まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第41番「正法寺」~西国四十九薬師めぐり・9(石の寺)

2019年11月11日 | 西国四十九薬師

勝持寺から大原野神社を通って正法寺に向かう。極楽橋という橋を渡ると境内である。

まず目につくのは朱塗りの新しい建物で、遍照塔という。日露戦争の戦没者の慰霊ということで1908年に高台寺に忠魂堂として建てられたが、2007年に正法寺に移築されたものである。これを建てたのは亀岡末吉という明治~大正期の建築家で、他にも仁和寺の勅使門や宸殿、東本願寺の勅使門といった寺社建築や保存修理に携わったという。

続いて目に入るのが両脇に仁王像が並ぶ不動堂。扉を開けると土間のところでお参りする形になるが、ここは本堂ではない。矢印に従って進み、地蔵菩薩の脇を抜ける。境内の横から入った形で、改めて山門から入りなおす。書院が受付で、入山料を納めるのに合わせてバインダー式の朱印をいただく。本堂はこの奥にあり、そこで上がって本堂、庭園、さらには書院の中を通って先ほどの不動堂までお参りできると案内される。

本堂の前に広がる石庭を通る。砂利が波模様に掃き清められて枯山水が広がっている。手水鉢は大坂の鴻池家伝来という。

靴を脱いで本堂に上がる。

正法寺は奈良時代、唐から日本に渡った鑑真和上の高弟である智威大徳が隠棲して、薬師如来を祀って修行したのが始まりとされている。後に最澄が智威大徳のために大原寺として開き、弘法大師空海も乙訓寺にいた時期に智威大徳に師事したという。

しかしその後は応仁の乱の戦火で焼失し、江戸時代に正法寺として再興、桂昌院の深い帰依を受けて・・・という、この日たどってきた寺に共通する歴史を持つ。

本尊の千手観音は鎌倉時代の作とある。正面の顔の両側にまた別の顔があるということで、三面千手観音と呼ばれている。両側の顔は過去と未来を表しているといい、時間的にもつながる一切のものに救いの目を向け、千の手でこれらを救い取ろうという思いが込められているそうだ。その脇には阿弥陀如来像、聖観音像、弘法大師像などが並ぶ。本堂の奥が防火構造になっていて、そこに祀られている格好だ。

では薬師如来はというと、外陣の一角にある。こちらではチームではなく薬師如来単体が厨子に収められてデンと座っている。とりあえず薬師如来もひっくるめて本堂でお勤めとする。

続いて奥の庭園に向かう。宝生苑という建物の前に枯山水の庭園が広がるが、正面の塀が低く抑えられていて、そのため遠方の東山の景色とも一体となっていい眺めである。またこの庭園は「鳥獣の石庭」として知られている。配置された石が何となく鳥、兎、獅子、象、はてはペンギンなどの動物の形に似ているということで、解説のパネルもある。パネルと実物を見比べると、言われてみれば何となくそう見えるかなという程度だが、しゃれが効いている。先ほどから境内のいたるところに石が目立つし、こうした石庭もあるため、正法寺は「石の寺」とも呼ばれている。先ほどの勝持寺の「花の寺」と一対になっている感じがするが、この「石の寺」に集められた石は全部で200トンもあるそうだ。

宝生苑は客殿のようで、走る姿の大黒天が祀られていたり、座敷に腰掛けて石庭をゆっくり眺めることもできる。思わずここでお茶を飲みつつ弁当でも広げたくなるようなスポットだが、飲食は禁止とのことで念のため。

続いて戻る形で新しい感じの書院の中を通る。その途中に風景画の襖絵がある。大原野の景色を描いたもので、解説板によると地元の日本画家、西井佐代子さんの「遺作」とある。西井さんは幼なじみだった正法寺の住職から書院の襖絵41枚の制作を頼まれ、高速道路の建設などで変わりつつある大原野の原風景を描き始めたが、直後にがんが発見された。その後も闘病生活の中で17枚の襖絵を描いたところで亡くなった。作品名は「西山賛歌」という。都から少し離れて自然を感じるのに良いスポットだったことが、優しいタッチの絵から伝わってくる。

渡り廊下を伝って、不動堂の横扉から入る。春日不動明王と呼ばれる像が祀られている。

さて引き返そうかと立ったところで、入れ違うように寺の女性が清掃のためか入って来た。「こちらに神仏習合ということでお稲荷さんがあるので、拝んで行ってください」と、不動堂の奥へ案内される。拝殿があり、奥の石段の上に稲荷社がある。寺の境内に稲荷社があることじたいは珍しくないので、こういうのもあるのだなと手を合わせる。

ただ、これも記事にするにあたって初めて気づいたことだが、このお稲荷さんはただのお稲荷さんではなく、その「元祖」と言ってもいいくらいのものだというのだ。

正法寺を開いたのは智威大徳であることは先に書いたが、開いた時は正法寺は春日禅坊と称していた。智威大徳は修行中に禅坊から出ることがなく、老翁が一人仕えて身の回りの世話をしていたが、その翁には白狐が従っていた。当時の人たちは智威大徳を文殊菩薩の化身とあがめ、翁を神様の使いとして敬っていたという。やがて時が経ち、死が近づくのを悟った智威大徳は、禅坊の奥の石窟で坐禅に入った。すると翁も姿を隠し、白狐だけが石窟の前に控えていた。人々が石窟をお参りすると良い香りがただよっていたという。それをめでたいとして祠を建て、「狐王社」と名付けた。

後に弘法大師が東寺に入った際、姿を隠していた翁が稲を担って現れ、それ以来長く寺を護って奉仕した。弘法大師はこの翁を菩薩として迎え、祀ったのが今の伏見稲荷だという。つまり元をたどれば、日本のお稲荷さんの総元締めである伏見稲荷のルーツがこの春日禅坊、現在の正法寺にあるというのである。白狐が稲荷社の前にいるのもここから来ているとか。

・・・というのは正法寺のホームページに書かれたことである。では伏見稲荷大社側の見解はというと、いわゆる「諸説あります」というもので、これが確実なルーツと特定されていない。まあ、さまざまな伝承や当時の信仰がいろいろ寄せ集まって、いつの間にか何となく成り立ったというところだろう。

さてこの大原野めぐりにて勝持寺、正法寺の2ヶ所を回り終え、次の行き先のサイコロである。出目は、

1.西宮(東光寺)

2.羽曳野(野中寺)

3.舞鶴(多祢寺)

4.高野山(龍泉院、高室院)

5.海南(禅林寺)

6.湖南(善水寺)

出たのは「5」。西国四十九薬師めぐりで初めての和歌山県である。これで、2府5県全てに一度足を踏み入れることになる。また海南に行くということであれば、西国三十三所めぐりで紀三井寺も一緒に組み合わせることもできる。またこれを含めてプランを考えよう。

帰りは南春日町からバスに乗ろうと思ったが時間が合わず、再び灰方まで歩いて戻り、善峯寺から向日町行きに乗る。車内は西国詣でやハイキングとおぼしき客で結構賑わっていた。

今回は善峯寺以外のスポットに初めて訪ねた。これも札所めぐりとしてグループ化され、これらを回るきっかけになっている。西国四十九薬師めぐりは残り40ヶ所あるが、そのほとんどが初めて訪ねるところ。さまざまな歴史の勉強にもなるし、関西にもまだまだ知らない街並みがあるのを見るのも楽しみである・・・。

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