支城扱いとなった。明治の初めに石垣を残して建物が取り壊され、その後は公園として開放されて現在に至る。

恥ずかしながら、米子にこうした城があるとは知らなかった。ただ、天気が良いこともあって地元の家族連れも結構訪ねている。石段を上がっていく。

上がるにつれ、米子の街並みが眼下に広がる。米子港から続く中海も見える。この中海も天然の要害だったことだろう。合わせて、何層にもわたる石垣も見事なもので、いかにも「城跡」という感じで迫ってくる。

その中にあって、何といっても一番の景色は雪をかぶった大山である。「今日はええ天気じゃ」と、訪ねる人も口々に言う。

この米子城、地元では「絶景の城」としてPRしているそうだ。大山、米子の街並み、中海、さらには弓ヶ浜半島から美保関、日本海も見渡せる。日の出のスポットとして、特定の時季にはダイヤモンド富士ならぬ「ダイヤモンド大山」を見ることができ、大勢の人で賑わうそうだ。また、山陰なのでなかなか見られる確率は低いだろうが、元日の初日の出でも賑わうとのこと。

これで米子の札所を回り終え、駅に戻る。当初予約していたのは旧国鉄特急色の編成で運転する「やくも24号」だったが、この時間ならその2本前の「やくも20号」に間に合う。そしてその「やくも20号」は、先ほど揖屋駅で通過するのに出会った、「スーパーやくも」の紫色の編成が使われている。旧国鉄特急色は以前にも乗ったし駅で目にしたこともあるが、先月登場したばかりの復刻紫色は初めてである。乗ってしまえば塗色は関係ないのだが、空席もあるので、「やくも20号」に変更する。これで帰宅も早まって日曜日の夜もゆっくりできることに・・・。

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第24回中国四十九薬師めぐり~第39番「安国寺」(出雲街道を行く)

2023年03月08日 | 中国四十九薬師

「サンライズ出雲」に乗って到着した松江。ここで折り返して島根県を後にすることから、駅高架下にて地酒「李白」や水産加工物のあれこれを購入して土産とする。

これから、島根県最後の札所である第39番・安国寺に向かう。最寄り駅は山陰線で1駅米子方面にある東松江だが、松江市バスの竹矢という停留所からでも歩いて行けそうだ。どちらにするかは時刻表次第だが、このタイミングだと列車のほうが先に発車する。

松江から乗るのは10時06分発の米子行きである。ワンマン列車で、次の東松江は無人駅のため、あらかじめ1両目の前扉に近い席に座る。次の駅といっても乗車時間は7分、結構距離がある。

東松江到着。ICカードの利用範囲ということで、カードだけ運転士に提示してそのまま下車する。駅の北側にはJR貨物の集配基地があり、かつては貨物列車の駅でもあったが現在はトラックによるコンテナの集配のみ行われている(山陰線で貨物「列車」が発着するのは伯耆大山だけ)。それ以外は田園風景が広がる。

スマホの地図を頼りに駅前を歩く。圃場整備の記念碑が建ち、昔からの農家もある中、最近建てられた住宅も目立つ。松江の郊外ということで通勤圏内なのだろう。

安国寺に到着。安国寺といえば南北朝時代、足利尊氏が全国に建立整備を求めた寺で、この次に行く米子の札所も安国寺という名前だ。今いるのが出雲、その次は伯耆の国である。他にも、安芸の国の安国寺として不動院にもお参りしたなあ。

こちら松江の安国寺が開かれたのは奈良時代の後期、光仁天皇の勅願による。当初は円通寺という名前だったが、足利尊氏が全国に安国寺を建立するにあたり、出雲の国では円通寺が割り当てられた。一時は巨大な伽藍を有していたが、兵火等による焼失で一時衰退した。江戸時代になり松江藩の保護を受け、現在に至る。近くには出雲国分寺もあったが、国分寺の衰退後は十一面観音等が安国寺に移され、現在の本尊となっている。

境内はちょっとした庭園といった趣で、白砂がまぶしい。

奥には松江藩につながる京極高次の供養塔も建つ。

本堂の扉が閉まっているので、とりあえずその前でお勤めとする。

さて朱印だが、本堂の扉が閉まっているので隣の庫裏のインターフォンを鳴らす。しかし応答がない。先ほど、法事を終えたらしき家族連れが庫裏の扉から出ていったのを見かけたので、寺の方もいるのではないかと思う。扉が開いたので声をかけるも応答がない。

これは出直しか・・と思い、ふと庫裏の反対側に回ると取付棚を見つけた。先ほどは気づかなかった。これを開けると書き置きの朱印が入っており、一安心する。

さて、このまま東松江駅に戻っても次の米子行きの列車までは50分ほど時間がある。先ほど通ったが、駅周辺には時間をつぶせそうな場所はない。また松江駅からの路線バスも竹矢が終着で、それ以上東には行かない。

そんな中地図を見ると、東松江から次の揖屋まで歩いても、乗ろうとする列車に間に合うのではないかという気がした。安国寺から揖屋駅まで、スマホのナビだと38分と表示される。天気もよく暖かいので、そのまま駅まで歩くことにしよう。

この辺りのメイン道路は国道9号線だが、それに並走する形でかつての出雲街道が走っている。ちょうどこの辺りは「出雲郷」という宿場町があったそうだ。

・・・「出雲郷」、これは普通「いずもごう」と読むところだし、私もそのつもりで読んでいたが、ブログ記事を書くに当たってサイトでこの辺りのことを改めて検索するうち、正しくは「あだかえ」と呼ぶことを初めて知った。街道沿いの鳥居の先にあるのは「阿太加夜(あだかや)神社」である。「出雲国風土記」にも登場し、祭神は「阿太加夜怒志多伎吉日女(あだかやぬしたききひめ)命」とある。松江の伝統行事「ホーライエンヤ」の舞台となる神社と言えばご存知の方も多いのではないだろうか。

山陰線の踏切を渡る。ちょうど、出雲市から岡山に向かう特急「やくも14号」が通過していった。

昔からの街道沿いの風情もうかがえる一方、三菱マヒンドラ農機の工場も建つ中、ナビ通りの時間で揖屋駅に到着。ちょっとしたウォーキングということで、これはこれで島根県のよい思い出になった。

ロータリーには、女形の役者らしき銅像が建つ。一瞬、「出雲阿国?」と思ったが、銘板には「女寅(めとら)はん」とある。こちらの出身で、市川女寅、後には市川門之助と名乗った明治時代の女形の歌舞伎役者である。駅舎に「まちの駅」が併設され、観光案内なども行っているが、この駅にも「女寅」と名付けられている。

次に乗る11時44分発の米子行きまで少し時間があるので、ホームのベンチに座って文庫本など読みながら過ごす。列車の通過を知らせる放送が流れ、米子方面からは観光列車「あめつち」、そしてその後には「やくも5号」が通過する。この「やくも5号」だが、先日、JR西日本の「スーパーやくも」として車体を紫色に塗り替えた編成が使われている。旧国鉄特急色とはまた違った趣である。伯備線の「やくも」はこの後順次新型車両に置き換えられるが、それまでの間は、あえて古い車両を前面に出すとか、塗色のリバイバルなど、懐かしさを求めるその筋の人たちを引き寄せるイベントを仕掛けている。

そしてやって来た米子行きはキハ47の2両編成。これも今や昔からの汽車旅の風情を感じる車両である。ボックス席に陣取ると、隣のボックスでは青春18きっぷ利用らしい二人連れがこの後の旅程についてあれこれ話をしている。どうやらこのまま山陰線の列車を何度も乗り継いで関西に向かうようである。それは結構ハードな道のりになりそうだ・・・。

12時10分、米子に到着。現在、新しい駅舎の建設工事が続いている・・・。

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第24回中国四十九薬師めぐり~「サンライズ出雲」にあえて岡山から乗って山陰入り

2023年03月07日 | 中国四十九薬師

これまで、大阪時代、そして現在の広島勤務において、中国観音霊場、中国四十九薬師といった札所めぐりのため、さまざまなルート、手段にて札所までアクセスしてきた。札所よりもその行き帰りの方法が紀行文の重きを置いていたといえなくもないし、「この列車に乗るついでに札所を回ろう」ということで訪ねたこともしばしばあった。その最たるものは「WEST EXPRESS銀河」だろう。当時は目的地へのツアーへの抽選だったが、ご縁があって山陰、紀南、山陽各コースに繰り上げも含めて当選し、その御礼も込めて足を延ばして各地の札所めぐりを絡めたこともある。

そんな中、ついにこの列車に乗る時が来た。寝台特急「サンライズ出雲」である。

「サンライズ瀬戸・出雲」そのものはかなり以前2回乗ったことがある。いずれもこのブログの記事になっていないのだが、1回目として今も憶えているのは、「サンライズ瀬戸」で高松から東京に向かったこと。この時は、広島から東京に勤務先の労働組合の行事で向かうのに、日程に余裕があったので前段の休日を利用して、高松で行われたタイガースと「近鉄」バファローズのオープン戦観戦に立ち寄った。そしてそのまま「サンライズ瀬戸」に乗ったのである。ネットで戦績を見るに、2002年春のことである。当時は、広島~東京までを新幹線で往復したものとして定額の旅費が現金で支給されており、このように寄り道したり珍しい列車に乗ったとしても、差額を自腹で出す分には特に何も言われなかった。時効だから振り返ると、東京までの移動には、かつての「あさかぜ」、「さくら・富士・はやぶさ(の連結列車)」、新幹線100系のグリーン個室(「こだま」なので帰りの東京~新大阪間)・・・も乗ったなあ。

そしてもう1回というのは、それから数年後の東京勤務時、東京から「瀬戸」、「出雲」のどちらかに岡山まで乗ったかな・・と思うが、何年のことなのか、そして岡山からどちらに行ったかが定かではない。

関西に戻った2009年以降は、「サンライズ」に乗る機会はなかった。そもそも東京と関西を結ぶ列車ではなく、唯一、日付が変わった後の大阪から東京行きに乗ることはできるが、そこまでして東京に行く人はごくわずかだろう。

そんな「サンライズ出雲」に今回乗るのは、もちろん東京行きではなく出雲市行きである。東京から夜通し走って岡山に到着した列車に、朝から乗るのである。ご存知の方も多いと思うが、この列車は各種個室がほとんどの中、1両だけ「ノビノビ座席」という、特急料金だけで乗車できる車両がある。扱いとしては寝台車ではなく座席車。今回、この「ノビノビ座席」で岡山から先に空席があったのを確保した。ちなみに寝台は1運行で1顧客のようで、仮に岡山から先で空いていたとしても、それまでに少しでも乗車していれば販売不可という。確かに、つい先ほどまで誰かがいた個室寝台に朝からお邪魔するというのもあまり心持ちがよくないようで・・・。

「サンライズ出雲」の岡山発は6時34分。その31分後に「やくも1号」が発車する。通常、岡山を早い時間に出発するなら7時05分発の「やくも1号」だろう。山陰線に入ってからはその差は縮まり、普通ならシートに座っていくところ、横になってノビノビ行けるというのを体験しようと思う。事前に、当該座席のe5489でノビノビ座席の予約状況を座席表で検索したが、岡山までは「×印」がついていた。先客はどうやら岡山で下車するようだ。なお、終点の出雲市には9時58分着。いったん出雲市まで行き、そこから東に進んで東松江、米子の順番に札所を回ることにしよう。

いつものように前置きが長くなったが、前日早くから就寝して明けた3月5日。東横インでは無料の朝食サービスが6時30分からあり、うんざりするほどの行列ができる超人気なのだが、「サンライズ出雲」は6時34分発である。車内で3時間半近く過ごすのだからと朝食は駅構内のコンビニで買い求める。全国旅行支援の地域クーポン券はとりあえず手元に置いておく。

夜行列車に乗るためにホテルに1泊した・・・というのも、ねえ。

6時台だがこの時季となるとだいぶ外も明るくなっている。そんな中、「サンライズ瀬戸・出雲」の到着案内である。列車は6時27分に着く。「瀬戸」が前7両ということで、着くのは四国行き特急が発着する8番線である。私と同じように岡山で乗る人がいるのかなと期待する(別にいたからと言ってどうというわけではないが)。

その前に、隣の9番線には津山線の旧国鉄急行色の車両が到着する。ちなみに、米子からの帰りは旧国鉄特急色の「やくも24号」の指定席を予約している。寝台特急と旧国鉄特急色列車・・こうした回り方もいいだろう。

6時27分、7両ずつ、合計14両の列車が静かにやって来る。現在では在来線の特急で14両編成というのもなかなか見ることがなく、長い岡山駅のホームをいっぱいに使う。そして、「瀬戸」、「出雲」のそれぞれから結構な乗客が降りてくる。岡山が目的地という人もいるだろうが、山陰、四国を含めた各方面への乗換駅として問い合わせも多そうだ。

岡山からなら、新幹線に乗り継げば広島も近い。これ、広島にいる間にぜひ東京との移動手段で使ってみたい(その時は個室で・・・)。

さて、「サンライズ」に目を向けると、ちょうど真ん中で列車の切り離し作業が行われているのを見て、後方の「出雲」編成に向かう。そして12号車の「ノビノビ座席」へ。私が確保したのが上段の一番前の場所。先ほどまで使われていたらしく、ブランケットが畳まれている。隣のスペースも同じように片付けられた後だが、ここから乗って来る客はいないようだ。

上段は屋根裏といった感じで、寝転がる分にはいいが、座るにはちょっと背中を丸める必要がある。ただ、車両の端まで見渡すことができるので、それほど圧迫感はない。隣のスペースとは頭の部分で40~50cmほどの仕切り板で区切られており、そこに頭を入れて置く分には隣の人もそれほど気にならなさそうだ。小柄な人ならこの枠内に納まりそうだ(事実、そうして過ごしていた人もいた)。ただ、一夜を過ごすとなれば話は別で、気になる人は気になるだろうなあ。床も硬いし、それで寝付けないという向きもあるだろう。この日は寝袋や登山で使うマット持参の客もいたくらいで、特急料金のみで移動できるメリットと天秤にかけつつ、ある程度の対策も必要だろう。

そんな中、この日の私は朝一番の特急で岡山から山陰に移動する感覚で、別に睡眠をとるわけではなくただ横になることもできるだけプラスという気持ちである(もっとも、前日移動にともなう宿泊代と一献代が余計にかかっているのだが・・)。

普通の「やくも」とは違った感覚で、倉敷から伯備線に入る。ちょうど窓の外から明るい朝日が差し込んで来た。正に「サンライズ」である。

高梁川に沿って進む。うつ伏せになって読書しながら、あるいはスマホにも目をやり、その視線の先の景色も眺める。

途中、トイレに立ったついでに車内を散策する。ところどころ、下車した後の個室の扉が開ていたのでちょっとだけお邪魔してみる。いずれも、「ノビノビ座席」と比べれば自分のスペースは断然広い。

以前「デイリーポータルZ」という面白サイトで、「サンライズ瀬戸・出雲」の乗車記を読んだことがあるのだが、その中に、ライターが自ら食材や小道具を持ち込んで、列車の個室の中で「マイ食堂車を作る試み」や「マイ寿司屋を作る試み」といった、自ら「豪華列車」を演出しようとするバカバカしくも面白い記事があった。個室ならこうしたある種贅沢な遊びも(他人に迷惑をかけるのでなければ)許される。帰宅の満員電車に揺られる人たちを後目にぜいたくなひと時・・・いいですねえ。

備中高梁を過ぎ、次の新見に到着。新見ではホームに立っていた人がそのまま列車に近づき、「ノビノビ座席」に入って来た。これも、山陰までゆったり移動のクチだろう。

新見からは鳥取県境に向けて山深い区間である。日陰にほんの少しだけ雪が残っているところがあるが、さすがに3月ともなれば春の雰囲気である。さすがに広島からの中国山地越えも冬用タイヤの必要はなく、今回の行き先ならマイカーで来るのがもっとも手っ取り早いのは承知だが・・。

新見から米子までは時刻表では1時間以上ノンストップで走るが、実際には途中で行き違いのための停車がある。そうするうちに少しずつ車窓が開け、右手に大山の雄姿が見えるようになる。標高の高いところはすっぽり雪に覆われている。画像は綺麗に撮れていないが、車窓に目にする青空に映えた大山、さすが中国地方一の秀峰である。

9時03分、米子到着。ここで「ノビノビ座席」からもまとまった下車があった。

さてこの後、終点の出雲市まで1時間近く走るが、ここまで乗って「ノビノビ座席」を十分楽しむことができたので、終点にこだわらなくてもいいかなという気になった。本題である中国四十九薬師めぐりのコマは松江まで進んでおり、松江で下車すれば、その分早く札所めぐりに入れる。

というこどで、9時29分着の松江で下車した。ここで発車する列車を見送るのもいいだろう。次に乗る時はぜひ個室にて、そして久しく訪ねていない関東へ・・・。

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第24回中国四十九薬師めぐり~岡山のミシュラン居酒屋にて前一献

2023年03月06日 | 中国四十九薬師

前回、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの前泊で福岡県にいた時、実家の父親の容態が悪くなったとの連絡を受け、翌日の札所めぐりは取りやめにして帰宅した。幸い、病院の措置により何とか取り戻し、依然として重篤であることには変わりないが今は落ち着いているとのことである。だからというわけではないが、札所めぐりの予定を続けることにする。かねてからそうだったが、札所での祈りには父の病気平癒も入れている。

さてそうなると、前回中断した九州行きの仕切り直しということだが、3月は先に他の予定が埋まっており、いつになるかはまだ見通せていない。まだ東九州にも入っていないのだが、そこは機会をうかがうとしよう。

そして、3月4日~5日にかけて中国四十九薬師めぐりとする。前回松江まで進んでいるが、島根県として東松江にある第39番・安国寺が残っている。合わせて、米子にある第40番・安国寺を回ることにする。いずれも駅から徒歩またはバスで行くことができる。

単純に2ヶ所回るだけなら、広島から松江まで高速バスで行き、順にたどって米子から「やくも」なり高速バスなりで戻ることができ、日帰りでも十分に行くことができる。また、1日半ないし2日かけるのなら、米子の次のシリーズにも進めるのではないかと思う。ただ今回はあえて伯備線経由での往復として、かつ4日は移動日扱いで岡山で前泊とする。その理由はまた書くとして、結構手が込んでいる。

さて4日、夕方に岡山に到着すればよいとして、広島からは新幹線ではなく在来線乗り継ぎで向かう。早くも、青春18きっぷでの乗り継ぎ旅と思われるグループも目につく。広島からの227系はいつものこととして、糸崎で乗り換えた115系(113系?)は3両編成だったが、今や貴重な昔ながらのセミクロスシートだった。このところ転換クロスシートに慣れた身としては、4人掛けのボックス席がいっぱいになれば結構窮屈なものである。この岡山地区にも3月のダイヤ改正以降、順次227系が投入されることになり、旧国鉄からの名残の座席も少しずつ消えることになる。

岡山に到着。この日は岡山駅西口を出て、少し相生方面に歩いたところの「東横イン岡山駅西口右」に宿泊。このところ東横インに泊まるケースも多いのだが、早期に予約したためか、全国旅行支援の割引適用、地域クーポン券の恩恵にあずかることができた。

そして、岡山での久しぶりの一献ということで、反対の東口側に出る。向かうのはもちろん、このブログでもちょくちょく登場する「ミシュラン居酒屋」の「鳥好駅前本店」である(地域クーポンは使えないが)。岡山に前泊と決めたのはこの店に入ることも目的だった。ちなみに、店に入った時刻は16時05分。

この店は16時開店なのだが、私が扉を開けた時にはカウンターはほぼ埋まり、テーブルにも結構な数の先客が陣取っていて、すでにテーブルの上には酒肴が載っている。16時開店といいつつも、準備ができれば16時を待たずに客を入れているように見える。幸い、カウンターに1つ空席があったので入れてもらう。以前来た時、ちょうど満席のタイミングとぶつかって入れず、残念な思いをしたことがある。今回、そのことを思い出して16時すぎに店に入れるような移動スケジュールとしたのだが、それでもギリギリだった。まあ、無事に座れたのでホッとして、大ジョッキからいただく。こちらは、岡山工場があるキリンビール一択である。

その後も次々に客が来店し、20~30分もすればテーブルもほぼ満席となった。

定番ということで名物「とり酢」から始める。鶏肉、玉ねぎ、春雨がふんだんに入って200円(税抜)はおすすめ。この店のエースとして、サントリーのジン「翠」と合わせたメニュー板もある。

続いては、こちらも定番のシャコ酢と、本日のおすすめに出ていたいかなごの釜揚げ。いかなごといえば兵庫辺りのくぎ煮が有名で、関西では贈答品にもなっているが、釜揚げとはその上を行っている。いかなご新子漁はちょうどこの日(3月4日)が解禁日とあり、まさしく旬。だからこその釜揚げなのかな。

ビールの次は備中高梁の「白菊白い瀬」。きりっと締まった味わいにバランスとのど越しがよいというのが売り。このところ、岡山の地酒もいろいろメニューに入っている。

そして満を持して刺身盛り合わせが登場。注文する客が多いため、大将が捌くのもなかなか時間がかかる。出るネタは時季により異なるが、だいたい5~6種盛り、いずれも厚く切っておりお値打ち品である。

これまで何度も来ているが、だいたい同じような流れのメニューを注文する。焼きの部では店名にもある焼鳥の盛り合わせ(1本1本ボリュームあり)、そして「のりくらっち」で締めるのが私の中では定番となっている。「のりくらっち」とは、韓国海苔、クラッカー、チーズの三種盛りで、それぞれ単品、二種、そして三種とさまざまな楽しみ方ができる。どんな酒にも合う。いつも思うだけで試したことはないが、ここにイカの塩辛を加えると無双無敵のつまみになる。

16時すぎから入り、2時間近くいてお腹も膨れたが、時刻はまだ18時すぎ、外も明るい。通常ならこの時間から一献だろうが、もうこの日の目的を果たしたことで満足する。

岡山駅近辺には岡山のスポーツを応援する看板が目につく。ファジアーノ(サッカーJリーグ)、シーガルズ(バレーボールVリーグ)、トライフープ(バスケットボールBリーグ)、リベッツ(卓球Tリーグ)。いずれも「これから」のチームばかりだが、岡山の人たちの熱意がうかがえる。

このままだと夜中に腹が空くかもしれないので途中のコンビニでなにがしか購入し、後はホテルの部屋でゆっくりする・・・。

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第23回中国四十九薬師めぐり~松江道経由で広島に戻る

2023年02月25日 | 中国四十九薬師

松江駅から広島行きの高速バスに乗車する。結局今回で一気に島根県コンプリートとはならず、次回、米子とのセットで訪ねることにする。この時点で一応予定は組んでおり、その通り行くことができれば、また鉄道旅行の要素が強くなるはずだ。

バスの時間までもう少し時間があれば、高架下の飲食店で軽く一献できたのだが、ちょっと中途半端な時間だったので土産物だけ買い求め、駅横のホール「松江テルサ」のロビーにて寒さをしのぐ。

16時00分発の便は予約時点で結構埋まっており、窓側の席は確保したのだが、発車直前で改めて予約サイトをみるとほぼ満席となっている。4人掛けで隣に相客がいると窮屈に感じるのだが、致し方ない。隣は若い男性で、道中ウトウトしたり、スマホで漫画を見たりしているから特に気をつかうこともなかったのだが。

松江駅を出発し、しばらく宍道湖に沿って走る。こちらからだと夕日の名所・嫁ヶ島を見ることができる。

松江玉造インターから山陰道に入る。この先は広島の西風新都インターまで全高速である。山陰道に入るとすぐに宍道湖サービスエリアがあり、山側からでも宍道湖を見渡すことができる。ここに玉造バス停がある。

木次線をまたぎ、宍道インターの先で松江道に入る。広島と松江を結ぶメインルートであり、高速バスの本数も確保されている。芸備線~木次線の直通急行が走っていたのもずいぶん昔のことである。先ほど、レンタカーで川べりを通って来た斐伊川も渡る。

また、三刀屋木次インターから先は、地域の生活道路の位置づけでもあり無料区間となっている。

ここから山の中に入る。さすがに沿道には雪も残っているが、道路上ではほとんど見当たらない。この日の交通規制がどうだったかはわからず、冬用タイヤでなくても走行できたのかもしれないが、まあ、それは結果論である。以前松江道を高速バスで通った時は雪が多く、タイヤチェックのために途中のインターでいったん降ろされたこともある。また、冬になると全国のどこかで発生する立ち往生も、ノーマルタイヤ車が要因になることも多く、その啓発も進められている。

道の駅たたら場壱番地が島根県最後の停留所で、大万木山トンネルを通って広島県に入る。

三次東で中国道に合流し、江の川パーキングエリアで休憩。ここまで来ればもう安心で、後は少しずつ暗くなる中、広島市街に戻る。

広島バスセンターに到着。時刻は19時すぎ、それほど遅くならないうちに戻ることができた。

さて、中国四十九薬師めぐりは38番まで進み、島根県の1ヶ所、そして鳥取県の10ヶ所に入る。中国観音霊場と比べても、西は米子、伯耆大山から東は八頭町や岩美町まで広がっており、また広島からもっとも遠い県ということでそれなりに回数が重なりそうだ。ただその分、鳥取県のさまざまなスポットも一緒に回るということで・・・。

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第23回中国四十九薬師めぐり~第37番「延命寺」(斐伊川に向かう)

2023年02月24日 | 中国四十九薬師

日御碕にある第36番・神宮寺を出て、第37番・延命寺に向かう。途中、出雲大社の西側を通り、正面の勢溜の鳥居を横から見る。好天に恵まれたこともあり、出雲大社にも大勢の人が参詣に訪れており、バス乗り場や周辺の商店にも人の姿が目立つ。

そのまま、正面の参道をクルマで通り抜ける。歩行者も結構車道にはみ出している。

さて、このまま直進すると、かつての国鉄~JR大社線の大社駅がある。せっかくなので大社駅を見ようか。

・・・そう思って角を曲がったのだが、その正面に巨大なフェンスが立ちはだかった。あらあら、どういうことか。

大社駅は2021年2月から2025年12月の予定で保存修理工事が行われているとのこと。これはここに来るまで全く知らなかったことで、改めてネット検索した。総事業費は10億円近くかかるとの記事もあった。駅舎の修理や改装なら全国で行われていることだが、大社駅は廃線となった路線の終着駅で、現役の駅舎ではない。それでも巨額の費用をかけて修理を施すのは、重要文化財に指定されていることもあるが、出雲の人たちにとって大切な、思い出あるスポットであることがうかがえる。また完成の時を楽しみにしよう。

途中、立派な野球場もある浜山公園の中を抜け、国道9号線を渡り、国道184号線を東に向かう。途中、出雲市役所の前を過ぎる。出雲市の駅はもう少し南にある。

斐伊川の右岸に出る。山陰線の踏切を渡り、川に沿って進む。反対側の左岸には県道26号線が走り、三刀屋、木次方面のルートになっている。広島~出雲市間の高速バスもあちらを走る。

細い道が続く右岸のルートは、阿宮という集落に差し掛かる。その中にあるのが延命寺。道の向かいが空き地になっていて、ここが駐車場のようだ。看板には「修験道場」の文字も見える。

延命寺が開かれた時期は定かではないが、遅くとも鎌倉時代後期には建てられていたようで、当初は長福寺という名前だったそうだ。その後、地元の葛西氏の祈願所となり、一時衰退したが、江戸時代に松江の松平氏により修験道場と定めた。後に長福寺から延命寺に名前を改め、現在に至る。

正面の本堂の外側からお勤めとする。

また、境内の反対側に敷地があり、毎年火渡りの護摩供養が行われるそうだ。

離れに納経所の札が出ており、そちらに近づき声をかける前に、住職らしき方が奥から出てきて窓を開ける。中国四十九薬師の書置きの朱印を所望すると、「ご祈祷済ですので」と用紙を差し出される。そちらをいただいた後、住職は本堂のほうに回り、正面の扉を開ける。そして本尊に向かって何やら唱える。おそらく、一人の巡拝者が延命寺を訪ねて薬師如来に祈ったことの念押しということか、代わりに祈っていただいたとか、そういうことだろう。

さてここから松江駅方面に向かうが、ここまで来ると出雲市街には戻らず、そのまま斐伊川をさかのぼったほうが近道のようだ。やがて出雲市から雲南市に入り、松江自動車道の下をくぐり、国道54号線に出る。自分のクルマなら国道54号線でそのまま南に下ればそのまま広島に戻れるのだが、レンタカーのため松江市方面に北上する。

国道9号線に出て、午前中以来の宍道湖に出る。今度は南岸を走る。並走するのは今度は山陰線だ。

このまま、東松江にある第39番の安国寺に行けるかとカーナビで検索したが、レンタカーの返却時間がぎりぎりになりそうとの結果だった。帰りの広島行きバスを後の便にしようかとも思ったが、後の便は通路側しか空いていない。そこまでして遅らせることもないかなと、安国寺は次の機会にして、そのまま松江駅に戻ることにした・・・。

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第23回中国四十九薬師めぐり~第36番「神宮寺」(日御碕をめぐる)

2023年02月23日 | 中国四十九薬師

一畑薬師、出雲大社と来て、ここから中国四十九薬師の札所がある日御碕に向かう。札所の名前は神宮寺で、名前からして元々は日御碕神社と神仏習合で一体だった寺だと推察される。

稲佐の浜から日御碕への道は日本海にほど近く、この日は穏やかな眺めが広がる。途中に温泉旅館がある。出雲を回るにあたり、目の前に日本海が広がるこの宿に泊まることも検討した。結局松江駅前の宿泊となったが、こうして現地に来てみると、旅の良い思い出になりそうなところだなと思った。

日御碕が近づくと、神社を遠くに見ることができるスポットがある。入江に面したその境内は、出雲大社とはまた違った存在感である。

まずは神宮寺を目指すとして、日御碕灯台、そして神社への分岐とは反対の方向に進む。神宮寺がすぐそこという案内板が見えたが、寺はあっても境内にクルマは入れないようだ。路肩に停められないこともないが、少し先にコミュニティセンターの敷地が広がる。一応、日御碕への観光客向けにも駐車場として案内しているようなので、そちらに駐車して歩いて戻る。ちょうど窪地に建っているように見える。

境内も実にコンパクト。奥に本堂があるが、曹洞宗の寺院ということで祀られているのは釈迦如来。中国四十九薬師としては、その手前にある小ぢんまりとした薬師堂である。

薬師堂の扉に手を掛けると開いたので中をのぞく。方丈ほどだろうか。この中でお勤めができるようになっている。

寺の言い伝えによると、神宮寺は平安時代、村上天皇の勅願で日御碕神社の境内に伽藍が建てられたのが始まりとされる。その後、江戸時代に火災で焼失したこともあったが、江戸時代末期には早くも廃仏毀釈の声もあり、日御碕神社の境内から離れた現在地に移ったという。もっとも、薬師堂に祀られている薬師如来像が伝教大師作と伝えられていて、日御碕神社の本地仏、そして一畑薬師の姉仏ということから保護されたそうだ。そして明治の廃仏毀釈の時代も乗り越えて、神宮寺として現在に至る。

その神宮寺薬師堂だが、その維持については厳しい状況のようだ。薬師堂の外と中には瓦志納のお願いの張り紙がある。中国四十九薬師霊場会としても何とかしたいところだが、寺としては檀家だけでなく、信者、篤信家からの浄財をもって維持したいという意思を示している。

薬師堂の中に朱印の台紙が置かれている。瓦一枚にもならないが、納経料に少し色をつけて箱に納める。

この神宮寺を踏まえたうえで、日御碕神社に向かう。出雲大社の「祖神(おやがみ)」として崇敬を集めている。日の出を守護するのが伊勢神宮、そして日の入りを守護するのが日御碕神社と言われているそうだ。出雲大社と比べれば知名度は低いだろうが、知る人ぞ知るスポットである。

まずは拝殿にて手を合わせ、境内を一回りする。現在の境内は江戸時代に整備されたものだそうだ。

その中に、昭和天皇の御歌の記念碑がある。島根県で国体が開かれたのに合わせて参拝した時のもので、「秋の果ての碕の浜の みやしろに をろがみ祈る 世のたひらぎを」とある。令和の今も変わらぬ祈り、願いである。

ここまで来たら、日御碕灯台まで行こう。神社を後にして港に向かうと、ウミネコの鳴き声が響く。目の前の経島(ふみしま)はウミネコの繁殖地として知られており、ちょうどこの時季、越冬するウミネコたちが集っている。島の高台に鳥居が見えるが、かつてはここに日御碕神社の下の宮が置かれていたそうだ。

坂道を上り、海の幸を扱う食堂や土産物店の間を抜けると灯台に出る。上がることもできるが、まあ、それは遠慮して、しばらく岩場を散策する。灯台の一帯は遊歩道が整備されている。

さすがは日の入りの名所ということで、展望台もある。季節によって変わる日の入りの場所の案内もある。

松江から始まり、一畑薬師、出雲大社を経て日御碕まで。神仏と自然に触れる一時であった。ここで折り返しとして、今度は出雲市の南にある第37番・延命寺に向かう・・・。

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第23回中国四十九薬師めぐり~出雲大社と稲佐の浜(回る順序逆だった・・)

2023年02月21日 | 中国四十九薬師

中国四十九薬師めぐりの札所には参加していないが、島根でお薬師さんといえばここは外せないだろうと、勝手に「番外、特別札所」に決めた一畑薬師に参詣した。その後、日御碕にある第36番・神宮寺に向かうのだが、その手前に鎮座するのは出雲大社。さすがに素通りするわけにはいかないだろう。

出雲大社には何回か参拝しているが、クルマで来るのは初めてである。出雲大社の正門であり、記念撮影のスポットでもある二の鳥居(勢溜の大鳥居)の前を過ぎ、道なりに境内の西へと進む。そして駐車場に着き、何とか空きを見つけてクルマを停める。名高い神社だが駐車料金が無料というのが、出雲らしい大らかさを感じさせる。

そしてこの駐車場を出て少し歩くと神楽殿に出る。さらに横に進めばもう拝殿である。一畑電車やバスで訪ねたなら勢溜の大鳥居から参道をてくてく歩き、それはそれで大社への参拝のムードも高まるのだが、駐車場が結構近いのには驚いた。まあ、これでご利益に差があるとは思わないが・・・。

神楽殿といえば、これでもかという大きな注連縄である。長さ約13メートル、重さ約5トンとあるが、これだけの注連縄を作る材料を集めるのも大変だろうなあ。

意外な形で出雲大社の境内に入ったが、せめて「ムスビの御神像」は見ようともう一度外に出る。そして、改めて一応正面から入り、拝殿にて二礼「四拍手」一礼でのお参りとする。

この後、八足門から本殿に向かって手を合わせ、ぐるりと回る。「神有月」に八百万の神が宿舎とする摂末社や、本殿の背後を護るように建つ素鵞社などに手を合わせる。拝殿、本殿の正面から手を合わせてそのまま境内を後にする人が多いのだが、こうして本殿の周りを一通りめぐる人もそれなりにいる。

アラフィフ・・というか、今年ちょうど50歳となる私。いまさら出雲大社に願掛けして「縁結び」・・・というつもりは毛頭なく、長い歴史を持つ神社に手を合わせるだけである。改めて神楽殿に来たが、代々出雲国造の家柄で出雲大社の権宮司を務める千家国麿さんと、高円宮家の典子女王が結婚したのは、出雲と大和の末裔同士ということで注目されたなあと思い出す。

この先札所めぐりが続くが、まだ時間は早いが欠食を防ぐために昼食としよう。ここに来たなら出雲そばだろうと、神楽殿から駐車場に向かうすぐのところにある「松の屋」に入る。

そして割子そばを注文。味は・・・そばの評価というのは私にはわからないのだが、不味くはなかったし、「ここで出雲そばをいただきました」・・と記念になる店といえる。ただ、途中で変化をつけてもよかったかな。

そして、前日の宿泊でもらった「全国旅行支援」の地域クーポンも門前の土産物店の買い物の足しにする。出雲大社の御神酒でもある「八千矛」も買い求める。

・・・さて、出雲大社から改めて日御碕に向かうのだが、まず出雲大社から西に1キロほど向かった突き当りにあるのが稲佐の浜。ここは国譲り、国引きの神話で知られる浜だが、初めて訪ねる。名前は知っていたが、こういうところだったか。

砂浜の前にあるのは弁天島。ここで砂をいただき、出雲大社の素鵞社にてお清めの砂と交換するのが、いつしか出雲大社参拝の一つの作法になったそうだ。八百万の神が神有月に出雲に到着する玄関口が稲佐の浜で、そこから「神迎えの道」を通って出雲大社に赴くのだそうだ。

だとすると、出雲大社に参拝した後に稲佐の浜に着き、そこで砂をいただくというのはまったく逆の行いのようだ・・。まあ、だからといってもう一度出雲大社に引き返すつもりもなく、ここはそういう場所だったのだなと知ることができてよかった・・ということにする。

改めて、この先にある日御碕を目指そう・・・。

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第23回中国四十九薬師めぐり~一畑薬師へ(札所ではないが、やはり外せないでしょう)

2023年02月20日 | 中国四十九薬師

2月12日。松江の朝は多少冷え込んでいるものの晴れの天気である。冬の山陰シリーズでこうした天候になるとは思わなかった。

ホテルでの朝食、朝風呂を済ませた後出発する。向かったのは松江駅の北にある日産レンタカー。この日のコースとして、中国四十九薬師めぐりの札所、出雲大社に加えて、一畑薬師も訪ねることにした。それなら一畑電車に乗ればよいことだが、駅からのアクセスの悪さは以前に経験済で、他のスポットと一緒に回るならレンタカーという選択肢となる。乗るのはマーチ。朝8時すぎの出発で、帰りは松江駅16時発の広島行き高速バスを予約している。

まずは宍道湖の北岸に出る。ちょうど公園になっており、朝の散歩を楽しむ人の姿も見られる。路肩に駐車場があり、ちょっと下車して宍道湖畔の景色を眺める。

この後も宍道湖に沿ったドライブが続く。「宍道湖七珍」ということで、昨夜の一献のことなども思い出すのだが、松江近辺といえばどこに行ってもしじみである。ホテルのバイキング形式の朝食の味噌汁もしじみ入りである。飲食店、土産物店でもさまざまな商品があり、ネット通販でも数百グラム単位で販売されている。宍道湖のしじみは全国の出荷量の約4割を占めるというが、宍道湖広しといえども、そこまでしじみがたくさん生息するものかなと思う。

宍道湖、そして一畑電車の線路とは15キロほど並走し、一畑薬師に続く交差点に出る。灯籠をモチーフにした看板もある。松江市街からクルマで来るとこうした景色になるのだな。

そのまま一畑口駅の前を過ぎ、石灯籠から一畑薬師へ続く取付道路に出る。日陰に多少雪が残るくらいで、通行には問題ない。遠くに宍道湖、そしてその対岸を見渡すこともできる。

そして駐車場に到着。朝の9時前ということもあってか、他にはクルマが1台あるだけだ。ともかくお参りをしよう。

参道には「ゲゲゲの鬼太郎」の「目玉おやじ」がモデルとなって仏教の教えを説いた像が並ぶが、その手前に「島根半島四十二浦巡り」という文字の石碑がある。これは初めて見るものだが、昨年(2022年)に除幕されたばかりという。

「島根半島四十二浦巡り」とは、西の出雲大社から東の三保神社までの浦々と神社を巡り歩くもので、江戸時代半ば頃から行われていた信仰習俗である。一畑薬師はその結願の地だという。戦後にいったん廃れたが、2000年代に入り学者や神社関係者の手で復興がなされた。現在では認知度も高まり、島根半島の信仰の歴史とジオパークを体感できるとして、ウォーキングコースも整備されているそうだ。なかなか半島の北部まで行くこともないのだが、四十二浦すべてとはいかなくてもいくつか見てみるのも面白そうだ。

一畑薬師は中国観音霊場の札所として訪ねたことがあるが、あくまで寺の本尊は薬師如来で、島根県、いや中国地方全体で見ても有名なところだが、中国四十九薬師には含まれていない。薬師めぐりのシンボルとなってもおかしくないくらいだが、何か理由があってのことだろうか。

石段を上がり境内に入る。

本堂の前で手を合わせるが、そのままお堂の中に入ることができるようだ。以前は祈祷の最中だったので中に入ることはなかったが、今回は他に参詣の人もなく、扉を開けて中に入る。

内陣、外陣には多くの人形が奉納されている。ひな人形もあればぬいぐるみ、キャラクターの人形も多い。毎年3月8日に人形供養を行うそうで、それに向けての奉納である。

せっかくなので堂内でのお勤めとする。ちょうど貸し出し用の、一畑薬師での経本が置かれていたので広げてみる。唱えるのは「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」という薬師如来の真言と、「南無一畑薬師瑠璃光如来」である。

観音堂に向かう。こちらでは「百八観音霊場」のお砂踏みができる。中国、四国、九州の各観音霊場が合わさったこの霊場、中国に続いて先日九州西国霊場が結願となった。四国が残る形になったが、観音霊場めぐりのために四国に行くことについては今のところ考えていない。四国の札所めぐりとなると四国八十八ヶ所を無視するわけにもいかず、かといって2巡目をやるとなるとまた大変なことになりそうで・・。

納経所に向かう。中国四十九薬師の札所ではないが、ここは番外、特別霊場と自分の中で位置づけて、書き置き式の朱印をいただく。用紙のサイズも違う納経バインダーに最終的に綴るかどうかはまた考えよう。

最後に、薬師堂の井戸で汲んだ御霊水を使った一畑のお茶湯をいただき、寺を後にする。さすがに他の参詣者の姿も見えるようになり、門前の店も開店準備を始めていた。

一畑口の駅前まで戻るとちょうど松江、出雲それぞれに向かう列車が発車するとことで、近くの踏切で出雲大社前行きの通過を待つ。さすがに相手は電車だけに、この後並走しても追いつくのは難しいだろう・・。

しばらく宍道湖沿いに進むがそのうち別れ、平田の町並みを経由して出雲大社へと向かう。何度か参拝しているが、クルマで訪ねるのは初めてである・・・。

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